中国・東アジア

太平天国の乱(1851-64年)について背景や流れまで簡単だけど詳しく解説

歴ブロ

清を大きく揺れ動かしたアヘン戦争(1840-42年)アロー戦争(1856-60年)が起こる前より、清では人口爆発が起こっていました。

漢族移民が流入した広西省の山地ではエリート層と非エリート層の摩擦が大きくなっています。

一方で、広西省のお隣の広東省の客家に生まれた洪秀全。清の末期には列強の情報がかなり入るようになったためキリスト教のパンフレットを目にすることになります。この出会いが洪秀全と広西省の非エリート層、さらに清王朝の命運まで変えていくことになるとは誰も思いもしませんでした。

ここでは洪秀全による太平天国の乱の背景を清の制度なんかも交えながら分かりやすく、だけど詳しく解説していきます。

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清の人口激増とそれに伴う問題の噴出

ヌルハチが建てた後金が前身の清王朝類まれなる名君が続いたかなり珍しい王朝です。第4代康熙帝の代で海禁政策を取りやめると(自由貿易ではなく関は設けています)、17~18世紀には茶・陶磁器・生糸などの輸出で経済的にもかなり飛躍しました。

れきぶろ
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とくにイギリスは輸出入の均衡が清優位に偏りすぎていたため、アヘンの密輸を積極的に行い、三角貿易が勧められました。後々アヘン戦争の原因となっていきます。

ちょうど同時期にヨーロッパでシノワズリと呼ばれる中国趣味の美術様式が流行していたこととも無関係ではありません。

税制の変化による人口増加

安定した治世が続き、産業が発展すると人口が増加。この人口増加を機に康熙帝は代以降の課税方法・一条鞭法を改めて地丁銀制を取り入れています。

  • 一条鞭法:地銀(土地税)と丁銀(人頭税…納税能力に関係なく、すべての国民に一人当たり一定額支払う税)を全て銀で納める方法
  • 地丁銀法:人頭税をなくして地税に一本化

人が増えたことで、人頭税を徴税・管理が煩わしくなって合理化した感じです。

地丁銀制が導入されたことで、子どもを産んでも税が増えることはありません人口増加がさらに促進されました。

れきぶろ
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戸籍逃れをしていた人達がしっかりと届け出るようになった説もあるようですが、純粋に増えてもいたようです。

さらに16世紀前半に入ってきた中南米原産サツマイモが、痩せた土地でも育つ飢餓対策の食物として清朝初期の頃から中国に根付きはじめます。

清初期には1億人に満たない人口からアヘン戦争前夜の第8代・道光帝の時代(1833年)には約4億人にまで急増していたようです。

農村の貧困化

いくら飢餓対策をして経済的に豊かになったと言っても、これだけの急激な変化があれば一人当たりの土地が減少するのは当たり前です。

さらに列強と清の間での取引…以前のように銀が入ってくるような状況であれば問題なかったのですが、アヘンの密輸入が蔓延して清から銀が流出していきました。

一人当たりの土地が少なくなっている中での「銀の流出」の事実は農民たちに重くのしかかりました。

銅銭を中心に使っていた農村部では、税の支払いの際に銅を銀に変えなくてはいけません。銀が清から流出したことで【銅 ⇔ 銀】のレートが大きく変わり銀が高騰し、貧困化が進んでいったのです。

貧困が進んだ時に人々が目指した道とは?

経済が鈍化し、景気が悪化すると公務員人気が出るのは清の時代にも変わりません。官僚志望者が急増します。

科挙の国だったこともあって中国の官僚社会では学歴が絶対的。志望者に対して枠が少なく、エリートになり損ねた人たちがかなり増えていきました。

人口増加と官僚志望者の増加の話は、漢人が広西省に移住していた背景やエリート層と非エリート層の間に摩擦が起きていた背景が見えてきますね。

アヘン戦争(1840-42年)で社会の矛盾が顕在化

清の内部で様々な変化が起こる中、イギリスとのアヘン戦争がはじまります。この戦いで敗北した清は、イギリスに多額の賠償金を支払うことが決まります。

ただでさえ貧しくなっている状況下だったにもかかわらず、農民たちに賠償金や軍事費の負担がのしかかったため、社会不安が増大していったのです。

洪秀全と拝上帝会

客家出身の洪秀全。彼も当時の人気職にあった官僚を目指し、広州で科挙の試験を受けていますが、失敗に終わりました。

れきぶろ
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客家とは、もともと中原に住んでいた人々が南部に移住して作った集団のこと。移住先で差別などもあったようで反骨神が強く、独自のつながりを持っていました。

※広州は古くから開港していた商業都市、かつ清の時代に一時的(第6代乾隆帝の時代~アヘン戦争まで)に唯一の貿易港となっていた都市です。キリスト教とは他の都市よりも近い関係にあったと思います。

洪秀全(Wikipedia)より

もともと病弱だった洪秀全は、ある時見た夢が以前もらったキリスト教の布教のためのパンフレットの内容と同じだったことを受け「自分は(ユダヤ教の唯一神)ヤハウェの子でイエス=キリストの弟である」と布教活動を始めます。

結局、故郷の広東省では広まりませんでしたが、社会的な分断が起こっていたお隣の広西省の山地では非エリート集団に属した客家の下層民衆や少数民族の布教に成功し、拝上帝会を組織しています。

拝上帝会から太平天国に

拝上帝会はキリスト教の影響を受けていたということで完全な一神教儒教や民間宗教をことごとく排斥偶像破壊をした結果、現地のエリート層と完全に対立。最終的には清朝とも衝突しました。

1851年に洪秀全が自ら「天王」に即位し、国号を太平天国に改めたことで、公然と清に反旗を翻したことを意味します。

れきぶろ
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国号を定める前年には既に軍事組織も結成し、宗教活動だけでなく政治改革を決意していたようです。

太平天国の乱

太平天国軍は清軍と戦いながら北上し、広西省から湖南省に向かいます。長らく続いた清の正規軍・八旗は貴族化して弱体していたため連戦連勝だったようです。

その際、失業者や鉱山労働者などを吸収して規模を拡大していきます。

参考

太平天国軍が受け入れた失業者の中には、アヘン戦争後結ばれた南京条約が原因で貨物輸送に関わっていたのに物流ルートが大きく変わったために失業した人達が結構いたようです。

53年1月には湖北省首都の武昌を占領、同年3月には長江を下った先の南京を攻略しました。南京は太平天国の首都として「天京」と名付けられます。

太平天国の乱の影響が全国各地に

さらに、この動揺が清の他の地域にも広がりました。

  • 華北:捻軍(塩の密売業者)を中核とした農民反乱
  • 東南沿岸(上海など):秘密結社(会党)による反乱
  • 貴州:ミャオ族など西南の少数民族による反乱
  • 西北・雲南:イスラーム教徒の反乱

など清軍はかなり厳しい情勢に追い込まれます。

そんな中、1855年には太平天国軍がさらに攻勢をかけ、北上し北京を目指しましたが、南からやって来ただけあって気候風土・食事の違いから体調を崩し士気が上がらず失敗に終わり、清は首の皮一枚でつながりました。

清の変化

八旗軍が弱体化したことに気が付いた清国政府は、裏で各地の郷紳に地方の臨時部隊・郷勇を作ることを命じていました。

れきぶろ
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郷紳とは、地方の支配者層となっていた人達。退職官僚や科挙合格者のエリート層が担っていました。

郷紳たちは時代の変化に伴い、秘密結社による反乱などが起こった際に農村の自衛組織として団練という武装集団を作っています。その団連を基盤にして大きな軍事力にしようとしたのが郷勇です。

清にとってはもろ刃の剣になるのが分かり切った政策でしたが、八旗で勝利できない以上、郷勇に頼まざるを得ない状況でした。

その中でも湖南省出身の学寮官僚・曽国藩はよく知られており、湘軍(しょうぐん)と呼ばれる巨大な郷勇を作り上げて太平天国と戦い続けました。

また、彼の部下である李鴻章も淮河流域で曽国藩に倣い淮軍を組織し、上海の防衛と各都市の奪還を進めています。淮軍に関しては、この後、捻軍やイスラーム教徒の乱の平定も行なうことになるようです。

太平天国軍の衰退とアロー戦争

清朝にとっては朗報と思われる事態が続きます。翌年に太平天国の指導者層が内紛を起こし4万人が殺害され、勢いが急速に衰え始めました。

内部では、男女の区別なく土地を平等に分配し上も寒さもしのげる制度として天朝田畝制度が提唱されますが、実際のところ実施されることはなかったうえに上層部は贅沢三昧。洪秀全は王宮で女官に囲まれて過ごすという求心力が衰えて当然の生活を送っていたのです。

ところが、太平天国の乱が衰退になるかと思いきや今度は1856年にアロー号事件、ついでアロー戦争(~1860年)が発生します。

敗北した清と列強各国との間に天津条約、および北京条約が結ばれました。

これにより清が劣勢になるかと思いきや...列強各国は清朝に不平等条約受け入れを成功させたことになるため、太平天国に力を持たれては困る状況となっています。

清朝を支持するようになる清にとっては結果オーライな状況になったんですね。

れきぶろ
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太平天国はキリスト教から影響を受けた宗教ですが、西方では認められた“偶像崇拝”も禁止するような“合わない部分”が多々ありました。

太平天国に関しては同じキリスト教ということで上手くやれば列強からの支持を得られたのでしょうが、列強事情を知らない指導者層たちの戦略眼のなさが列強の清朝支持に影響しています。

列強が味方に付いた後の太平天国の行く末は想像の通りです。

イギリス・フランスが直接上海防衛にあたり、アメリカ人のウォードやイギリス人のゴードンら外国人指揮官の下で中国人を外国製の近代兵器で武装させた常勝軍を編成。

郷勇の一つで李鴻章の組織した淮軍常勝軍が共に上海付近から太平天国軍を蹴散らしました。湘軍の方でも西から圧力を強めて天京を包囲。さらに1864年6月の洪秀全の死去により翌月には天京が陥落し、ここにきてようやく太平天国は滅亡することになりました。

太平天国の被害と影響

Kallgan(2007),清(Wikipedia)より「map of Qing Dynasty, as of 1820」

非常に大きな反乱となった太平天国の乱では、中心となった中国南東部・江蘇・浙江・安徽・江西といった地域を中心に大きな被害を出しています。

死者は数千万人とも言われ、太平天国の乱以外の派生した反乱も含めると大半の地域で戦乱が起こっていました。

一方で比較的被害が少なく、戦乱を逃れた人々がやってきたのが上海などの開港場。財産が集中して急速に発展しています。

清王朝の政権の変化

そして気になるのが郷勇の存在。

清では臨時で徴募した彼らを雇う軍事費を賄うために釐金(りきん)という地方税が導入されました。各省内の交通の要所にかけられた流通税です。

この税は総督・巡部ら地方大官が徴税金を握り、彼らの権力が増大。清の中央集権体制が大きく揺らぐ結果となりました。

列強との関係

これまで散々、列強各国を追い出す方向に行こうとしていた清でしたが、太平天国で郷勇を指揮する曽国藩や李鴻章が列強の持つ近代兵器の威力を目の当たりにしたことで状況が一変します。

発言力を増した李鴻章含む地方大官らが中心となって西洋の技術導入により富国強兵を図る洋務運動を進めていくのでした。

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歴ブロ・歴ぴよ
歴ブロ・歴ぴよ
歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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