同治帝治世下に行われた洋務運動とは?中国近代化の始まりを詳しく解説
アロー戦争(1856~1860年)、太平天国の乱(1851~64年)と大混乱が起こった清では西欧列強の近代的な文明を導入する必要性を強く感じるようになっていました。
そんな大混乱の真っ最中の1861年に第9代皇帝・咸豊帝(かんぽうてい)が崩御すると、咸豊帝と西太后の長子・同治帝が6歳で即位します。
同治帝の治世は、西太后が垂簾聴政を開始し実権を握るようになった時代です。また、即位後にこれまでのアロー戦争・太平天国の乱が終結し、一時的に安定した時代に突入します。この時代は同治の中興と呼ばれ、近代文明を取り込もうとする動き、いわゆる洋務運動が行われるようになりました。
ここでは、そんな清朝版の近代化政策・洋務運動がどのように進められていったのか詳しくまとめていきます。
咸豊帝の死後に起きた辛酉政変
咸豊帝の生前からアロー戦争の敗北などで「西洋の文明を取り入れた方がいい」「産業や軍政を整える方がいい」と考える者たちが王朝の上層部や漢人官僚の中に増えはじめていました。清朝の国力増強を図ろうと考えはじめていたのです。
そんな漢人官僚の代表には曽国藩や彼の部下である左宗棠(さそうとう)、李鴻章らがいます。曽国藩や左宗棠、李鴻章は太平天国の乱のときに活躍した人たちです。軍事力と共に発言権も持つようになりつつありました。
※彼ら3人に張之洞(ちょう しどう)を加えて、四大名臣と呼ばれるほど洋務運動の中心的な役割を果たすようになります。張之洞は、同治帝の死後、3歳の光緒帝を西太后が擁立する際に支持したことで取り立てられた人物です
咸豊帝は外交面で大幅な譲歩を迫られてはいましたが、それでも国難の中で曽国藩や李鴻章などを抜擢し、どうにか抗って一定の成果を収めています。
が、咸豊帝が30歳で1861年に結核で亡くなります。これを機に列強からの要求に強硬姿勢をとった粛順(しゅくじゅん)一派を西太后(咸豊帝の側室)・東太后(咸豊帝の皇后)・恭親王(皇族)らがクーデター辛酉政変(しんゆうせいへん)で追い出し、同治帝が即位しました。
彼らは排外政策から転換させると、洋務運動を展開していったのです。
洋務運動(1860年代~90年代)
洋務運動は西洋の機械文明を積極的に取り入れようとしたものです。一方で、中国の伝統的な文化や制度は「そのままでいよう」というのが基本理念となっていました。
いわゆる「中体西用」という考え方です。
軍事面での変化
外国語学校の設立などもなされましたが、清が最も重視したのは軍備増強と軍需工場の建設でした。
- 李鴻章:江南機器製造局(上海/鉄砲・弾薬・汽船製造)
金陵機器局(南京/鉄器・大砲・火薬) - 左宗棠:福州船政局(造船所)
- 崇厚(すうこう):天津機器製造局(火薬・砲弾)
※崇厚・・・満州貴族、12世紀の頃の『金』の皇室の末裔
上記のような四大工場と呼ばれる設備が作られた他、陸海軍の学校や外国語学校も設立されています。江南機器製造局では欧米の書籍が翻訳・出版までされていたと言います。
陸海軍学校の中でも有名なのが、ドイツ人教官によって近代的な軍事教育を受けた陸軍軍人を養成する天津武備学堂。李鴻章によって1885年に作られました(1900年の義和団事件の時に破壊されています)。別名北洋武備学堂。軍人として育成された卒業生の一部は後の北洋軍閥の指導者となっていきます。
なお、洋務運動を進めた四大名臣の一人・曽国藩は兵器工場の設立や留学生の派遣などにも関わってはいますが、1872年に亡くなりました。
軍事以外の産業振興での変化
産業振興の分野でも李鴻章は存在感を放っていました。もう一人産業分野で存在感を示したのが張之洞です。
- 李鴻章:江南機器織布局(上海/綿糸・綿布の生産)
輪船招商局の設置(海運会社) - 張之洞:大冶鉄山開発
漢陽鉄廠(かんようてつしょう)(製鉄会社)
李鴻章は上海に設置した江南機器織布局で綿紡織業を起こし、輸入代替化の進展を狙いますが、これまでの経緯から航運業は外国汽船会社に支配されていました。そこから運輸分野でも李鴻章が半官半民の海運会社、輪船招商局を設置するよう提案しています。
湖北・湖南省の総督を長く務めた張之洞はドイツと共に大冶鉄山の開発を進めただけでなく、自強学堂(現・武漢大学)の創立、自強軍の設立などを行いました。
これらの事業は官僚監督のもと、民間から資金を集め民間人が事業を遂行する官督商辦(かんとくしょうべん)という大資本を集めるのに有効な手法を取って進められています。
なお、産業振興を主にリードしていた李鴻章も張之洞も、当時は風水上の思想から鉄道敷設に反対する者が多い中で鉄道敷設を推進していました。
洋務運動の結果
上記のような形で進められた洋務運動によって、近代的な教育が軍需工場の付属学校で行われたこともあって人材の育成に大きく貢献。中国の近代化の基盤として大きく貢献しています。
一方で、清仏戦争(1884~85年)で福建艦隊が全滅した件や日清戦争(1894~95年)で北洋陸軍と北洋艦隊が壊滅した件から失敗とみなされることになりました。
同時期に行われた近代化政策として日本の殖産興業と比較されることがありますが、清の場合は
- 地方の大官がリードしてバラバラに進めた
⇔日本では中央が先導して行なうことができた - 数々の戦争終結後に秩序を回復しながらの近代化で既存勢力(特に北京では保守派の反対が大きかった)の抵抗が大きかった
⇔日本は内乱はあったものの新たな政権を作ったため、抵抗勢力がほぼなかった - 既存システムが存続していて近代化を取り入れるにも限度があった
⇔日本の場合は既得権益争が少なく、システムごと取り入れることが可能だった
上のような状況がネックになって失敗となったようです。