江華島事件のきっかけ~日朝修好条規が結ばれるまでを簡単に解説
江華島(こうかとう)事件とは、1875年9月20日から始まった日本と(李氏)朝鮮の間で起こった武力衝突事件のことです。
日本の軍艦・雲揚号が、朝鮮の首都・漢城(ソウル)にほど近い江華島付近の海域で「挑発行為を行った」として江華島の砲台から砲撃を受けたことに始まります。この軍艦・雲揚号の名前から雲揚号事件とも呼ばれる事件です。
ここでは江華島事件について詳しく簡単に迫っていこうと思います。
江華島事件発生前の日朝関係悪化の背景とは
日本はひっ迫する国際情勢をうけて列強と対抗するために隣国との正式な国交樹立を目指すようになりました。
日本としては開国を迫られただけでなく、アヘン戦争をはじめ欧米列強によるアジア進出の動きを警戒していたためです。中でもロシアの南下政策は危惧するものでした。
朝鮮への対応は1868(明治元)年に日本で新政府が樹立した頃から始まります。新政権が発足すると、すぐに朝鮮に対して「新政府樹立の通告」と「近代的な国交を結ぶ」旨が書かれた外交文書を江戸時代から交流のあった対馬藩を通じて送付しました。
ところが、この文書の中には朝鮮が認めることのできない文字「皇」と「勅」などが含まれていたため、朝鮮側は拒絶します。また、日本側が汽船に乗ってきたことも朝鮮側は咎めていたようです。
なお、この時期の朝鮮側の権力者は大院君。攘夷派を掲げる人物だったことから、しばらく国書問題は膠着することになります。
大院君は王位が父から子へ直系で継承されなかった場合、新しい国王の実父に対して贈られる称号で、本来「大院君」は何名もいます。
が、朝鮮末期の高宗(即位時は11歳)の実父・興宣大院君があまりに有名なため「大院君」と言えば日本では興宣大院君を指しています。
※李氏朝鮮が明治政府の交渉態度に不満を擁いた理由は『急速な変化に対して起こった新政府への反乱とは?』で触れてるので、よかったら確認してください
日本側の事情ー征韓論の高まりー
何度国書を送っても断られることが続き、あまりに朝鮮との外交が膠着状態に置かれたため、日本側は「武力をもってしてでも朝鮮を開国しよう」という考え方・征韓論に行きつきました。
外交のために欧米視察に行っていた新政府の中心に立つことになる岩倉使節団の参加者たちは、欧米の様子を見て「今は内政に力を注ぐべきだ」と朝鮮への武力行使を反対しています。
明治六年の政変(1873年)
日本では征韓論を支持する西郷隆盛や板垣退助など留守政府を預かった者たちが、征韓論を巡って起こった明治六年の政変を機に辞職する事態になりました。
その後、西郷は西南戦争を、板垣は自由民権運動を主導して古い体制に終止符を打ち、近代国家形成の礎を築くことに。
何はともあれ、朝鮮にとって日本は油断ならない相手となっていたわけです。
朝鮮の内部事情
これまで強硬な攘夷策を行っていた大院君。
彼が行なった(日本に対するもの以外の)攘夷の具体例を挙げると…
- 丙寅洋擾(へいいんようじょう)<1866年>
キリスト教の布教が本格化して宮中にまで影響力を持つようになったため、フランス人宣教師やキリスト教徒を弾圧。フランスと戦いに発展。最終的に朝鮮が勝利するも、一時的に江華島が占領された。 - 辛未洋擾(しんみようじょう)<1871年>
1866年に交易を求めたアメリカ商船に軍人一人が人質に取られ、現地の住民が殺害され、朝鮮が反撃して船を沈め乗員が全員死亡した(ジェネラル)シャーマン号事件の報復としてアメリカ海軍が漢江に侵攻した事件。最終的に多大な被害を出しながらもアメリカを追い返しましたが、この時にも江華島は占領された。
上記のような戦いで列強を追い返した件もあって、大院君は攘夷の意思を強めることになっていました。どちらのケースも江華島が大きな役割を果たしています。
閔氏との対立と大院君の失脚(1873年)
1863年に11歳で即位した高宗が成人し、親政を宣言したことで大院君と大院君一派は追放されました。その背景には大院君の独裁的な政治で官僚から嫌われ始めたことが関係していたようです。
これを機に高宗の王妃・閔妃と閔氏一族が政権の中枢を担うようになり、大院君は影響力を排除されていきます。同時に大院君は政権復帰のための運動を行い、政権に混乱を招きました。
台湾出兵(1874年)と外交政策の変更
明治六年の政変が起こった翌年、日本の領土初の海外派兵が行われました【台湾出兵】。
当時の情勢では国境の曖昧な状況は列強に付け入るスキを与えるだけです。当時の琉球は江戸時代から続く薩摩藩による支配と清朝を宗主国とする二重支配に置かれていたため、日本側は帰属をはっきりさせようとしたわけですね。
詳しくは別記事に書きますが、台湾出兵で日本は1871年に「琉球王国の漁民が台湾人に殺害された事件の報復」を口実に出兵。琉球を属国と考えていた清は「日清修好条規に反する」と日本に対して強く抗議しました。
日清修好条規は1871年に両国にとって初の対等な関係で結んだ国際条約のことで「領土」に関して「侵越しない」とルールを決めていたのですが、当時の清国は洋務運動真っ最中で派兵するまでには至らず。日本は台湾出兵で目的を達成し、琉球は自国の領土となっています。
ということで、朝鮮側からすれば内部の力関係の変化や日本の強硬姿勢を間近で見たこと、日本側からすれば台湾出兵が不平士族たちの多少のはけ口となったことで日朝間の交渉が以前よりはスムーズに行われるようになりました。
征韓論は、そもそも
- 不平士族の不満を対外戦争に向けさせようとする思惑
- 軍事階級(江戸時代には官僚化していますが)だった士族の活路を見出そう
という意図があったようです。
ところが、この時も朝鮮の攘夷派の反対意見は強く日本に交渉を断念させています。
江華島事件の発生
日本は「ロシア対策のためにも近代化しておいてほしい」と考えていましたが、実際には交渉はうまく進みません。
交渉にどれだけかかるか分からない状況、あまりに一方的な攻撃だと国際社会からいろいろ言われる可能性…様々なことを考慮した結果、日本は朝鮮に対して挑発行為を取って朝鮮側からの攻撃を待つことにしています。
江華島の場所を確認
江華島(こうかとう/カンフワド)は首都・漢城(現ソウル)の北西に位置する島のこと。かなり近いので、古くから首都防衛で重要な場所となっていました。
漢江の河口に位置する平坦な島で、1656年にはチョジジン(草芝鎮)と呼ばれる砲台が島の南東の海岸線に築かれました。また、南方に位置する永宗島にも砲台が設置されています。
雲揚号の派遣と江華島事件の勃発
朝鮮との話し合いが進まないことから朝鮮との交渉を担当していた外交官が軍艦派遣を求め、実際に朝鮮近海で測量や航路研究を名目に軍艦・雲揚号が出向しています。
当然ながら裏の目的は朝鮮に圧力を加えることにあります。首都に近い江華島にも接近して錨を下し、ボートで近づいたため江華島から砲撃を受けることになりました。この砲撃を機に日朝間では武力衝突に発展します【江華島事件】。
最終的に日本は江華島の砲台を壊し、江華島の南部の島にある永宗城を占領したのでした。
日朝修好条規の締結
江華島事件の後に、日本の軍事力を背景に結ばれた条約のことから別名・江華条約ともいわれている条約が日朝修好条規です。
主に
- 朝鮮は独立国であり、日本と対等の外交権を持つ(=清が宗主国と認めない)
- 釜山・元山・仁川の開港
- 漢城に日本公使館、各港に領事館を置くこと
- 日本の治外法権・領事裁判権を認めること
- 朝鮮からの米殻輸出の自由
などが決められました。
さらに通商章程で、朝鮮は関税自主権の欠如することも強制させられています。
また、日本との条約を結んだため、以前から開国を望んでいた欧米諸国も似たような条約を朝鮮と締結。
清としては日本だけが朝鮮の開国を享受する状況は避けたかったようで、欧米列強との間の開国に際して朝鮮に介入していたなんて話もあります。ロシアが南下して来た時に日本だけでは心許ないですしね。
清が朝鮮への介入を強めた理由として、清の属国の立場が揺らぎ始めていた点も挙げられます。
そんな感じで、朝鮮を取り巻く状況は一変。
内部も異国への譲歩を迫られ、高宗や閔氏政権も改革の必要性を感じるようになりますが、多額の資金が必要で不足分が増税によって賄われました。
さらに日朝修好条規の締結までに至る経緯(砲艦外交)や「米殻輸出の自由」で米が大量に輸出して米価などが高騰したことなどから日本への悪感情が増加。後の壬午軍乱や1880~90年代の農民反乱に繋がると、一時的に大院君が復帰するなどして政局は大混乱となります。
こうして朝鮮は大きな危機を迎えることとなるのです。
壬午軍乱がどんなものだったのかは『日本・清・ロシアの微妙な関係を詳しく解説【朝鮮問題】』に載っているので、よかったらご覧ください。