列強による中国分割と義和団事件/北清事変
1894(明治27)年、朝鮮で甲午農民戦争が起こったのをキッカケとして発生した日清戦争。両国ともに軍などの近代化や強力化を進めていましたが(日本→富国強兵/清→洋務運動)、結果は当初の予想を裏切って日本が勝利しました。
以降、清国の領土は列強に次々と分割されることになりました。
数々の列強による理不尽に対して、拒否反応を起こした結果が「扶清滅洋(清を助けて西洋を滅する意味)」のスローガンを掲げる義和団と呼ばれる秘密結社による反乱【義和団事件】です。
ここでは義和団がどんな組織だったのか、義和団事件の背景、義和団事件が起こった後の清への影響についてまとめていきます。
義和団とは?
義和団とは中国の山東省で生まれた宗教団体で、義和拳と呼ばれる拳術や棒術など武術に長けた組織です。
南宋(1127-1279年)の時代の初めに起こった浄土信仰の一派・白蓮教の流れをくむとも言われています※。
※元代末期に起こった紅巾の乱を起こした宗教団体でもあり、何度も禁教扱いにされていました。取り締まりの対象になるような民間の宗教結社は白蓮教と呼ばれていますが、そうした宗教結社が白蓮教を名乗ったことはなかったようです。
もう一つ、清の時代に地方に存在していた盗賊などから地元を守ろうという自発的な武装組織・団練が大きくなっていった説もあるようです。
中国分割
日清戦争で清の敗北を見た欧米列強は、清への介入を強めていきました。
日清戦争では講和条約【下関条約】(1895年)で日本への賠償金と共に日本が遼東半島・台湾・澎湖諸島の割譲が決まります。そのうち遼東半島はロシアも狙っていた場所だったため、ロシア(ニコライ2世の治世下)の蔵相ウィッテが主導して利害の一致していたドイツ・フランスと共に三国干渉を行ない、遼東半島が清国に返還されることになりました。
ニコライ2世は皇太子時代、日本旅行中に切りつけられた【大津事件】で日本観が大きく変わっています。
▶ ニコライ1世の治世~日本との関係悪化まで【ロシア史】
露・独・仏は三国干渉の見返りなどを理由に、イギリスは対日賠償金の借款供与の見返りを理由に次々と租借地や鉄道敷設権などの権益を獲得していくことになります。
- ドイツ:膠州湾を占領・租借(1897年)
- フランス:広州湾(1899年)
- イギリス:香港対岸の新界の租借(1898年)/九龍半島・威海衛の租借(1899年)
- ロシア:旅順・大連の租借(1898年)
これらに加え、周辺地域の鉄道敷設権や鉱山採掘の権利などまで認めさせました。鉄道敷設権の中には露清密約による東清鉄道の敷設権も含まれます。後に日露間で大きな問題に発展しました。
このどうにもならない状況は【中国分割】と呼ばれます。
一方、それまで清国で優位に立っていたイギリスが露・独・仏などの他の列強が出張ってくるのを面白くないと考え、裏でアメリカ合衆国に働きかけたことで1899年にアメリカのジョン・ヘイが門戸開放宣言を発表することになりました。
イギリスが門戸開放なんて言い出せば「お前が言うな」状態になるため、アメリカに働きかけました。アメリカもアジア進出に出遅れていたため、他の列強に釘を刺しておきたかったようです。
門戸開放とは「商業も工業も全ての国、すべての国民が平等に機会に与えられるべきだよね」という主張のこと。他にも色々ありますが、列強に対して「抜け駆けすんなよ」と牽制をしたわけですね。
これにより、いったん清の分割は落ち着くことになっています。
義和団事件(1899年)
以上のような経緯があったため、清国内では列強に対する反発や彼らが信仰するキリスト教に対して大きな反発が産まれていました。
日清戦争によって王朝の体制見直しと近代化の必要性を感じ取って康有為らによる変法運動を推した当時の皇帝・光緒帝でしたが、反キリストの意思を持っていた西太后をはじめとする保守派の反対にあって戊戌の政変を起こされ光緒帝は幽閉され近代化にも失敗します。
民衆の方でも反キリスト教の動きが実際に起こるようになっていきます。キリスト教に対する排撃運動は仇教運動とも呼ばれ、教会・宣教師といったキリスト教に関連する組織・人を襲撃する事件が増えました。
地方の郷紳と呼ばれるエリート層が運動を主導することもありましたが、そうした郷紳ばかりではありませんでした。さらに国のトップ層も外国人に対して下手に出ている様子を見て一般民衆の失望は大きくなっていきます。
そんな中で「扶清滅洋」を掲げる組織が出てきたらどうなるでしょう?あっという間に規模を大きくするのは簡単に想像できますね。
こうして民衆蜂起・義和団事件が起こったのです。
やがて義和団に加えて同じような武装集団の団体も呼応して20万人にも及ぶ大軍となり、一気に北上。北京や天津も占領しました。宣教師だけでなく、外国人の外交官たちも次々と殺害していきます。
当然ながら外交問題に発展。最初は暴動として内々に済ませようとしていた西太后でしたが、そういうわけにもいきません。
最終的に出した結論が、清による列強への宣戦布告でした。
八か国連合軍の派遣
イギリス・ロシア・フランス・ドイツ・オーストリア=ハンガリー帝国・アメリカ・イタリアの欧米7か国に日本も加えた八か国連合軍が義和団鎮圧に乗り出します。
最初に動いたのがロシアです。このロシアが大軍勢を派遣した情勢に対してイギリスはかなり敏感に反応しました。
※イギリスとロシアの対立については、色んな所で書いているので割愛。『分かりやすい初期議会について<明治時代>「第5回帝国議会」』などの記事に書いてあります。
とはいえ、場所は東アジア。
大軍を派遣するにはどうしても時間が必要なうえに、本国や他の植民地での諸問題のために兵力を避けなかったという事情もありました。そこでロシアを警戒する清の隣国・日本に対して財政援助付きの出兵を要請します。
日本としても「ロシアが清国で大きな顔をされてはたまらない」ということで派遣を決定。八か国連合軍の中でロシアと同じくかなりの派兵を行いました。
なお、日本側の意図としてはロシアへの牽制の他に
- これまで朝鮮支配の優位性を清に奪われていたことから優位に立ちたい
- 清での日本の権益拡大
- 列強各国へ存在感を示し、不平等条約改正への足掛かりにしたい
などの思惑も持っていたようです。
これらの国々が動いたことで、状況は一変しました。
義和団事件の鎮圧
世界の近代的な陸軍と農民主体の軍ですから清は列強に圧倒され、列強に北京は占領されました。西太后は北京にある紫禁城から西安に逃げ出します。
この時の北京占領で日本軍が規律ある働きを見せたことが後の日英同盟締結の布石となっています。
一方で張之洞や李鴻章らは清の宣戦布告に対して「偽詔だ」として八か国連合軍との対立に乗り出していなかったほか、地方の大官たちの中にも義和団の影響が及ばないように動いていた者たちがいたそうです。
※李鴻章の活躍が目立つようになった頃のお話は『太平天国の乱(1851-64年)について背景や流れまで簡単だけど詳しく解説』に記載しています。
西太后は命令に従わなくても処断しないことで戦争に失敗しても義和団だけに責任を取らせようと保険をかけていました(不支持を表明して処刑された者たちもいたようですが)。
実際に清朝は北京が八か国連合軍によって陥落されてから義和団のことを「匪賊」と呼んで反乱軍認定し、それからの義和団は清とも戦わなければならなくなっています。西太后も乱の責任を追及されませんでした。
義和団に参加した者や好意的な目で見守っていた者にとっては、この出来事が清への失望に変わったことは間違いありません。
北京議定書(1901年)
この義和団事件の戦闘による事後処理として結ばれたのが北京議定書です。義和団事件に乗り出さず、情勢が変わってから鎮圧に乗り出した李鴻章らが清の代表として交渉に臨んでいます。
内容は多岐にわたった厳しいものでしたが清に拒否を一切認めない形で
- 北京周辺への外国部隊の駐留
- 多額の賠償金支払い
- 総理各国事務衙門(外交を管轄する官庁)の設置
- 義和団に同調した者の死刑
などを承諾させています。
北京議定書で決められた賠償金があまりにも多額すぎたために国際的非難が高まると、アメリカが清華大学を創設(1911年)したり、日本が東方文化事業を発足(1922年)させて日中関係の改善や留学生への援助を行ったりするなどしています。
その後、近代化の必要性を痛感した清朝が光緒新政を開始。反西欧派が処断されたことで改革がスムーズに行われた一方で、賠償金で予算が限定されるほどだったそうです。
義和団事件の影響
以上のようにして義和団事件の幕が閉じたわけですが、この一件は清国内外に大きな影響を与えました。
清国内への影響
清の反植民地化が進むと同時に、清朝への不信感から孫文らによる打倒清朝の動きが内部で始まるなど清滅亡への動きが加速していきます。
一方、王朝内部では義和団事件鎮圧の功績で袁世凱が台頭し、直隷総督・北洋大臣となっています。
袁世凱は変法運動で康有為に協力しながらもクーデターで裏切り、清朝の要請で外国軍の戦闘をするような命が出ても従わずに兵力を温存という立ち回りの上手い政治家でした。
後に孫文とも繋がることになるのですが、また別のお話です。
日露の対立悪化と日英の接近
実を言うと、北京議定書で決められた北京周辺での駐留軍とは別に、義和団事件の混乱に乗じてロシア軍が満州(中国東北部)を軍事占領するようになっていました。
他の列強や清国から批判されていますが、なかなか撤退しません。
ちなみに満州は、日本が日清戦争で独立をもぎ取った朝鮮のすぐお隣です。清の影響力をようやく排除したのに、ロシアが進出してきては困ります。
同じくロシアを牽制したいイギリスが日本と接近し、日英同盟が成立。さらに日露間の対立が激化して日露戦争に繋がることとなったのです。