唐の動揺と衰退【安史の乱とは??】<中国史>
安史の乱以降の流れは『隋と唐の建国』の記事でもチラッと触れていますが、今回はいよいよ唐が衰退した時のお話を具体的にしていこうと思います。
武韋の禍
病弱な高宗の治世下で既に664年に実権を握り『垂簾(すいれん)の政』を行っていた高宗の皇后・則天武后でしたが、唐の高宗の死後に彼女は周を建てて(=武周)います。
『則天武后』と『武則天』は同一人物ですが
- 『則天武后』は皇后の立場から見た時の諡号(亡くなった後に偉い人に贈られる名前)『則天順聖皇后』を略したもの
- 『武則天』は皇帝としての立場から送られた諡号『則天大聖皇帝』を略したもの
となっています。
彼女は遺言に「唐王朝の皇太后として埋葬してほしい」と残したことから日本では『則天武后』の呼称で呼ばれています。
こうして自らが帝位についた則天武后と、第二の則天武后になることを目指した則天武后の子、中宗の皇后・韋皇后による帝位簒奪の計画とそれに伴う混乱期は武韋の禍と呼ばれています。
則天武后が皇帝になるまでの経緯を見てみよう
則天武后は高宗が崩御すると後を継いだ中宗の皇后の親族が出てくるのを良く思わず別の子・李旦(睿宗)を擁立。中宗を廃位しました。
皇帝の廃位など則天武后の専横を見た皇族達は大反対。挙兵されながらも彼らを打ち破ると、自ら帝位に就き『武周』を建てました。中国史上、初めての女帝です。血生臭いエピソードも多く悪女としても歴史上に名を残しています。
同時に儒学の生まれた土地だけにその考え方の影響力は半端なく、女性である則天武后による統治は長らく『悪』とされてきましたが、彼女の政治的な手腕に対する否定的な評価は近年では正しくないとも言われるようになってきました。
ちなみに身分関係なく科挙で優秀な人材を積極的に登用するようになったのは則天武后の功績です(これまでは家柄が第一について回りました)。
中宗の即位と韋皇后
その則天武后も体調を崩し息子達によりクーデターを起こされます。貴族達との縁戚関係を築いていた上に太后という立場もあったため重要な地位にいた者達も命までは取られませんでしたが、則天武后が建てた武周は中宗に禅譲する形で倒れました。
が、その中宗も自身の皇后・韋皇后によって毒殺されてしまいます。
この混乱を抑えたのが第6代皇帝で中宗の甥にあたる玄宗(父の睿宗と共に事に当たっています)です。韋氏一派を倒して父の睿宗を即位させ、自らは皇太子となりました。政情不安をまとめただけあって若い頃は『開元の治』と呼ばれる太宗の『貞観の治』と並ぶほど安定した時代を築いたとされていたのですが...
律令制度の綻び
日本の律令制度でも綻びが出たのと同様、本家本元の唐でも安定した治世を築いていた裏側で深刻な社会問題が生まれ始めていました。それが
- 逃戸の増加:均田農民が土地を捨てて逃亡
- 府兵制の崩壊:逃戸の増加で土地に縛り付けて確保していた兵士が減少
という現状でした。
これに対して唐王朝が行ったのは
- 括戸:逃戸に新たな戸籍を作る → 挫折
- 募兵制:740年の府兵制破綻により職業兵士である健児(けんじ)を雇用
することで対処しようとします。
- 府兵制が行き詰まった理由とは?
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府兵制は西魏(五胡十六国時代を終わらせ、南北朝時代に突入させた北魏(北朝)が分裂した国の一つ)が起源ですが、府兵制の大元として参考にされたのは北魏の兵制でした。
北魏は中国史でいう異民族による国で、北の遊牧民(=鮮卑族)が建国しています。漢人の農民の他に部族制の元で集団生活を行なう牧畜民も多数いました。
が、唐代での府兵制の対象となった者たちは遊牧民が少なく、大多数が土地から離れるのが難しい農民です。年間3ヶ月の軍事訓練は農業への負担が多い上に郷里から離れて任務に着いたため士気が低く、逃戸が増えて均田制が崩壊するのと共に破綻したのでした。
こうして内部をどうにか整えていこうとしていたのですが、一方で唐王朝に服属していた民族達が反抗・自立の動きを見せはじめます。緩い統治として行っていた羈縻政策が破綻していったのです。
この羈縻政策の崩壊を機に十節度使が設置されました。募兵制で採用された兵士の指揮官として辺境の防備に当たりました。
玄宗の父親の治世下での河西から始まり、玄宗朝で安西、北庭、隴右(ろうう)、朔方(さくほう)、河東、范陽(はんよう)、平盧(へいろ)、剣南、嶺南の各地方に節度使が設置されています。
が、この節度使には辺境防衛には兵権のみならず、管轄区域の民政権や財政権などまで握る非常に強大な権力が集中することになります。
この強大な権限を得た節度使による反乱が、やがて唐の衰退を招いていくのでした。
※実際に衰退が目に見えるようになったのはアッバース朝とのタラス河畔の戦いでの大敗です
玄宗・楊貴妃と安史の乱
開元の治と呼ばれるほど輝かしい繁栄の時代を築き上げた玄宗でしたが、若い頃の政治への情熱は長く続きませんでした。
治世後半になると第18子の妃・楊玉環を見初めた玄宗。楊玉環は玄宗から寵愛を受けると皇后に次ぐ貴妃の地位にまで登り、楊貴妃と呼ばれるようになります。
彼女は当時の理想的な容姿を持ち音楽や歌舞にも優れた女性でした。玄宗の妃として迎え入れられたのは玄宗56歳、楊貴妃22歳の時の話です。
自分から高価な物をねだるようなことはなかったようですが、玄宗の方でアレコレ用意していたといいます。
安禄山
そんな2人の元に安禄山というソグド人と突厥人の血を引くとされる男が養子になっています。安禄山は自分が笑い者になることも厭わず人の懐に入るのが上手い人物。加えて国際色豊かな唐代の中で6カ国語も話せるマルチリンガルでした。
※ソグド人:唐代に中央アジアで東西貿易に従事したと言われる民族
実際に安禄山が養子となった時のエピソードとして、客を招いて赤ちゃんを入浴させ誕生を祝う行事「洗児」を真似て、楊貴妃が新生児に見立てた安禄山に豪華なおむつをつけさせ湯船で洗った話が残っていたりします(ちなみに安禄山は約200kgの超巨体の中年男性)。
権力を獲得するためにそこまでやっちゃうような人だったこともあって玄宗と楊貴妃のお気に入りとなり、最終的には3つの節度使を兼任する立場まで手に入れました。
もう1人の寵臣
玄宗が楊貴妃に溺れている間、実際に政治を動かしていたのは唐の宗室出身である宰相でした。が、この人物が亡くなると楊貴妃の親戚楊国忠が宰相となり実権を握ります。
この楊国忠は横暴が酷かったのに加えて彼の独断で外征を行い失敗(失敗を握り潰すために自らが節度使になったなんて話もあります)。大勢の死者を出した上に保身を図るような人柄もあり安禄山との関係が悪化していました。
そうした背景もあって楊国忠は安禄山と権力掌握のために玄宗夫妻の寵愛をめぐって争うことになります。楊国忠は「安禄山は必ずクーデターを起こす」と何度も上奏していたようです。
安史の乱の勃発
楊国忠による讒言が何度も行われている中で安禄山派の人物が左遷後に殺されるという事件を機に安禄山は本格的に楊国忠排除のために挙兵しました。楊国忠の挑発に乗った形です。
政治の中心部にいる楊国忠と辺境伯の仕事も持つ安禄山だと前者の方が皇帝夫妻のそばにいることが多いのも玄宗夫妻が楊国忠側に傾いた理由でしょう。
とはいえ、辺境防衛のために中央から離れていたことがプラスに働く部分もあります。3つの節度使を兼任していたため兵の大部分を掌握していたのです。さらにマルチリンガルで語学に堪能だったことも功を奏しました。
鉄勒の一部族や契丹、突厥出身者などが安禄山と彼の盟友史思明らに協力、反乱軍は約20万の軍にまで膨れ上がりました。契丹も突厥も勇猛な騎馬民族で実戦に多く参加してきた猛者たちです。ちなみに「安史の乱」は「安禄山」の「安」と「史思明」の「史」からつけられた名称です。
玄宗の親衛隊たちは実戦経験の少ない10万にも満たない軍でした。あっという間に東の副都・洛陽を陥落させ、本拠地・范陽の古名にちなんで燕を建国、自身は即位しています。
都の長安の防衛ラインの要、潼関も落とし、燕が唐の首都・長安へ迫ると…
と楊国忠は提案。玄宗はこれを受け入れました。
が、途中で引き連れていた兵たちが反乱を起こし(食糧がなくなったとも)楊一族は皆殺しに。楊貴妃も「楊国忠がのさばる原因」として兵に処刑を訴えられると玄宗は受け入れざるを得ませんでした。結局、楊貴妃も絞殺されてしまいます。
そんな失意の中で玄宗は退位。皇太子の李亨が第10代皇帝の粛宗として即位しました。
反乱から逃げ出した皇帝をトップにしたままで兵力の勝る相手と戦うことができなかったためで、玄宗には即位した後の事後報告となっています。
そのうち燕では内部闘争が起こるように。
安禄山は殺害され、殺した張本人である安禄山の息子(箝口令を敷かれてたので周囲には知られていない)が後をつぎますが、この息子を安禄山の盟友・史思明が殺害。史思明が燕の皇帝を名乗るも更に史思明の息子が父を殺害するなど混乱を極めます。
こうして燕が混乱している最中に唐はウイグルとの関係を深めました。婚姻による縁戚関係が出来上がっていたのです。
ところが、この唐の公女が嫁いだウイグルのトップ(=可汗)が亡くなり、本来なら夫と共に殉死するのが慣わしなのを公女は脱出。更にこの頃、唐では相次いで玄宗、粛宗が逝去し関係がウイグルとの関係が希薄化。というピンチを迎えています。
そこで燕はウイグルで可汗が刷新されるとウイグルに長安を奪うよう唆し実際に実行しようとしたのですが...唐の武将を父に持つ可汗の妻の説得により思い直し、唐とウイグルの連合軍で燕を滅ぼしました。
こうしてウイグルの支援もあって約9年にも渡る大きな反乱は収まることになったのでした。
安史の乱のその後
ウイグルの協力により何とか収めた唐でしたが、安史の乱では唐の繁栄は一気に崩れ落ちました。
- 藩鎮の設置(節度使を長官とする)
- 宦官勢力の増大
- 官僚勢力でも派閥争い
こうした変化が唐の内部で生まれます。
内地にも藩鎮を設置して各地の防衛に努めさせますが、この藩鎮も強大な地方勢力にまで成長。
皇帝の親衛隊を掌握した宦官が力を持ちはじめ、時には皇帝の廃立にまで口出しできる存在となっています。更に官僚まで派閥争いを繰り返すようになり、藩鎮までもが朝廷を苦しめる勢力となりました。
安史の乱で完全に租庸調と均田制は崩壊し、国家の貴重な財源として塩の専売を開始。塩は生きるのに必要なもののため民衆は買わざるを得ず、困窮は増大していくようになります。ここに目を付けたのが塩の密売人でしたが、貴重な国の財源のために密売人は厳しく取り締まられました。
これに不満を持った塩の密売人・黄巣が『黄巣の乱(875~884年)』を起こすと、全国的に反乱が広がっていきます。
さらに10世紀に入り、弱ったところを節度使の朱全忠が滅ぼし後梁を建てたことで唐は終わりを遂げたのでした。
この後の中国はいつものように群雄割拠の時代に突入していきます。有力節度使による5つの王朝が交代しつつ10あまりの国も興亡を繰り返しました。いわゆる五代十国時代です。最終的に五代のうち後周(こうしゅう)の将軍が960年に宋を建てています。
また安史の乱に協力したウイグルも9世紀半ばにキルギスに滅ぼされましたが、唐の滅亡後の話は別の機会に書いていこうと思います。