金による華北支配と宋の周辺諸国事情【12世紀前半~13世紀前半】
唐という長く続いた大帝国の混乱と共に周辺諸国には大きな変化が訪れ始めました。その動きに伴って生まれた宋の北方の契丹族の国、遼。やがてその遼も、遼の圧政下で台頭した女真族の国・金と宋がタッグを組んで挟撃されて滅亡しています。
ところが協力関係を築くうえでの約束を反故にしたため金が宋に侵攻。宋の皇族が江南に逃げ新たな南宋を建てたところまで前回はお話ししたので、今回はこうした「周辺諸国」に視点を当ててまとめていきます。
北宋の周辺国家
宋がなぜ金と結んだのかは位置関係を見るとすぐに分かります。
正確ではありませんが、北宋があった時代の北宋・遼・西夏・万里の長城のおおよその位置が下の地図。
宋が出来る前、武力を背景とした武断政治が行われていた五代十国時代に「王朝を開きたい」と考えた後晋と呼ばれる国が前王朝を追い出すため北部の遼と協力関係を築くのに差し出したのが万里の長城の内側の燕雲十六州です。
また、唐代に異民族対策のため置いた節度使が地方の行政・財政権を持つ藩鎮という有力勢力に発展して五代十国時代に突入した反省から、宋では徹底した文治政治で統治されました。
これにより宋の軍事力は極端に低下しています。代わりの異民族対策として行ったのが平和をお金で買う方法。
ところが、時が経つにつれ国家財政が火の車になっていきました。改革を実行するも保守派が反発。国力が弱まりはじめます。出来るなら遼や西夏に渡す歳賜をガッツリ減らす、もしくはなくす方向に持って行きたかったわけです。
遼の成立と衰退について
金が建国される経緯を見るには遼がどんな国だったのかも知る必要があるので簡単に。
8世紀頃から台頭し北アジアに勢力を誇ったトルコ系のウイグルがイェニセイ川上流(モンゴルにある盆地を源流としてシベリアを通過、北極海にそそぐ川)にいたキルギスの侵略を受けて分裂し、西遷した隙にモンゴル高原に勢力を伸ばした契丹族によって10世紀初めに建国されたのが遼という国です。
モンゴル高原周辺に住んでいた諸部族の多くは、そのまま遼に服属したようです。
遼の関連年表
モンゴル高原東部に暮らす遊牧民の一部族として契丹人が遊牧・狩猟生活を営んでいた
民族交代の契機に。契丹がモンゴルで勢力を伸ばし始める
耶律阿保機(やりつあぼき)が統合
耶律阿保機が建国し、帝位につく。建国当初は大契丹国と称したが、二代目の太宗の代で中国風の名前・遼とした
タングート(党項)や吐谷渾(とよくこん)などを征服。オルドス地方まで支配を拡大
五代十国時代、後晋の石敬瑭の建国を援助した見返りに領土を貰い、万里の長城の向こう側へ進出。華北の大部分を支配したが、民衆が抵抗→撤退
華北にあった頃の宋を北宋、南方での宋を南宋と呼んで区別した
宋が中国統一の勢いで燕雲十六州を奪還しようとしてきたのに対し反撃
宋の立場を上としたうえで国境を維持する代わりに毎年多額の歳幣を受け取る約束をした
華北を統治し、中国文化にどっぷりつかるようになったため、遊牧民族特有の精悍さが欠けるようになってくる
女真族が現在の黒竜江省(中国北東部)にある都市を首都と定めて国を建国
金と宋の挟撃により滅亡した
遼の王族・耶律大石が西トルキスタンまで逃れて、新たに西遼(カラ=キタイとも)を建国。その地にあったカラ=ハン朝を滅亡させた
遼の場合、北方民族でありながら初めて中国本土も支配した征服王朝でもあったため、その統治の仕方は少々変わったものになりました。
北部の契丹族はじめとする遊牧民族には部族制を用いて北面官が統治し、南部の農耕民族には中国のこれまでの王朝でも用いられてきた州県制を用いて南面官が統治する二重統治体制が築かれています。
軍事的には北が圧倒的に有利でしたが、南は「農耕」文化により「財を多く蓄えられる」という大きな強みを持っていたため、次第に力関係が逆転し南部の発言権が増すようになっていきました。
こうした背景から遼の強みを徐々に消すこととなり、1115年には金という新たな国が独立したのでした。
西夏について
西夏はチベット系のタングート(党項)族が建てた国。起源は唐の初期まで遡れます。
タングート族は勢力を拡大させ、吐蕃(とばん、7~9世紀頃チベットにあった統一王朝)やウイグルの衰退に乗じて東西交通の要所・敦煌(とんこう)に進出、似たような時期に起きた黄巣の乱での功績により節度使となり、有力な藩鎮勢力としてその地位を確立させていました。ところが、宋の時代になって藩鎮勢力が解体されたために対立し始めます。
こうした対立の末に出来たのが1038年、族長の李元昊(りげんこう)が建てた西夏です。
※国号は大夏。西夏は宋から見た呼び方
当然、宋は西夏の存在を認めず戦いに発展。この戦いの勝利により『慶暦の和約』と呼ばれる約束事を西夏と結び、毎年多大だ歳賜を贈られることになりました。
西夏の場合は、元々が藩鎮勢力として中華に組み込まれていたところからのスタートだったこともあって中国式の文武の官制や儀礼などを採用。州・郡を設ける中央集権体制により統治しました。
一方で完全に中国と一致した文化というわけでもなく、タングート族独自の髪型を徹底的に普及させる禿髪令を出したり漢字を真似て作った西夏文字なんかも残しています。
西夏は一時的に(後述する)女真族が建てた金に服属したりしながら1227年世界的に大きなインパクトを与えたモンゴルのチンギス=ハンにより滅亡させられました。
金の成立と華北支配
ここら辺の経緯は宋の統治について書いた記事に書いてあるので成立に関しては簡単に。
女真族が遼の圧政下に約200年近く置かれていた頃、遼内部のゴタゴタや中国化などで力を失いはじめた最中に女真族の一部族・完顔(わんやん)部の首長阿具打(あぐだ)が部族の統一を進め1115年に遼から自立し、金を建国。
1125年、金の第2代太宗の代で宋と結んで遼を滅ぼしています。
滅亡の際に遼の王族・耶律大石(やりつたいせき)が生き残り西トルキスタンに逃れますが、この地域にはトルコ系のイスラーム国・カラ=ハン国が存在。耶律大石はカラ=ハン国を滅ぼして西遼を建国しました。
一方、遼が滅んだ後の金は宋と仲が悪くなっていきました。というのも戦費の支払いに関して宋が舐めた態度を取り続け、背信行為を重ねていたためです。
とうとう我慢の限界に達した金は靖康の変を起こし、宋を滅亡させ南へ逃げた宋の王族が新たに南宋を築き、『紹興の和約』と呼ばれる「南宋を臣下として組み込み、かつ歳賜も送らせる」という和議を結びました。
結果的に金は中国東北部から内モンゴル、華北に広がる非常に広大な領土を統治することとなります。
金による統治
遊牧民族による華北支配は金で二回目。文化・風習が全く異なるため、金の太祖は遼と同様に二重統治体制で統治に望んでいます。
元々華北統治以前の段階で女真族特有の社会制度を元にした猛安・謀克(もうあん・ぼうこく、もしくはミンガン・ムケ)を再編し、軍事・行政制度として発展させたうえで女真族を治めていました。
が、統治に華北も含まれるようになったため、南部では中国式の州県制を導入したのです。
やがて第4代海陵王(1149~61年)の代になると南宋攻略を目指す一方で現在の北京(燕京)に遷都して中国風の専制国家にしようという方向に傾きはじめ、次代国王は南宋と和睦を結び平和な時代を迎えました。ちなみにこの時、金は歳貢を少々減額させています。
金の衰退
遼の時と同様、金でも中国化が進んで遊牧民の強みを失い始めていた中で南宋攻略を目指して戦っていたため、あまり上手くいきませんでした。それどころか戦費が嵩み財政的に厳しくなってしまいます。
↑完全に同化されるのを防ぐために女真文字を作ったり独自の文化も築いたが、飲み込まれた感じですね
海陵王の代で戦費調達のために初めて紙幣(=交鈔)が発行されて以降、財政悪化の度に発行しすぎるという禁忌に手を出してしまったのです。
お金を擦りすぎるとどうなるか??当然お金の価値が下がり、インフレーションが起こって経済的に大混乱に陥りました。
運の悪いことに...金が混乱し始めたのと似たような時期の1206年、チンギス=ハンがモンゴル系の部族を統一しモンゴル帝国を建国。翌年には近隣の西夏を服属させています。
やがてモンゴル帝国の二代目、オゴタイ=ハンが華北へ侵入。モンゴルと南宋に挟撃され、1234年に金は滅亡することとなりました。