大航海時代とは?ルネサンスとの関係などを簡単だけど詳しく解説!
これまでも大航海時代については時折触れてきましたが、スペイン・ポルトガルの歴史を書くにあたって触れていたり地政学的な視点からの大航海時代についての記事を書いたりはしたものの「実際になんぞや?」という部分には触れてきませんでした。
ということで、今回は具体的な歴史的な視点から見た大航海時代を見ていくことにします。
大航海時代って何?(15世紀半ば~)
大航海時代とは、西ヨーロッパ人による大西洋やインド洋に進出し、世界の一体化が急速に進んだ時代のことを指しています。
アフリカ・アジア・アメリカ大陸への航路が新たに開拓されると、それまでの地中海を中心とした交易ルートが大西洋沿岸諸国へ移ります。その後の周辺諸国の力関係が変化するきっかけとなりました。
なぜ大航海時代の始まりは?キッカケについて簡単に
詳しい事は割愛しますが、大航海時代のきっかけとなったのは地中海の覇権を握っていたオスマン帝国の存在が大きかったと言われています。
この頃のヨーロッパでは香辛料の需要が増加していますが、それまでに確立された地中海を通る航路では地中海の『オスマン帝国』と『イタリア商人』が仲介に入り、香辛料の値段が高騰していたのです。
さらに、大航海時代が最も早く始まったイベリア半島(ポルトガル・スペイン)はイスラム王朝に対する国土回復運動(レコンキスタ)末期でカトリックへの宗教熱が高まった時期だった一方、教会の腐敗から宗教改革の萌芽が生まれ始めていた時期でもあります。
※14世紀末期にはイングランドのウィクリフ、その後、彼の教えを継承していたチェコのフスなど
そうしたローマ=カトリック教会の土台が揺らぎ始めていた背景も、レコンキスタにより宗教熱の高まっていたポルトガル・スペインが「キリスト教を布教しよう」という動機を持つことに繋がったようです。
ルネサンスと大航海時代との関係とは??
ルネサンスは古代のローマやギリシアの文化を復興しようとする運動のこと。文化には芸術や学問も含まれていました。
このルネサンスが起こる前の段階で、十字軍の失敗というキリスト教会の権威を失墜させる出来事がありました。
さらに、十字軍遠征では先進的なイスラーム王朝との差を見せつけられた一方、交流が進んで社会・経済の発達が促されています。なお、イスラム世界との交流により
- 羅針盤の実用化
- 造船技術の向上
などをヨーロッパにもたらしました。
そんな背景の中でペスト死生観により死生観が変化し「教会に祈っても・・・」と感じるような人やキリスト教以外の価値観も模索し始める者が現れます。もちろん医学分野での科学的知識の重要性を痛感し、違う視点で物事を見ていこうとする人も出始めました。
※ペスト医師の来てる服は、もう少し後の防護服です
ちょうど同時期、現在トルコのあるアナトリア半島ではオスマン帝国が膨張し、ギリシアのあるバルカン半島から知識人がイタリア方面へ逃げ出していました。これにより古代ギリシアに精通する人材がイタリア半島に集まったことで、ルネサンスが加速することに。
結果、過去の知識と当時の知識・技術が組み合わさって、大航海時代を迎えられるだけの技術が発展したのです。
wikipediaパオロ・ダル・ポッツォ・トスカネッリ『トスカネッリの世界地図』より
特筆すべきなのがイタリア人のトスカネッリが作った地図。2世紀ごろの古代ローマで活躍したプトレマイオスという自然学者が残した地理書、天文学の知識、大洋の航海に必要な測緯儀、地球球体説に基づいて作成されました。
- 測緯儀とは・・・
-
山川出版『詳説世界史研究』に載っていた用語ですが、どんなものかは調べられませんでした。
ただ、プトレマイオスの本『地理学』には緯度と経度を使って地図を描く技法も載っていたようなので、それに関する道具と予想しています。
※中世に緯度と経度を使って地図を作る技術は失われていました。
大航海時代第一弾!ポルトガルはなぜ一番に新航路開拓に乗れたの?
新航路開拓を最も早く行ったのはポルトガルでした。
ポルトガルは上の地図だと一番濃い色の国。最後のイスラム王朝・ナスル朝グラナダ王国はイベリア半島の大部分を占めるカスティーリャ王国の南側に位置しており、スペイン(上の地図でいう『CORNA DE CASTILLA』と『CORNA DE ARAGON』合わせた国)よりも相当早い1249年にはレコンキスタを終えていました。
その後、ペストの流行や隣の大国カスティリャ王国からの介入など困難の時代を乗り切ると、アヴィス朝の初代国王ジョアン1世(在1385~1433年)がポルトガルを絶対王政の国へと変化させています。
彼の息子がエンリケ航海王子。大航海時代の先鞭をつけた人物で、研究所を作り航海者を養成して新航路を開拓できる人材を何人も輩出しました。エンリケ航海王子が亡くなった後はポルトガル王・ジョアン2世が航海事業を引き継いでいます。
ポルトガルによるアフリカ・アジアへの侵略
中央集権化に成功して表面上の敵対勢力がいなくなったこと、エンリケ航海王子の存在からポルトガルは他国に先駆けていち早く大航海時代に突入していきました。
- バルトロメウ=ディアス(1450頃~1484年):喜望峰
- ペーロ=ダ=コヴィリャン:アフリカ東海岸
- アフォンソ=ダ=パイヴァ: 〃
- ヴァスコ=ダ=ガマ(1469頃~1524年):喜望峰周りでインドのカリカットに到達
- カブラル:ブラジル(1500年) → アフリカ大陸 → インド
彼らが新航路を開拓していったのです。
当然、新航路開拓ということで大航海以前の交易の中心でありヨーロッパと東南アジアの中継貿易で儲けていた地中海沿岸の国々は警戒します。
また、ヴァスコ=ダ=ガマが到達したカリカットはムスリム交易圏に組み込まれており、オスマン帝国やエジプト(マルムーク朝)、ヴェネツィアと取引を行っていました。ポルトガルが入るのは面白くないため、カリカットと交易をしていた3ヶ国とポルトガルは険悪になっています。
結果、起こったのがディウ沖の海戦(1509年)です。
オスマン帝国とヴェネツィアが支援し、マルムーク朝とカリカット、さらにインド北西部に位置したイスラーム王朝グジャラート王国がぶつかりました。
この戦いではアルメイダをインド総督に任命し兵を派遣したポルトガルが勝利。既に大航海時代を迎え、荒波での長距離航海に耐えられる船を作り出したポルトガルには太刀打ちできなかったのです。
フランシスコ・デ・アルメイダ(wikipedia)より
以上のような経緯でポルトガルがインド航路を独占。インドとの交易を握っていたムスリム商圏に取って代わることとなったのでした。
なお、アルメイダはインド総督の地位は後継者アルブケルケに手渡すと、本国への帰国中に喜望峰近くで殺害されています。
※マルムーク朝は敗戦後の割と早い段階でオスマン帝国と対立し滅ぼされました。
インド総督となったアルブケルケは
- 西インドのゴア(1510年)
- マラッカ(1511年)
- ペルシア湾港・ホルムズ(1515年)
- 紅海入り口にあるアデン( 〃 )
を占領。インド洋を支配するうえでの重要拠点を固めたことで
- スリランカのコロンボ占領(1517年)
- 日本の種子島(鹿児島県)に漂着(1543年)
- マカオへの居住許可(1557年)
以上のような東方面へも進出することが出来たのでした。
スペインによる大航海時代の始まり
スペインの大航海時代の始まりは、この夫婦から始まります。カトリック両王です。
イタリア出身でリスボンに移住し、航海士・地図製作者として名の知られていたクリストファー=コロンブスは「ヨーロッパの西の海・大西洋を突き進んでアジアへと向かう」西廻り航路を開拓する計画を立てましたが、ポルトガルで提案を断られます。
自身でお金を全て用意するのは厳しいけれど、航海を諦めきれないコロンブス。今度はスペインへ売り込みを開始しました。
クリストファー=コロンブス(wikipedia)より
そんなコロンブスの話にはイサベル1世が興味を示します。ただ、この頃のスペインの国家財政は厳しく一度白紙に。ところが、この頃ちょうどカスティーリャ南方ではグラナダ王国が陥落してレコンキスタが終了。財政に余裕が出来た事で支援が決まり、スペインの大航海時代が幕を開けたのでした。
スペインによる植民地支配
コロンブスが西廻り航路で向かった先は、アジアではなく新大陸でした。到着した当時はまだ「インド」と勘違いしています。
新大陸だと判明したのはもう少し先のこと。
1499~1500年にカトリック両王のフェルナンド2世が『西インド(アメリカ)探検航海』を要請。その航海に参加したアメリゴ=ヴェスプッチが後にポルトガル後援でブラジル海岸を探検した時に書いた論文が元となって新大陸はアメリカと名付けられました。
下記はスペインと関係のある有名どころの航海者たちです。
- コロンブス:大西洋廻りで西インド諸島(アメリカの東側に位置する諸島)
- ビセンテ・ピンソン:アマゾン川発見
- バスコ=バルボア:パナマ地峡を横断し、ヨーロッパ人で初めて太平洋に
- マゼラン(1519~22年):フィリピン経由で世界一周 ←本人は途中で死去
こうした数々の開拓事業と探検を経て、スペインはコンキスタドール(征服者)と呼ばれる男たちによって征服活動が進められていきました。
例えば
- バスコ=バルボア:中央アメリカのパナマ地峡とその一帯
- エルナン=コルテス:メキシコを征服
- フランシスコ=ピサロ:ペルーを征服
といった者たちです。
スペインによる植民地経営は過酷を極めます。新大陸ではアウディエンシアが統治機関として行政を担当。植民者たちはエンコミエンダ制によって現地民を強制労働に駆り出します。
この制度はスペイン王室が植民者達に「現地民のキリスト教化を図ってね。代わりに原住民を好きに使役しても構わないよ」という許可を与えたことから始まったようです。
ところが、この制度では、労働による酷使に虐待、加えてヨーロッパ人の持ち込んだ疫病が蔓延して原住民が激減してしまいます。あまりの惨状にドミニコ派の宣教師ラス=カサスが制度廃止を訴える程でした。
その後、現住民が激減して空き地が増えたことでスペイン人がそこを買い入れ大地主になっていきます。この土地で働く者達は、債務を負って一生拘束された債務奴隷たちがメインです。これをアシエンダ制と呼んでいます。
こうして、17世紀頃からはエンコミエンダ制からアシエンダ制に変わっていきました。
西インド諸島(現ハイチ・ドミニカやキューバ)では現地民を使役してプランテーション(大規模農業)によるサトウキビ栽培を行いますが、労働者激減によりアフリカから黒人の奴隷が連れられ少なくなった労働力を補っています。
一方、南アメリカのボリビア高地ではポトシ銀山が開発。この経営もエンコミエンダ制によるものでインディオたちが強制的に働かされ、多くの命を失いました。
大航海時代による影響とは?
ポトシ銀山が開発されて銀が大量に産出すると、スペインは銀を本国に持ち帰りました。ところが、この量が半端なかった。
ということでヨーロッパでは銀の価値が暴落、物価が急激に上がるインフレを起こしたのです。この時、固定された額の地代に依存していた領主たちは物価高騰で没落が決定的になりました。
こうした16世紀中頃に社会変化を起こしたヨーロッパでの価格変動の事を価格革命と呼びますが、大航海時代によって大きな変化が起こったのは価格だけではありません。世界規模で商業・貿易システムも大幅に変わっています。いわゆる商業革命が起こりました。
さらに新大陸の新しい農作物…ジャガイモやトウモロコシ、トマトなどがヨーロッパに持ち込まれ農業面での変化もみられています。
他の国による大航海時代
大航海時代では、スペインやポルトガル以外の国も探検が行われました。
カナダの北方を通る「北西航路」や周辺の探索には
<イギリス>
ヘンリ7世:北米にカボット父子(1497~98年)
ジェームズ1世:ハドソン(1609年、1610~11年)
<フランス>
フランソワ1世:ヴェラッツァーノ(1524年)
ジャック・カルティエ(1534~36年)
を送り込んだ他、ロシア北方を通る「北東航路(今でいう北極海航路)」には、イギリスがエドワード6世の時代にヒュー=ウィロビーとリチャード=チャンセラーを送り込んでいます(他にもオランダ、デンマーク、ノルウェーも派遣していたようです)。
ウィロビーの船は途中ではぐれ、身動き取れないまま冬を迎えると全員凍死などで全滅しますが、チャンセラーの船は無事ロシアに到着し、ツァーリ・イヴァン4世に謁見。イギリスはロシアとの自由貿易を独占することに成功させました。
以上のように初期はポルトガル・スペインが大航海時代を牽引していましたが、他のヨーロッパ諸国も広がり世界は一体化が進んだのでした。