清(1636-1912年)の成立までを詳しく解説<中国各国史>
清国の前王朝・明では交易拡大を希望するも明にとってメリットのあまりない要求だったため拒否したことで、モンゴル系民族オイラトの指導者エセン・ハンが侵攻するようになっていました。
これに対して明朝の第6代皇帝・英宗が親征しますが、野戦で捕虜となる土木の変(1449年)が起こります。
なお、英宗は明の政治家の対処がよかったためエセンは無条件で釈放しなければならなくなりますが、明の北方民族への影響力低下は免れませんでした。その後、100年以上にわたって『北虜』に悩まされることになっています。
海岸沿いを荒らす倭寇による侵略のことを『南倭』と言い『北虜』と共に明を苦しめる存在でした。
この明を苦しめた両者は合わせて『北虜南倭』と呼ばれています。
ここでは清が成立するまでの明と周辺諸国の状況や、清がどうやって成立したのか?どうやって強大化したのか?流れに沿ってまとめていこうと思います。
土木の変以降の明の国内情勢と周辺国の状況
清は、明の冊封下にあった中国東北部在住するツングース系の女真族と呼ばれる民族が建国した王朝・金の後身国家です。
なぜ女真が力をつけるようになっていたのか?から簡単に解説していきます。
明の衰退と女真族が力をつけるまでの経緯を詳しく解説した『ニート皇帝・万暦帝の治世と明の衰退<1449~1644年>【中国史】』もあるので気になる方はご覧ください。
明国の内部事情
土木の変で英宗が捕虜となっている間、代理で皇帝に就いていたのが景泰帝です。英宗が戻ってきた後の英宗の扱いは難しかったようで、太上皇と尊号を与えたうえで軟禁しつつ、英宗の息子を立太子させて懐柔策を講じています。
ただし、景泰帝の本心は嫡子を皇帝にさせたかったようで後に自らの嫡子を立太子。
一度皇太子となった人物の廃立に反対する者もおり、臣下に金を下賜してやり過ごそうとしたため
臣下に賄賂送るとかw
と悪い意味で噂となりました。
が、その翌年には肝心の嫡子が薨去し、自身も病に伏せがちに。この状況を見た英宗に近い人物たちが軟禁状態の英宗を脱出させ英宗の復位が決まりました。なお、景泰帝には暗殺疑惑があることも追記しておきます。
対外政策
こうした内部対立に目が行きがちとなって対外政策が疎かになった結果、明の北方異民族対策は消極策に転じました。守りを固める方向に向かい、万里の長城の価値を見直し始めます。
ということで、明の時代に万里の長城は改修・増築され、約100年かけて現在まで残る形の万里の長城が出来上がりました。同時に海禁政策を緩めて密輸のうまみをなくし、倭寇を減少させています。
万里の長城の修繕・改築費と軍事費は結構かさんでいましたが、何となく北虜南倭が落ち着きそうな明るい兆しも見えてきたのですが...
明の悲劇?万暦帝の登場
さて、「これから!」という時期に登場したのがニート皇帝・万暦帝です。この万暦帝が自堕落生活をしている間に明は幾度も戦乱に巻き込まれました。
日本から豊臣秀吉が文禄の役(1592年)・慶長の役(1597年)で朝鮮出兵に乗り出すと、冊封国だった李朝は明に援軍を要請。日本との長い戦いを明は行わなければならなくなります。
その軍事費を賄うために銀山を開き民衆からの増税で賄いますが、大部分を宦官が懐に入れてしまう世の中になった上に疫病の流行も重なったため、反乱が頻発(1627・28年の大干ばつがキッカケ)。中でも最大の反乱が李自成の乱でした。
李自成は北京を占領し、明の皇帝たちを自殺に追い込み、明を滅亡させています。
さらに李自成は自ら皇帝を名乗り『順』という王朝を1644年に建国しますが、すぐに後述する清に滅ぼされることになります。
ヌルハチによる金の建国
ツングース系女真族たちも明が混乱中に多くの派閥に分かれて内部争いを始めていましたが、明の軍人により父と祖父を失った愛新覚羅氏のヌルハチが女真族をまとめ、文禄・慶長の役で国力が落ちた隙に遼東※1を攻撃して明から独立。1616年に後金※2を建国しています。
※1.遼東は朝鮮半島の付け根にあたる地域です
※2.かつて12世紀に宋の北方にあった遼という国から独立した女真族の国・金がありました
後金の国内整備
ヌルハチは挙兵の際、当時としては画期的な軍の色分けを実施しました。いわゆる八旗制です。
「黄軍、前進」「青軍、後退」などの命令だけでスムーズに必要な動きができるため便利、なおかつ混乱を抑えることができました。
その後、漢人八旗も加えられて後継政権・清朝の軍事力の根幹をなすことになります。
また、独立した王朝としての体裁を整える必要があったのですが...
かつて12世紀に女真族が創作した文字・女真文字は、13世紀のモンゴルの台頭により金王朝が滅亡して途絶えていたため、新たに満州文字を作りました。清朝初期の記録は、この満州文字でしか残っていないほど使用されていたようです。
ヌルハチ、明へ二度目の攻撃をおこなう
後金の建国後、ヌルハチの方も
- 戦後処理や戦功の配分
- 朝鮮との通商停止※1
- 後金の領土内の漢人との文化的軋轢の発生
- モンゴルの中立化
などの国内問題で動くに動けませんでしたが、ヌルハチの存命中は明も残っていたため明との戦いは避けられません。
※李朝は明王朝に対して臣下の立場をとる事大主義という外交政策をとっており、後金ができた当初は親明背金の外交を貫いています
ヌルハチは1626年に明に対して総攻撃を仕掛けます。
ところが、明では16世紀後半頃より布教のために続々と出入りするようになっていたキリスト教宣教師たちにより伝わっていた大砲などの新しい武器が使われるようになっていました。
明に来たキリスト教宣教師で有名なのが16世紀後半にやってきたイタリア人のイエズス会宣教師・マテオ=リッチです。
中国名で利瑪竇(りまとう)と名乗った彼は、万暦帝に拝謁して世界地図の『坤輿万国全図』や徐光啓の協力を得て『幾何原本』を刊行しています。
明は遼東を失って以降、マカオで製造されていたポルトガル式の大砲(紅夷砲)の導入を決めていたのです。これまでキリスト教徒たちと深い関係を築いていた徐光啓らによって導入され、軍事拠点に配備されています。
※マカオは1557年以降、明との交渉を経てポルトガル人が居留するようになっています
ヌルハチ率いる後金軍は、この大砲の射程を見誤ったことで敗北。ヌルハチは攻撃の際に負傷し、同年の1626年に死去しました(戦争の時の怪我が原因という説もあります)。
その後、ヌルハチの後継者・ホンタイジも明に攻め込みますが撃退されたため、方針を変えることに。
大砲導入を決定した袁崇煥(えんすうかん/三国時代の諸葛孔明になぞらえられるほど優秀な人物)が謀反を企てているという噂を間諜に流させ、処刑に追い込んだことで明の運命は決定づけられました。
清の誕生(1636年)
2代目ホンタイジの代になると、1627年の丁卯胡乱(ていぼうこらん/朝鮮での呼び方)、1637年の丙子胡乱(へいしこらん/朝鮮での呼び方)※を経て朝鮮を属国化。これを皮切りに他国への影響力を拡大していきました。
また、中国東北部から万里の長城以北の漢民族の多くいる地域にも進出。
ところが、漢民族にとって「(後)金」という国号は、女真族たちに自分たちの国・宋の北半分を奪われ淮河以南の地を逃げ出した歴史を思い出させるものでした。
そんなわけで、ホンタイジは漢民族にも受け入れられやすくするために名前を『清』と改めました。また『女真族』の『女真』も『満州』に改めています。
いよいよ中国へ
二代目ホンタイジは中国の東北部を完全に掌握した51歳の時に、急病で遺言を残さないまま死去しました。
跡を継いだのはホンタイジの九男でまだ6歳の順治帝です。順治帝が後を継いだのは李自成の乱の約2年前の出来事となります。
まだ幼かったため摂政が政治のかじ取りを行っていましたが、その間に万里の長城を越えて李自成を討伐。本格的に清が中国内になだれ込んだのです。
順治帝の治世
その後、順治帝が13歳で親政を始めると摂政の一派を一掃し内政改革を始めました。
これまでの中国歴代王朝腐敗の原因二大巨頭?の宦官(もう一つは外戚)を摂政が廃止していたのを復活させて明の体制を継承。中国で最も多い人口を有する漢人の文化や漢の王朝・明を継承する姿勢を見せ、漢民族を懐柔する方向性を示したのです。
かつてヌルハチの作った満州文字で記された公文書なども漢字が併用されたのもこの頃です。
この動きにより、清は
「明を倒した李自成を逆賊として討伐した」
という大義名分を得ることに成功し、圧倒的多数の漢民族が少数の異民族による統治を受け入れることが出来ました。
時期までは調べられませんでしたが、清の時代に用いられた満州人と漢人が同数役人に任命される満漢併用制も、そうした漢民族の懐柔策の一つです。
清、最盛期に突入
これまで書いてきた清朝の三代目までの皇帝達がやってきたことをまとめると下のような感じです。
- ヌルハチ:清国の前身・後金を建国
- ホンタイジ:領地拡大
漢民族に受け入れられやすいよう国号を「清」に変更 - 順治帝:万里の長城を超えた領地拡大。
先代に引き続き漢民族に受け入れられやすいような制度を整備
このことからも分かるように、清朝は非常に優秀な皇帝達が続々と登場していますが、清の優秀な皇帝は三代目に留まりませんでした。
順治帝の後に登場するのが第4代皇帝の康熙帝。
彼は中国史上最高の名君とも称えられるほどの人物でした。さらに雍正帝・乾隆帝と黄金期を築き上げていくのです。