ヨーロッパのアジア市場進出と攻防
15世紀半ばに大航海時代が始まり、ヨーロッパ諸国がインド航路を発見。当時は経済的にはアジアの独壇場で中国・インドが二大経済国として存在感を放っていました。
大航海時代が始まってからアメリカ大陸では割と早い段階で広域な支配権を広げていきますが、アフリカでは求めていたのが奴隷と若干の物資のみでコストが見合わずに支配は沿岸部に留まっていました。内陸部の王国との交易で十分だったようです。
一方でインドや中国といったアジア市場に関してはこの時点ではまだ力の差が大きく、ヨーロッパ諸国は「アジア内貿易に参入する」という形をとっていました。
※東南アジア諸国はヨーロッパが追い求めていた香辛料の本場であること、島が多いことから早い段階で植民地化されています。
次回以降にインド進出やアメリカの植民地化について解説する予定ですが、ここではその前段階にあたる『ヨーロッパのアジア市場での攻防』について語っていきます。
アジア市場に最初に進出した国・ポルトガル
大航海時代の目的であった香辛料の一大産地は南アジア・東南アジアでした。ヨーロッパにとって香辛料は喉から手が出るほど欲しい商品だった反面、ヨーロッパのアジア向け商品はほぼ皆無。ヨーロッパの銀がアジアへ流出する事態を招きます。
そもそもヨーロッパで最も早くインド航路を開拓したのはポルトガルで1505年にセイロン島(スリランカ)に進出後、その5年後の1510年にはインドのゴアを占領していきます。
このセイロン島やゴアを拠点に、当時香辛料貿易を担っていたムスリム商人と競合を繰り返しながらマラッカやモルッカ諸島も支配下に置いていきます。
※中でもモルッカ諸島は香辛料の一大産地だったためどの国が領有するか大きな関心ごととなりました。
ポルトガルに続いてスペインも海外進出するようになるとトルデシリャス条約により世界は二分され「西側がポルトガル領」「東がスペイン領」と取り決められることになりました。その中で東南アジアのほとんどをポルトガルが領有することが決まっています。
さらにポルトガルは明とも広州で通商を開くようになりました。
が、ポルトガルは人口がそこまで多くない国です。海外交易をおこない、人材が外部に流出することで衰退していきます。人材育成や自国産業に人手を割けず、アジア貿易の主導権を取ることはできませんでした。
スペインのアジア進出
ポルトガル王女を母に持つスペインのフェリペ2世がポルトガル王位に就いたことでポルトガルはスペインに併合され、同君連合となっています。
既にアジア進出をしていたスペインが1521年にマゼラン率いる艦隊が西回り航路でフィリピンに到達。後に植民地化しました。
フィリピンの名前は『フェリペ2世』からつけられています。
スペインの場合、アメリカ大陸にも植民地を持っていたため、フィリピンとメキシコ太平洋岸のアカプルコと結んで、マニラを拠点としてアジアに進出しています。カトリックの布教にも努めながら交易も行いました。
ところが、こちらも少しずつ力を失うことになっていくのです。
オランダのアジア進出
16世紀前半から本格的に宗教改革が始まると、プロテスタントをスペインが弾圧。スペインの支配下にあったオランダではプロテスタント教徒が多くいたことから独立を果たします(オランダ独立戦争/八十年戦争)。
その戦費を賄うためにもオランダは積極的に交易を行ないました。
オランダが豊かになっていた理由とは
そもそもプロテスタント、中でもカルヴァン派を信仰する者たちの中にはその教義の特性から商工業者が多くいました。
かねてからオランダは北方の北欧諸国と南欧の間を仲介する交易の盛んな地域です。
しかも、ヨーロッパでは14世紀半ばの黒死病大流行で著しい人口減少が起こった後、人口が増加し1550~1650年にかけて食糧不足の問題を抱えるようになっていました。そこで、当時、ヨーロッパの穀倉地帯・ポーランドからの穀物輸送をオランダ商人たちが担います。
そんなわけで、オランダにはカルヴァン派が多数を占めており、スペインと仲が悪くなったわけです。
オランダのアジア進出
そのオランダは1602年には株式会社の形態で作った連合東インド会社を設立し、アジア進出を進めていきました。
1619年以降はジャワ島のバタヴィア(現インドネシア、ジャカルタ)を根拠地とし、クーンを東インド会社の総督として同君連合となっていたポルトガルとスペインの勢力を排除。オランダの東南アジアでの勢力を拡大していきます。
- セイロン島(スリランカ):かつてのポルトガル領だったが攻撃して獲得。シナモンの特産地。
- マラッカ:ここもかつてのポルトガル領。現在でもシーレーンの重要箇所とされているように、昔からアジア方面に向かう際の海上交通の要路となっていました。ポルトガルの重要な根拠地であったことから占領は遅れますが、マラッカを取られたのを機にポルトガルの東南アジアでの勢力は一気に衰えさせました。
- 台湾:当初はマカオを取る予定でしたが、ポルトガルと明により諦めて明の支配下にない台湾に進出。ただし、1661年に大陸で明から清に移行する混乱期のさなかに鄭成功が台湾を支配してオランダの手から完全に離れています(後に台湾は清に降伏)。
- その他:スマトラ島・スラウェシ島、モルッカ諸島など
このクーンが失脚する原因となったのが1623年のアンボイナ事件です。この一件で東インド会社を作り、東南アジアにも進出するようになっていたイギリスを追い出すことに成功しました。
アンボイナ事件とは
オランダはかつてポルトガル支配下にあったモルッカ諸島を既に支配下にしていましたが、アンボイナ事件が起こったのはそのモルッカ諸島のアンボン島です。
対スペインで協力関係にありながら徐々に交易面で競合関係になりつつあったのがイギリスでした。オランダは、そのアンボン島にあったイギリスの商館を襲撃し「オランダ商館襲撃を計画しているだろう」と因縁をつけて商館員の多数を殺害しています。
なお、オランダが言うには「イギリスによる商館襲撃で日本人傭兵を使う計画を立てていた」とか。
以上のような経緯で東南アジアのオランダ領東インドの基礎を固め、1799年の東インド会社解散以降の本国による直接統治までは東インド会社による統治が続くことになります。
さらに、オランダは1652年に本国から東南アジアに向かう航路の途中の南アフリカにケープ植民地を作りました。この植民地に入植したオランダ系の人々はブール(ボーア)人と呼ばれ、後々イギリスとひと悶着起こすことになります(ボーア戦争/南アフリカ戦争:19世紀~20世紀)。
オランダの衰退とイギリスの台頭
そんな感じでオランダは17世紀前半から半ばにかけてアジア方面の貿易において強勢を誇りました。
ところが、絶対王政で常備軍による大軍を率いることが可能になったフランスやイギリスとのパワーバランスが崩れるようになってきます。
同時期より起こった三回に及ぶ英蘭戦争(1652-1654年/1665-1667年/1672-1674年)、ルイ14世によるオランダ侵略戦争で大ピンチを迎えたのです。
この大ピンチをオランダ総督ウィレムが切り抜けます。
ちなみに彼の妻はイギリス女王アンの妹のメアリです。名誉革命の末にウィレムがウィリアム3世として、メアリがメアリ2世として即位し、実質的には同君連合となっています。
ただし、ウィレムの死後(1702年)にイギリスとの関係が切れると
- 綿織物や茶の人気が高まっていたが、インドや中国との交易にオランダが食い込めなかったこと
- オランダの賃金高騰により国際競争力を失っていたこと
などの理由からオランダは海洋帝国としての地位を失いました。
実際の所はイギリスの(大西洋)三角貿易が本格的に軌道に乗ったことが大きいようですが…
インドはアンボイナ事件でオランダがイギリスを追い出した後に根拠地とした場所です。時代の変化と共に人気商品が変わったことで新たな局面を迎えたわけですね。
一方で、イギリスはもう一つの台頭していた勢力フランスとの植民地戦争を繰り広げます。第二次百年戦争です。
次回の世界史では、この第二次百年戦争やイギリスがインドでどう力をつけていったのかなどをまとめていこうと思います。