【地政学的な世界史】大航海時代の始まりと地政学的な背景
大航海時代が始まる前のヨーロッパ経済は地中海が中心でした。
しかし、15世紀になるとポルトガルとスペインが海へと繰り出し、大航海時代が始まると、舞台は大西洋岸へ移っていきます。ポルトガルとスペインを筆頭に、海を制したシーパワー国家が世界の覇権を握りました。
大航海時代を地政学的視点で考えると以下のような要素があります。
- 航路の開拓と交通の要衝:
(南東にイスラムの大国・オスマン帝国があったため)新たな航路の開拓が重要
→ 当時のヨーロッパ諸国はアジアとの貿易を拡大するために、アジアとの直接的な交通路を求めた
→ 航路の開拓により、海上交通の要衝となる地域が生まれた
→ 海洋国家の勢力拡大に影響を与えた - 植民地化と領土の拡大:
探検家や航海者たちは新大陸やアフリカ、アジアに到達し、領土拡大を図った
→ 植民地支配下の領土が増加し、植民地帝国の地政学的な影響力が拡大
- 資源と経済的利益:
新たな地域の資源や貴重な商品を求め、需要の高い香辛料や宝石などのアジアの商品の交易を独占
→ 大航海時代を迎えた国に経済的利益をもたらした - グローバルな権力の競争:
新大陸やアジアへの進出が国家の栄光や富を追求するために重要な政治的目標に
→ 植民地帝国の拡大と権力の争いが生じる - 海洋国家の台頭:
海洋国家としての台頭が顕著で、ポルトガルやスペイン、後にオランダ、イギリスなどが海洋交通を支配し、海上での優位性を確立
→ これらの国々は長期的な地政学的影響力を持つように
大航海時代は、地政学的な要素が国際政治や経済に大きな影響を与えた重要な時期であり、ヨーロッパ諸国による世界の探索と植民地化の進展によって、世界の地理的な枠組みが大きく変化した時代と言えるでしょう。
地政学の第二回目は、こうした事を踏まえながら大航海時代について紹介してみたいと思います。
オスマン帝国の地中海制圧
コンスタンティノープル(現在のイスタンブール)は、1453年にオスマン帝国のスルタン・メフメト2世によって陥落しました。これにより、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)は滅亡し、オスマン帝国がビザンツ帝国の首都であったコンスタンティノープルを手に入れます。
ビザンツ帝国首都陥落により、地中海は徐々にですがオスマン帝国の支配下に入りました。オスマン帝国は既にアナトリア半島とバルカン半島を領土に持っていたので、コンスタンティノープルの制圧によって地中海の主要な海域を押さえ、地中海の支配権を拡大します。
オスマン帝国は地中海を交易の重要な舞台とし、オスマンの海として利用しました。
地中海とアジア・中東を結ぶチョークポイントであるボスフォラス海峡とダーダネルス海峡を抑えたことにより、オスマン帝国はこの地域を通じて豊富な商業と文化の交流を行いました。
また、オスマン帝国の地中海支配は地域の政治的な影響力を高める一方で、ヨーロッパ諸国との対立を引き起こす要因ともなります。
地中海のオスマン帝国の支配は、16世紀から17世紀にかけて最盛期を迎えますが、その後はヨーロッパ諸国との競争や戦争、国内の政治的な問題などにより衰退します。
19世紀にはオスマン帝国は領土を多く失い、地中海の支配権も制約されることとなります。その後、第一次世界大戦の結果としてオスマン帝国は崩壊し、地中海は新たな国際秩序の中で新たな役割を果たすこととなりました。
ポルトガルによるアジア航路を発見
ポルトガルによる喜望峰の発見は、アジアとの貿易を目指す大航海時代の中でも重要な出来事です。
喜望峰は現在の南アフリカのケープ半島に位置し、アフリカ大陸の南端にあたります。
15世紀初頭、ポルトガルの探検家バルトロメウ・ディアスが率いる船団が、アフリカ南端を航海し、喜望峰を回り込むことに成功しました。
この喜望峰の回り込みにより、ポルトガルはアフリカ大陸を南から回ってインド洋に進入する海上航路を発見。これはアフリカ東岸とアジアとの間の海上交通を可能にし、アジアとの貿易ルートの新たな開拓を意味しました。
喜望峰の発見によって、ポルトガルはアジアとの貿易を目指し、アフリカ沿岸やインド洋の一部地域に植民地を築きます。特に、ヴァスコ・ダ・ガマが1498年に喜望峰を回り、インドへ到達したことで、ポルトガルはアジアとの貿易ルートを確立したのです。
ポルトガルの喜望峰の発見とアジアへの航路開拓は、大航海時代の進展に大きな影響を与えました。これにより、ヨーロッパ諸国はアジアとの経済的交流を強化し、世界の地理的な枠組みが大きく変化していきます。また、この新たな航路開拓は、後のヨーロッパ列強としてのポルトガルの地位を確立する一因ともなりました。
スペイン・コロンブスによるアメリカ大陸発見
スペインの探検家・コロンブスは、1492年にスペインの支援を受けて大西洋を横断し、アメリカ大陸を発見したことは有名ですね。
当時、コロンブスはアジアへの新たな航路を見つけることを目指していました。彼はヨーロッパから西へ航海してインドに到達することを目指していましたが、誤って新大陸であるアメリカ大陸に到達しました。
1492年コロンブスはスペインのパロス港を出発し、バハマ諸島(サンサルバドル島とされる)に到達します。この到達地点は実際にはインドとはまったく異なる場所でしたが、コロンブス自身はこの地が東インドであると信じていました。
その後、コロンブスはカリブ海や中南米を探検し、西インド諸島やハイチ、キューバなどに上陸します。彼は4回にわたる航海を行いましたが、彼自身がアメリカ大陸に到達したとは理解していませんでした。
代わりに、彼はアジアの一部としての新大陸を探し続けました。
しかし、コロンブスの航海はその後のヨーロッパによる新大陸の探検と植民地化のきっかけとなります。彼の発見により、スペインは新たな植民地としてアメリカ大陸を支配し、ヨーロッパ列強の中でのスペインの地位を高めることになりました。また、新大陸との交流は、文化・経済・社会などに大きな影響を与え、世界の歴史を変える出来事となりました。
上記のような形でポルトガルとスペインが海へと乗り出すことが出来たのは、地中海での商業活動が不自由になったジェノヴァはじめとした商人たちのおかげです。彼らは、両国に資金提供するとともに、地中海で培った造船や航海技術を授けました。
シーパワー国家を放棄した明王朝
15世紀には、アジアの大国・明王朝も大船団を率いて7回に渡り遠征航海を行っています。
その役目を担ったのが、明の航海家であった鄭和でした。
鄭和は明朝の第3代皇帝永楽帝の命により世界を航海し、遠くはアラビア半島や東アフリカにまで船を進め中国の威厳を世界的に示す使命を遂行しました。
永楽帝は新たな航路の開拓を目指して航海を行い、対外的な影響力を高めることを望んでいました。鄭和の航海は広範な航海を行い、東南アジア、南アジア、アフリカの東岸まで到達しました。
鄭和の航海は、当時としては世界最大の艦隊であり、巨大な官民の船や軍船が編成されました。船団には500隻以上の船が含まれ、乗員や兵士を含めて数万人にも及びました。
鄭和の航海は、当時の中国の技術力や海上交易の繁栄を象徴するものであり、彼の探検によって中国の対外的な影響力は高まりました。しかし、鄭和の航海はその後中止され、永楽帝の死後に徐々に忘れ去られてしまいました。
そのため、鄭和の航海による世界史への影響は限定的であり、一般的な世界史教科書にもあまり登場しないことがあります。ただし、近年では再評価され、中国の航海史における重要な出来事として再認識されつつあります。
当時はポルトガルとスペインを上回る造船・航海技術を持っていたとされています。
大航海時代以降は、シーパワー国家が全盛の時代が来るのですが、永楽帝死後外洋に興味がなくなった明王朝は、その主役に踊り出る事はありませんでした。