清末期、三大悪女・西太后って何をした人?西太后の人生を紹介【人物伝】

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西太后
西太后

出生:1835年10月10日~死去:1908年11月15日
配偶者:咸豊帝(在位1850~1861年)

中国では慈禧太后(じきたいこう)とも呼ばれる西太后。背が高く才色兼備の女性で咸豊帝の寵を受けて以降、長年権力の座についています。

中国の歴史上、「私利私欲に走り国を陥れたとされる三大悪女」と言われていますが、別の視点から「近代化に貢献した女傑」という真っ二つの評価に分かれます。

今回は、そんな評価の分かれる西太后が実際にはどんな人物だったのか、何をして現在のような評価に至ったのかに迫っていきます。

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西太后が咸豊帝の側室に

西太后は満州の古くからの貴族で旗人(満州鑲藍旗人)を出すエホナラ氏の娘として誕生ています。

※清の前身国家・金の時代にヌルハチが作った軍事制度・八旗制を編成する社会組織『旗』の構成員

数え年18歳で後宮に入りますが、西太后は後宮内で「貴妃」と呼ばれる低い地位からスタートしなければなりませんでした。それでもライバルを排除するなどして寵愛を獲得。第9代皇帝・咸豊帝の長男・載淳(さいじゅん/のちの同治帝)を22歳で出産し、事実上の側室トップに躍り出ることに成功させたのです。

正室の東太后は世継ぎを産むことができず、実子の載淳が皇太子となりました。

咸豊帝の治世

では、西太后の配偶者である咸豊帝がどんなことをした人だったのか?を紹介していきましょう。

咸豊帝は太平天国の乱アロー戦争(および天津条約北京条約の締結)、ロシアの南下政策に伴うアイグン条約締結と外交的には敗北が続いた波乱の時代を統治しました。

それでも人を見る目と人徳があったようで、曽国藩左宗棠(さそうとう)李鴻章(りこうしょう)などの漢人官僚を抜擢して内乱は何とか抑え込んでいます。

さて、そうした「人を見る目がある」と評価された咸豊帝ですが、西太后の権力欲を感じ取って遠ざけるようになっていました。生前、皇族や側近たち8人に載淳の補佐を頼み西太后らを権力から離そうとしています。

咸豊帝はアロー戦争で首都北京が攻め込まれた際に家族と共に熱河(ねっか)に逃げ込んでおり、この時に西太后は逃げることに反対していた、熱河で咸豊帝はお酒や趣味の演劇に逃げていたなんて話も残っています。

若い頃から漢詩や書、政治に軍事まで積極的に知識を持ち、アロー戦争後の条約締結で見事に清の主権を守る交渉術を見せていたので西太后のことが煩わしかったのかもしれませんね。

結局、咸豊帝は熱河の地で1861年に病没しました。ちなみに、熱河に逃げた時には弟の奕訢(えききん)に北京と戦後処理を任せています。

※奕訢は道光帝治世下に有力な後継者候補に見られていましたが、結局兄が咸豊帝として即位。
即位後は兄の不興を買って冷遇されていました。

同治帝の即位

皇太子の載淳が後を継ぐのは決まっていましたが、当時の年齢はわずか5歳(満年齢)。摂政がつくことは間違いなく、権力闘争が激化するのは分かり切った話でした。

同治帝

西太后は咸豊帝の皇后で載淳の育ての親である東太后奕訢と共に咸豊帝から任された側近8名と権力闘争を繰り広げました。咸豊帝の死後3か月後には辛酉政変(しんゆうせいへん)と呼ばれるクーデターを起こして8人の咸豊帝の元側近を逮捕し処刑します。

このクーデターにより西太后らは政権を掌握し、皇太子を同治帝として即位させたのです。

同治の中興

当然5歳で政務が出来るわけがなく、東太后と共に垂簾聴政を実行します。

※垂簾聴政:幼い皇帝に代わって皇后や皇太后が御簾の後ろで政治を行なうこと

垂簾聴政が行われたのは、ちょうど異国からの侵攻が落ち着きはじめた時代です。西太后や奕訢は、侵攻時に活躍した曽国藩や左宗棠、李鴻章などが洋務運動を主導した人物らを積極的に登用して同治の中興と呼ばれる平和な時代を築き上げました(東太后は政治に関心はなかったようです)

同時に同治の中興期には李鴻章らが大きな軍事力を持ったっことによって軍閥が形成され始めた時代でもあります。

同治帝の死

幼い頃は実母に権力を奪われながらも同治帝は結婚を機に親政を行おうとしますが、若くして子を持たぬまま1875年に崩御。

同治帝は成長と共に東太后を慕うようになったと言われています。同治帝の皇后選定でも東太后が勧めていた西太后とそりの合わない相手を選び、互いにコミュニケーションもままならなくなっていたことから西太后による暗殺疑惑がついてまわっています(実際には天然痘もしくは梅毒説が可能性高い)

れきぶろ
れきぶろ

同治帝をあまりに抑え込みすぎたため、外で梅毒をもらってきたなんて話も残っていたり。実際のところは天然痘説が最有力だそうです。

西太后は「皇帝の実母」という立場があるからこそ権力を維持することができたのですが、息子の崩御でその力を失うことを恐れました。

自分の妹と道光帝の第7子(咸豊帝の弟)の間の子で当時わずか3歳の光緒帝を即位させ後見人となることで、またしても垂簾聴政を行い権力を維持し続けたのです。

相次ぐ戦乱と光緒帝の治世

1875年から1908年まで皇帝の位についていた光緒帝。光緒帝の即位後は再び外交関係を中心にきな臭くなり始めます。

属国の朝鮮で日本の干渉により起こった江華島事件の発生、同じく日本の琉球処分(琉球はかねてより清と薩摩の二重支配だった)、ベトナム領有をめぐる清仏戦争の勃発と盛りだくさんでした。

それでもかねてより進められていた洋務運動の成果もあって、一部ロシアからの領地返還の条約の締結や朝鮮をめぐる日本との対立で優位に立つことに成功させています。

光緒帝

一方、国内では1881年には東太后が亡くなり(脳血管障害が有力だが西太后による暗殺疑惑あり)、清仏戦争(1884~85年)の開戦に反対していた奕訢に緒戦の敗戦全ての責任を負わせて失脚させると、政権の中心を担うのは西太后のみとなりました。

光緒帝が親政を行える年齢に達すると西太后と対立しますが、西太后は光緒帝の皇后に自身の姪を推挙するなどして何時でも介入できるような状況を作っています。

頤和園の再建

清仏戦争が開戦した頃から1895年にかけてのこと。西太后は自身の居所である北京近郊の離宮・清漪園(せいいえん)の再建に着手しました。

本来は李鴻章を司令官とした北洋艦隊を整備する予算だったものを流用したことで海軍の整備はかなり小規模なものとなった一方で、清漪園は頤和園(いわえん)と改称され、現在では世界遺産に指定されるほどの中国屈指の名園として知られるほどのものができあがっています。

日清戦争での敗戦

さて、度重なる対立でぶつかった日清戦争。結果、清は敗戦します。

この敗戦は挙国一致で戦った日本に対し、清では内部が外交と軍事の不統一どころか、それぞれの部門も内部の権力が分散されていたことが敗因と言われています。トップも戦争を進めようとする光緒帝に対し、西太后は開戦にそもそも反対していますしね。

そこに軍事費用の予算流用で庭園を造ったり誕生会に流れたりしたわけですからうまくいくわけがありませんでした。

戊戌の政変(1898年)

日清戦争の敗北を見た西洋列強の国々も中国分割を進めようと動き始めるという大ピンチの中で動き始めたのが、康有為梁啓超ら革新派の若手官僚たち。

あらためて「近代化をはじめよう!」となりました。

これまでの近代化を目指す運動・洋務運動清朝の体制を変えないままで近代化を進めようとしましたが、政治体制の変化まで含めた徹底的な改革を行う形の変法運動を開始したのです。

立憲君主政、議会の設置、国民の声を取り入れようとする運動でしたが、光緒帝はこれらを取り入れようと康有為ら改革派官僚を登用しました。ただし、この変法運動でも急進派と穏健派に分かれ、考え方の違いで対立して官吏たちの支持を失っていきます。

すでに既得権益を持っていた西太后ら保守派も大反対していたことから戊戌の政変と呼ばれるクーデターを起こして光緒帝は監禁、改革は強制的に中止されました。

義和団事件(1900年)

戊戌の政変後、別名、義和団事変・北清事変などともいわれる清末期の動乱が発生します。

「扶清滅洋」すなわち「清を助けて西洋を滅ぼそう」という目標を掲げた宗教的秘密結社・義和団による反乱です。

西太后はスローガンを気に入り、鎮圧するどころか列強に宣戦布告。宣戦布告された八か国連合軍に侵攻される事態に陥りました。

義和団事件
義和団事件

当時の状況で清が勝てるわけがありません。清が敗れると、西太后は光緒帝を連れて北京から西安に逃げ込みました(この時、光緒帝が最も寵愛した珍妃が意見を述べたことで西太后が命じて井戸に落として殺害した話も残っています)

結局、北京議定書という屈辱的な内容の条約を結んで列強の中国分割はますます進んだ一方で、清は近代化・西洋化を受け入れ、最後の改革・光緒新政が始まります。ところが、この段階で新たに近代化を始めても清の衰退を止めることはできませんでした。

光緒帝と西太后の最期

最期の近代化のきっかけになった義和団事件の後も光緒帝は西太后に幽閉され、光緒帝なしで改革が進められていきました。実務にあたったのは李鴻章の部下だった袁世凱などの漢人官僚です。科挙の廃止や憲法大綱の発布、纏足の禁止などが決められます。

一方で、清国内では1894年の段階で興中会を組織した孫文が、1905年には中国同盟会を結成。着々と革命の準備が進められていました。

こうした近代化を目指す王朝と清王朝を倒そうとする革命勢力がうごめく中、1908年。突如、光緒帝が38歳で崩御しました。

自然死説、暗殺説ともにありますが、近年では致死量を上回るヒ素が検出されたことで後者の説…中でもこれまで散々対立していた西太后犯人説がかなり有力視されているようです。

この光緒帝の崩御の翌日、清のラストエンペラー愛新覚羅溥儀を擁立しようとした西太后は72歳で病死しました。

ということで、西太后は外交交渉やバラバラの政権を一つにまとめる能力などの評価できる一面と、状況を考慮せず国家財政を圧迫するほどの大金を拠出した点、数ある暗殺疑惑など悪女と言われる所以となる行動も多々見られた点から「評価が真っ二つ」というのも納得の一面を持つ人生を歩んでいたようです。

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歴ブロ・歴ぴよ
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歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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