中華民国を成立させるきっかけとなった辛亥革命とは?流れや影響を簡単に解説
アヘン戦争(1840~42年)、アロー戦争(1856~60年)、清仏戦争(1884~85年)、日清戦争(1894~95年)の敗北などで清の権威が著しく落ち列強諸国の半植民地のような存在となっていく中、清国側も洋務運動や変法運動などを通して近代化を目指しました。
ところが、西太后をはじめとする保守派や列強諸国を嫌う一般庶民の反対もあって上手くいきません。1899年には義和団事件(北清事変)が起こります。
義和団事件が勃発した当初は保守派も義和団事件の中心組織に近い立場を取りましたが、状況が悪化すると反乱軍を「匪賊」と呼び切り捨てました。
この一件で保守派も近代化の必要性を感じるようになって光緒新政を開始した一方、国内には王朝への不信感が広まっていきました。そうした不信感から孫文らによる打倒清王朝の動きが活発化し始めます。
ここでは、そんな打倒清王朝を達成した辛亥革命についてまとめていきます。
辛亥革命(1911~12年)とは
1911年に発生し、成立から約300年近く続いた清王朝を滅亡させ中華民国を樹立させたのが辛亥革命です。辛亥革命の辛亥は1911年の干支からつけられています。
辛亥革命は、列強諸国の介入とそれに対する王朝の対応に対する不満が募った結果起こったものですが、革命が起こる前の段階で数々の革命グループが密かに誕生していました。
清朝の衰退と近代化への試み
先ほど少し触れていますが、革命前には清国内でも改革しようという動きが見られています。中でも日清戦争敗北後に始まった光緒新政は辛亥革命に大きく影響しました。簡単に内容を整理すると…
- 科挙の廃止:伝統的な官僚登用制度の廃止と近代的な教育制度の導入
- 憲法大綱(1908年):大日本帝国憲法を参考にした憲法の制定と国会開設の公約
- 新軍の設立:軍隊の近代化
上記のような延命策が施行されます。が、そうした延命策を講じても民衆の不満は募る一方だったようです。
憲法大綱が辛亥革命とどう関連したのか
日本の大日本帝国憲法を模範とした憲法大綱は、皇帝の権限を大幅に強化した中央集権的な内容です。日本でも天皇を中心とした中央集権国家を作り上げていましたが、日本の場合は過去に力を持った政権を潰したうえで新たに作った憲法だったため状況が大きく違っていたのでしょう。
これまでの経緯も踏まえると、おそらく王朝色をなくす方向じゃないと人々を納得させられなかったと思われますが、1911年に組閣した内閣は13人の閣僚のうち皇族が5人を含む8人が満州人。『親貴内閣』と批判の対象となり、憲法に期待した立憲派を大いに失望させました。
教育制度の近代化と革命グループの成立
学制が変わったことで多くの留学生や新式学校の学生たちの間には革命思想が広まりました。特に日本ではアジアでも早い段階で近代化に着手していたため、清国から多くの留学生がやってきており、やがて革命派の活動の中心になっていきます。

革命派が日本で活動した背景には1904~05年の日露戦争の勝利も影響しています。
1905年には革命指導者たちが革命グループの合併について議論するために東京で出会い、興中会・光復会・華興会などの革命グループを合併し中国同盟会という組織を作り上げました。
活動の原則は
- 民族の独立(民族主義):清朝打倒と自主性の確立
- 民権の伸長(民権主義):共和政の実現と民主政府の樹立
- 民生の安定(民生主義):経済格差の是正と国民生活の向上
いわゆる三民主義と言われる孫文(興中会をハワイで創設した人物)が発表した理論を軸としていました。
革命のきっかけとは?
直接的なきっかけとなったのは清朝が実施した鉄道国有化政策に反発した四川暴動(1911年)です。
清国内に異国からの干渉を嫌う者達や地方に利権を持つ者が多くいた中、列強の資本によって鉄道を国有化しようとしていたことから反感を買いました。
この四川暴動がさらに広がり他の省でも反乱が起こると、清朝打倒を目指す動きが本格的に。
中でも四川暴動と同年の1911年10月に起こった武昌蜂起は光緒新政で近代化された軍隊・新軍の兵士たちによる反乱で、辛亥革命の始まりとされています。
袁世凱と辛亥革命
新軍は日本とドイツの軍政を参考に作られたもので、義和団事件でも活躍しました。直隷総督兼北洋大臣の袁世凱が北洋新軍を、湖広総督の張之洞が南洋新軍を編成しています。彼らの中にも清朝の政治腐敗や統治の混乱に対して憤る者たちが多数おり、蜂起に繋がりました。


袁世凱は日清戦争の頃の実力者で淮軍を編成した李鴻章の後継者として北京周辺を引き継ぎました。
戊戌の変法では康有為ら変法派を支持(ただし、後に西太后派についた)し、光緒新政でも中心に立っています。
蜂起に対して、清朝は袁世凱を内閣総理大臣に任命し鎮圧を命じますが、袁世凱は自身の利益を優先し孫文側と取引を行いました。
長江流域に利権を持っていたイギリスも清の行く先に未来はないと考え、袁世凱を支援。支持基盤の弱かった孫文は袁世凱との取引を決め、
清朝皇帝・宣統帝を退位させる代わりに、袁世凱を臨時大総統とすること
を約束すると、革命軍に寝返り政権交代を促したのです。
辛亥革命のその後の中国
そうした混乱を経て孫文が臨時大統領に選ばれ、1912年1月1日には南京で共和制国家・中華民国の成立を宣言して臨時政府が成立。翌月には光緒帝の後継として即位していた甥にあたる幼帝・宣統帝が退位したことで清朝は最期を迎えました。
この武昌蜂起から最後の皇帝宣統帝の退位までの一連の流れは辛亥革命と呼ばれています。
3月になると袁世凱が約束通り臨時大総統に就任しますが、袁世凱は次第に独裁を強化。帝政を宣言するなど政治的混乱が続きました。
この過程で、第二革命(1913年)や第三革命(1915年)といった反対運動が起こりますが、どちらも失敗に終わっています。
さらに1914年からは第一次世界大戦の勃発、1915年には対華二十一カ条の要求を日本から出され、1916年には袁世凱が死去と中国では混乱の時代が続いていくことに。一方で孫文はその後も国民党を組織し、中国共産党との国共合作を進めるなどして中国革命は続いていきました。
辛亥革命はそうした革命の第一弾であり、中国の近代化と独立への道を切り開いたものと言えます。
辛亥革命は、単に清朝の滅亡を意味するだけでなく、近代的な国家を目指す中国の長い闘いの始まりを示す出来事だったのです。