クリミア戦争の背景・流れ・終わり方を見てみよう

ニコライ1世の治世~日本との関係悪化まで【ロシア史】の中に出てきた1853年10月16日に発生したクリミア戦争の背景が結構複雑だったので、補足という形で今回はまとめていきます。
加えて、簡単にではありますが戦争でどういった経緯を辿っていったか?どんな形で終結したか?も見ていこうと思います。
クリミア戦争が起こった当時の背景とは?
クリミア戦争を理解するのに必要なのが、19世紀前半のヨーロッパの流れです。
ヨーロッパでは、啓蒙思想の広がりを背景に、自由や権利を求める考え方が強まっていきました。その影響は、アメリカ独立革命やフランス革命にもつながっていきます。
また、フランス革命後、ナポレオンが台頭し、ヨーロッパ各地に自由主義やナショナリズムが広がります。ですが、ナポレオンが失脚すると、ヨーロッパの列強は革命や民族運動の広がりを警戒し、ウィーン体制と呼ばれる保守的な国際秩序を作りました。
ところが、このウィーン体制も長く安定しませんでした。一度広がった自由主義やナショナリズムの思想が上から抑えつけるだけで収まるはずがなかったのです。
1830年の七月革命、1848年の二月革命、そしてヨーロッパ各地に広がった1848年革命によって、自由主義やナショナリズムの動きは再び強まっていくことになります。

こうした流れの中で、ヨーロッパの列強協調は少しずつ揺らいでいきます。これをさらに大きくした戦争の一つが、クリミア戦争でした。
クリミア戦争は、ロシアの南下政策、オスマン帝国の衰退、聖地管理権をめぐる対立、そしてイギリス・フランスの思惑が絡み合って起こった戦争です。
今回は、クリミア戦争がなぜ起こり、ヨーロッパの国際秩序にどのような影響を与えたのかを見ていきます。
力関係の変化
自由主義の波及前の状況として、17世紀頃に最大版図を作り上げたオスマン帝国と18世紀後半~19世紀初めにかけて産業革命が起こったヨーロッパ諸国の力関係が下記のように変化していました。
17世紀頃 オスマン帝国 > ヨーロッパ
↓
19世紀頃 オスマン帝国 < ヨーロッパ
そのため、オスマン帝国の支配下にあった地域では、独立や自治を求める動きが起こりやすくなります。ギリシア独立戦争(1821~29年)も、その代表的な例です。

一方、ロシアは黒海から地中海へ出る道を重視し、オスマン帝国方面へ影響力を広げようとしていました。正教徒保護を掲げながら、オスマン帝国領内の民族運動や宗教問題にも関わっていきます。
こうして、オスマン帝国をめぐる問題は、単なる一国の衰退ではなく、ロシア、イギリス、フランスなどの利害がぶつかる国際問題になっていきました。
このような問題は東方問題と呼ばれ、やがてクリミア戦争へとつながっていきます。
ロシアが警戒された理由
ロシアがオスマン帝国への影響力を強めようとしていく動きの中で重要だったのが、1833年にロシアとオスマン帝国の間で結ばれたウンキャル・スケレッシ条約です。

この条約によって、ロシアはオスマン帝国に対して強い影響力を持つようになりました。特に、黒海と地中海を結ぶ海峡の扱いをめぐって、ロシアに有利な状況が生まれたことは、イギリスやフランスにとって見過ごせない問題です。
ウンキャル・スケレッシ条約には、オスマン帝国がロシアの要請に応じて、ダーダネルス海峡を他国の軍艦に閉ざすという秘密条項がありました。
これによりロシアは海峡方面で大きな影響力を持つことになり、英仏はこれを強く警戒しています。
ちなみに、秘密条項と聞くと、どこか陰謀めいたものに見えるかもしれません。が、近代の列強外交では表向きの条約とは別に国益や安全保障に関わる取り決めが置かれることもあったので、珍しい話ではありませんでした。
ロシアが海峡方面へ影響力を強めようとすれば、地中海やインド方面へのルートを重視するイギリスにとっては大きな脅威になります。フランスにとっても、オスマン帝国への影響力をロシアに奪われることは避けたい問題でした。
こうして、オスマン帝国をめぐる問題は、単なるロシアとオスマン帝国の対立ではなく、イギリスやフランスも関わる国際問題へと広がっていきます。
宗教問題
まず当時の聖地エルサレムの管理権について。どういった変遷を辿っていったか関わりのある部分だけ簡単に。
オスマン帝国がエルサレムを支配していたマムルーク朝を滅ぼしイエルサレムを管理下に置くように
対ハプスブルク帝国でフランスとオスマン帝国が同盟を結成した際に、フランスによるイェルサレムの治外法権を認めた
フランスで絶対王政が崩れ、共和政となる
ナポレオンのエジプト遠征で混乱中、オスマン帝国を支援していたロシアが間に入って(オスマン側に)管理権の優位性を認めさせた
ヨーロッパはウィーン体制に移行。フランスは王政復古でブルボン朝が復活
フランスでは王政復古したものの時代遅れの統治で2度の革命が起こり、ナポレオン=ボナパルトの甥ナポレオン3世が権力を掌握した
ナポレオン3世がフランス内でのカトリックの人気を高めるためオスマン帝国に圧力 → 管理権をめぐってロシアが反発
こうした経緯があったため、ロシアとフランスは完全に対立。
オスマン帝国とロシアの関係はかなり悪くなっていましたし、先進国であったフランスが完全にオスマン帝国側につく決め手となりました。
なお、フランスはオスマン帝国の最大の債権国だったりとロシアと対立する他の要素も持ってもいたようです。
イギリス外交の失敗
この時期のイギリスは完全にロシアと敵対していたわけではなく、当時連立政権だったこともあって内部にロシアに同情的な派閥と逆にロシアの拡大姿勢に危機感を抱いていた派閥両方が存在していました。
ロシアの拡大姿勢を危惧していた勢力はイギリスの影響下にあったインドへの航行が地中海の不安定化や中央アジア方面への南下により妨げられかねないと考えていたようです。
そのため、仲介できる大国の立場であっても身動きが取れず、小さな火種のうちに消すことが出来ませんでした。
クリミア戦争の開戦(1853-1856年)
以上のような背景が重なりながらも交渉は続けていたのですが、結局両者妥協できずに失敗に終わります。
1853年7月にロシアがオスマン帝国で自治権を持っていたモルダヴィアやワルキア(現在のモルドバ、ルーマニアの一部)へ進軍しました。どちらも多数派が正教会の一派を信仰していたため「解放」目的の進軍であり、宣戦布告は行われないまま軍は進められています。
オスマン帝国は再三にわたって撤退勧告を促すもロシアは行わなかったことから同年10月にオスマン帝国が攻撃を仕掛け開戦したのです。
なお、このモルダヴィアやワルキアといった地域はオーストリアのすぐ側にある上にオーストリアは国内にスラブ系民族を抱えていたため、クリミア戦争以前は友好国だったオーストリアとロシアの関係が悪化しています。
ギリシア義勇兵たちと英仏の参戦
バルカン半島では以前からギリシア以外にもオスマン帝国の支配下に置かれていた独立したい勢力が複数存在していました。
ロシアとオスマン帝国が直接対決している間に、そういった勢力がロシアから援助を受けながら叛乱を起こします。この叛乱にギリシア義勇兵が北上して参戦。オスマン帝国は挟み撃ちされることに。

なお、1853年7月にロシアが進軍した時点でイギリスはロシアへの警戒心の方が強くなっていましたからオスマン帝国側を支援することに決めています。
そのため、英仏にとってもこのオスマン帝国の状況は非常にまずかった。ギリシアからの義勇兵を止めるようギリシャに撤退を英仏は求めますが、独立を果たしたばかりのギリシャは政府が弱く義勇兵たちを止めることが出来ません。
そこでフランスはギリシャ義勇兵の武器を積んでいた輸送船を、イギリスはアテネの港湾都市を封鎖してオスマン帝国へ攻め込めないようにしました。
こうしてオスマン帝国はロシアに攻め込まれ気味だったのを何とか元の状態にまで押し戻し、膠着状態に持ち込みます。この時点で英仏ともに支援はしてもこれ以上深入りするつもりはなかったのですが...
ロシア軍による港湾施設まで徹底的に破壊されたシノープの海戦により世論が一変。各国メディアが『シノープの虐殺』と報道したことにより一気に強硬論へ傾いたのです。英仏は共に参戦することになりました。
なお、この英仏の要請によりイタリアにあるサルディーニャ王国も戦争後半になって参戦しています。当時はイタリア半島の統一を目指す動きが活発化しており、
- 国際的な地位の向上
- イタリア統一への支援のために英仏に接近したい
- そもそも地中海が荒れるのは困る
こういった意図があったようです。
終戦へ
英仏の参戦により船(建艦技術)・武器弾薬(飛距離が違う)・輸送手段どれをとってもロシアは遅れているのが明らかになった一方で、英仏両国も現地を知らずフランスでは戦う前に嵐により艦隊を失うなど重大なミスを犯しており戦いは長期化していました。
中でも戦闘の激しかった地域はクリミア半島にあるロシアの「セヴァストポリ要塞」を巡る攻防戦です。
ロシア黒海艦隊の根拠地であり、約一年に渡って戦って最終的には英仏土連合軍が勝利し、黒海艦隊が無力化。連合軍が国海の制海権を獲得しています。
ただしロシア側もタダでは転ばず、黒海東側の「カルス要塞」を落として連合軍に痛手を負わせ、クリミア戦争完敗だけは避けました。
なお、この時期には戦死者より病死者の方が多くなっており、イギリスもオスマン帝国も戦費が嵩んで財政破綻状態だったことから、次第に同盟国として参加した英仏では厭戦ムードが漂い始めるようになっています。
両陣営ともに経済もマズい、戦死者や病死者が多いことなどから1856年にオーストリアとプロイセンの呼びかけにより講和交渉が始まったのです。
パリ条約(1856年)
色んな年代にパリ条約は結ばれているのでややこしいですが、今回のパリ条約を締約した国は戦争に参加したロシア・オスマン帝国・イギリス・フランス・サルディーニャ王国、両陣営の仲介役を担ったオーストリアとプロイセンの7カ国です。
この条約では、オスマン帝国の方が実質勝利状態で幕を閉じたため
- オスマン帝国の領土保全
- ボスポラス海峡とダーダネルス海峡ではオスマン帝国以外の軍艦が通過できないことの再確認
- 黒海の非武装化
- ドナウ川の自由航行(ドナウ川沿岸の国々が常設委員会を設置・監督)
といった項目が盛り込まれています。
独立を目指して戦ったモルダヴィアやワルキアなどのバルカン諸国は、領地の大きさは変われどもロシアの南下政策の緩衝地帯として自治権を確認するにとどまりました(オスマン帝国以外の欧州諸国の保証付きとは言え、ロシア軍政が敷かれる前の状況と変わっていないってことですね...)。
条約締結による影響とは?
1848年以降怪しくなっていたウィーン体制を完全に崩壊させたのが、このパリ条約です。
ウィーン体制下でロシアのアレクサンドル1世が主導してキリスト教的な正義や隣人愛を元に結んだ神聖同盟(ロシア・オーストリア・プロイセン)も消滅しています。
パリ条約の締結でバルカン半島進出を絶たれたロシア以外で最も影響を受けた国はオーストリアでした。
支配下にあったハンガリーの独立運動で、ロシアはオーストリアを支援していたのに今回の件で否定的立場を取ったため関係をかなり悪くさせています。
その影響は両国の関係だけにとどまりません。ロシアとの関係悪化によりハンガリー独立運動の件で支援を期待できなくなったオーストリアはドイツ連邦内での地位を下げ、プロイセンの台頭を後押ししています。
※フランス革命で神聖ローマ帝国は瓦解し、オーストリアを盟主としたドイツの35の領邦(プロイセン王国含む)と4つの帝国都市の連合体をドイツ連邦と呼んでいました。
同時に、ウィーン体制を主導するくらい力を持っていたオーストリアはヨーロッパでの影響力も徐々に失うことに。
こうしてパリ条約を経て『ヨーロッパの協調』を目指したウィーン体制が完全に終了したことで、各国が自国の国益のみを追求する帝国主義に走るようになったのです。
