紅巾の乱とは?背景から経過までを簡単に<1351-1366年>【中国史】
13世紀のユーラシア大陸はモンゴル帝国がその存在感を放っていた時代でしたが、14世紀に入ると天災が続き、各地で政治的に大きな動きがではじめます。
14世紀には各地で大きな政治的変化が起きていた中、中国も例外ではなく混乱が始まります。
紅巾の乱をはじめとする様々な反乱が起こり、明が成立したのです。今回は、紅巾の乱に焦点を当てて見ていこうと思います。
紅巾の乱が起こった背景とは?
当時の王朝・元では、
- 政権内部の権力争い
- チベット仏教への多額のお布施
- 凶作・飢饉
- 疫病(ペスト)
などが頻発し、末期に入ると反乱が頻発。中には南方の浙江・福建といった経済の重要地域での海賊行為によって元の輸送船を襲う者も増えていました。
ここの輸送が滞ると元にとって致命傷になるため(南部は中国全土を賄える程の米を作ることが出来た「蘇湖(江浙・こうせつ)熟すれば天下足る」と言われた経済的に豊かな地域)、元は海賊たちと繋がりを持っているとされた塩の密売人・方国珍へ討伐軍を送ります。
ところが、元は草原出身で騎馬には強くても海戦はとにかく弱かったため惨敗。これを機に元の衰退が目に見えるようになり、反乱の機運が高まります。
その中で出てきた最も大きなものが白蓮教徒による蜂起です。
白蓮教とは?
元々は浄土信仰から興った民間宗教の一派の白蓮宗と、弥勒仏の下生によって民衆を救済し、この世が繁栄するという弥勒下生信仰が合わさって出来た信仰です。
弥勒下生に合わせて現世の変革を・・・という終末論、または救世主を待望する要素が強い信仰のため、王朝としては無視できないものでした。
なお、白蓮教の教祖・韓山童は北宋の※徽宗の末裔を名乗っています。
- 徽宗はどんな人物?
徽宗は金に攻め込まれた際、子に譲位しているので北宋の最期から二番目の皇帝に当たります。
芸術には秀でていましたが、政治の才能は皆無。皇子と皇女分かっているだけで70人はいたようです。
北宋の最後、靖康の変で金に攻め込まれた後、皇女たちは金の皇帝や皇族、将兵らの妻妾にさせられたり官設の妓楼で娼婦にさせられたりしたため、末裔は沢山いたと思われます。
紅巾の乱の発生(1351-1366年)
紅巾の乱が発生する直前には経済混乱や凶作・飢饉に疫病と散々な状況だったわけですが・・・
その混乱を抑えるなどのために元王朝が行ったのが交鈔(紙幣)の発行の濫発や専売制度の強化です。『唐の動揺と衰退』の際に行った塩の専売は元王朝でも行われていました。
※元に軍を送られた方国珍も塩の密売人です
1342年以降、大氾濫を繰り返すようになっていた黄河では、塩の一大産地が洪水でやられたり輸送が出来なくなったりする危険がありました。
ただでさえ疲弊中の近くの農民を治水工事に当たらせたため、不満が募っていきます。
そうした河南で黄河の土木工事を請け負っていた人夫達を白蓮教の教祖・韓山童は扇動、反乱を企てたのです。が、この時は挙兵前に発覚し処刑されています。
そこで同じく紅巾の乱の指導者の一人が韓山童の息子・韓林児を擁立し、韓山童の意思を貫いて白蓮教で繋がりを持つ農民たちと共に、1351年、蜂起。これを紅巾の乱と呼んでいます。
二つの紅巾軍
韓林児を擁立した指導者は自らを小明王を称して、韓林児を皇帝として新たな政権を立ち上げました。父親が徽宗の末裔を名乗っていたため国号を「宋」とさせています。
これに呼応して立ち上がった者の中には後に明を建国する朱元璋を見出した安徽の郭子興も含まれますが、中には、宋とは別口で皇帝を名乗るものも出てきました。これが湖北の徐寿輝です。
韓林児や郭子興らが中心の宋の勢力を「東系紅巾」、徐寿輝らを「西系紅巾」と呼び区別しました。
紅巾軍の衰退
彼らはそれぞれ別方向へ進軍するも「統治する」という明確なイメージを持って反乱を起こしたわけではなかったため、武将間で内部対立が起こるなどで次第に力を失っていきます。
結局、東系紅巾として参加した郭子興が志半ばで亡くなります。彼の軍を引き継いだのが、郭子興が気に入って養女の婿として迎えた朱元璋でした。
朱元璋は韓林児を保護することに成功して東系紅巾軍の主導権を握りますが、途中で韓林児が亡くなると(朱元璋の部下に暗殺されたとも言われている)方針転換。
紅巾軍の一武将として動くのではなく、弱体化を始めている紅巾軍や白蓮教と縁を切る方向に舵を取りました。
その後、長江の下流域・江南を抑えると、江南の経済力を背景に他の群雄たちを勢力下に次々と吸収。今度は白蓮教を邪教として弾圧し禁教令を出したことが決定打となり、紅巾の乱は終わりを遂げたのでした。