第二次アヘン戦争/アロー戦争(1856-60年)を詳しく解説
1840年~42年に起こったアヘン戦争と講和条約である南京条約(追加で不平等条約も)の締結で清国内は大きく動揺することになりました。
そのキッカケになったアヘン。この依存性と健康被害の大きな薬物を購入するために清国内の銀の流出が止まらなくなったわけですが、当時の清は銀一括で支払う納税方法を取っていました。
銀の価値が上がり、農民たちに銀が回らない状況に。こうして税も払えないほど困窮するようになります。
当然ながら清国内では外国に対する反発が起こりました。さらに、社会不安が蔓延する中で宗教勢力が拡大し、その宗教勢力による反乱【太平天国の乱】が起こるなど状況は刻一刻と変化します。
こうした清の大混乱に対して英仏連合軍が攻め込む【アロー戦争】まで勃発しました。
ここでは、アロー戦争についてまとめていきます。
アヘン戦争後の清とイギリスとの関係は?
アヘン戦争の対戦相手イギリスと関税自主権を失うなどの内容を含む不平等条約を結んだ清でしたが、意外にも中国特有の市場の性格から当時のイギリスの主力製品・綿製品の輸出は伸びませんでした。
イギリス側はその原因を「清の市場の開放度が足りないからだ」と考えます。
また、外交交渉を広州で行うことが多く、北京にお伺いを立てる際のスピード感のなさにフラストレーションがたまっていたようです。北京に外交公使を置くことも求めはじめました。
そんな中で1850年にアヘン戦争の時の皇帝・道光帝が崩御。
第四子の咸豊(かんぽう)帝が即位すると、その直後から清の態度も排外的になったり広州で異国に対して排外運動を起こしたりと状況が変わり始めました。
ところが、この当時のイギリスは清だけに注目しているような状況ではありませんでした。
当時のヨーロッパ事情について
18世紀後半からフランス革命、続くナポレオン体制と混乱崩れた後にウィーン体制が敷かれ各国で王政復古がなされるなど目まぐるしくヨーロッパ情勢は変化していました。フランスもそんな王政復古をした国の一つです。
が、王政復古で再度王位に就いたブルボン朝の支配に不満を持った市民が蜂起。1830年にフランスで起こった七月革命で成立した立憲君主政である七月王政に代わります。
立憲君主制とは君主が主権を持ちつつも、憲法などのルールを持ってその権限を制限する政体のことだよ。
ところが、その後、産業革命が進んで発言権を持った市民の要求を無視したことで1848年に七月王政が倒される二月革命が起こります。この二月革命によりヨーロッパ中で民族運動や憲法制定や選挙制度改革を求める運動などが広がりました。
そんな中で、南下政策に伴うロシアとオスマン帝国の対立やオスマン帝国に対して近代化(タンジマート)などで多額の資金を貸していた列強諸国がロシアを警戒するなどした結果、1853年からクリミア戦争が勃発しました。
ロシアがオスマン帝国を滅亡まで追い込むような真似をすれば、オスマン帝国にお金を貸した国々は借金を踏み倒される危険性もよぎっただろうね。
こうした混乱が自国に近い場所で行われていたため、清どころではなかったのです。
アロー戦争(1856-60年)
清の国内事情が悪化していたとしても、自国に近いクリミア戦争に列強各国の目が向き、清への口出しはかろうじて避けられていたわけですが...
1856年3月にクリミア戦争が終わったことで状況は一変します。同年10月におこったアロー号事件を口実にイギリスが出兵してきたのです。
アロー号事件(1856年)
1856年10月。
広州港に停泊していたアヘン密輸船のアロー号に対して清の官憲が「海賊容疑」で臨検を行なって船員たちを逮捕し、掲げられていたイギリス国旗を引きずりおろすという事件が起こりました。
このアロー号事件に対して、当時の広州領事だったハリー・パークスが
イギリスへの侮辱だ!
として猛抗議します。
実際には国旗が本当に下ろされたのか分かっていないうえ、そもそもアロー号自体も香港船籍である期限が切れており正直に言いがかりに近いものでした。
ハリー・ホークスは江戸無血開城(1868年)の頃には駐日特命全権公使として日本に在留しています。
この時も新政府に対して抗議してた…
この事件をきっかけにイギリスは、当時皇帝となっていたフランスのナポレオン3世に共同出兵を持ちかけ広州に進軍しました。
清と不平等条約を結んでいたアメリカや、清-露間の条約締結により陸で国境を接していたロシアは「戦争はしないけど、条約改正には立ち会うよ」と表明していました。
清の周りは敵だらけです。
こうしていよいよアロー戦争に突入していくのでした。
フランスがアロー戦争に参戦した理由とは?
アロー号事件が起こった同年2月。
排外運動が活発になっていたこともあり、フランス人宣教師が逮捕・斬首されるという出来事が起こっていました。
こうした清の強硬姿勢に不満を抱いていたフランスはイギリスの動きに同調し、アロー戦争に参戦します。
既に近代化の進んだ軍事力を持つ英仏相手に勝つのは難しく、天津条約を結ぶことになるのですが、この条約締結も一筋縄ではいきませんでした。
天津条約(1858年)と北京条約(1860年)
アロー戦争に敗北した清は天津という地にて
- アヘン戦争後に開港した港以外に10港を開港すること
- 外国公使の北京駐在を認めること
- キリスト教の布教を認めること
- アヘン貿易を公認すること
- 賠償金を支払うこと
- 外国人の中国での旅行、貿易の自由と治外法権を認めること
などを英仏とロシア、アメリカとの間で約束させられました。
ロシアとアメリカは戦争に参加しないけど条約締結の際には立ち会うことを約束していましたね。
なお、天津条約を結ぼうと決めた時期には清朝では恭親王ら和平派が主導権を握っています。
ところが、何せイギリスもフランスも清から本国はかなり離れていました。正式な批准書を交換するために一旦外交官たちが本国に持ち帰った際に清では主戦派が台頭。
どう考えてもあの条約の内容はおかしい。
として、一度収まっていた戦争が再開します。
このあと、英仏連合軍により北京は占領、離宮の円明園が破壊されるという事態に陥りました。
※円明園は清の全盛期を築いた康熙帝・雍正帝・乾隆帝に仕えたイエズス会宣教師、兼画家であるカスティリオーネらがバロック様式を取り入れて設計した離宮
こうなっては主戦派もどうにもならず、ロシアの仲介を経て天津条約をまとめた和平派・恭親王らが改めて交渉。1860年に北京条約を結びました。
当然ながら天津条約よりも厳しい内容になっており、天津条約を実施することに加えて
- 賠償金の増額
- 天津港の開港
- 清朝の自国民の海外移住禁止政策の撤廃と移民公認
さらに英仏それぞれに対する内容も定められており、香港島の海の向こう側にある九龍半島南部までイギリスに割譲されることになっています。
アイグン条約(1858年)と北京条約(1860年)
清でアヘン戦争以降、大混乱が起こる中で動いたのがロシアです。
ロシア帝国の東シベリア総督がアロー戦争で窮地に陥っていた清に迫ってアイグン条約と呼ばれる条約を結びます。
アイグン条約により、かつてのネルチンスク条約で決められたロシアとの国境線は大きく後退。黒竜江(アムール川)以北の土地を奪われました。
※ベージュの範囲がアイグン条約、ピンク色の範囲が北京条約でロシアが獲得した領土です。ネルチンスク条約で決められた国境線は太いピンクで描かれた線の部分にあたります。
また、その後仲介した北京条約ではウスリー川以東の土地を獲得。沿海州として新たな州がロシアの領土となりました。翌61年にはウラジヴォストーク軍港の建設が開始され、のちに日本との軋轢を招く事態になっていくのです。