地政学

【地政学的近代史】西側諸国(自由主義)と東側諸国(社会主義)の対立『東西冷戦時代』

歴ブロ

第二次世界大戦の終結により、世界平和が到来すると期待されました。しかし、世界はアメリカ主導の自由主義陣営とソ連が主導する社会主義陣営との間での対立が深まり、東西冷戦の時代に突入しました。

この時期、朝鮮戦争やベトナム戦争などのリムランド地域を中心に、米ソの代理戦争が多数発生。

このような中、東アジア地域での社会主義勢力の拡大を抑えるため、アメリカ主導の自由主義陣営に日本が組み込まれることとなります。

リムランドとは?

地政学の概念の一つで、主要な大国間の利益や影響が交差する地域を指す。

複数の大国が利害を持つ地域であり、その地域内での競争や対立が頻繁に発生することを表現するために使われます。

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東西冷戦構造と冷戦期の安全保障

二つの世界大戦の目的はドイツの脅威を制御することでした。第二次世界大戦の結果、ドイツが敗北し東西に分裂。これによってドイツの脅威は大きく封じられることとなります。

しかし、新たな脅威として社会主義勢力拡大を目指すソ連が台頭し始めました。

ソ連は、東西ドイツの分裂の状況を巧みに利用しました。これまでのようにドイツが強国であれば、社会主義勢力を抑える盾として機能するかもしれませんでしたが、1945年以降はそのような状況ではありません。

そのため、アメリカを盟主に西側諸国は社会主義勢力に対抗するための集団防衛機構としてNATO北大西洋条約機構】を結成。二つの大戦を経験した欧州諸国は疲弊し、アメリカの支援なしには防衛体制を維持することが難し状況でした。

一方、ソ連にとっては西側諸国の存在が脅威でした。西側諸国が戦略的に重要な地域を染料していました。これに対抗するためにソ連は東欧諸国を占領し一党独裁の共産政権を樹立します。

こうしてソ連は西側諸国の侵攻から自国を守るため、東欧諸国に防波堤の役割を果たさせようとしました。そして、NATOの対抗としてワルシャワ条約機構WTO】を結成します。

このようにして、アメリカを中心とした西側陣営とソ連を中心とした東側陣営の緊張が続く東西冷戦の構造が40年間にわたって続くことになりました。

東西の代理戦争はリムランドで戦火を交える

ソ連や東欧諸国は社会主義体制を持つだけでなく、同時にランドパワー国家の特徴を持っていました。同様に東アジアでも中国が社会主義国家としてランドパワー大国の一員として誕生します。

反対に西側諸国の主要国、アメリカを筆頭にイギリスや日本もシーパワー国家の特徴を持っていました。このように東西冷戦は、シーパワーとランドパワーの力の闘いでもあったと言えます。

アメリカは東南アジアが社会主義勢力に拡大することを恐れ、この地域に軍事支援を提供して社会主義の広がりを牽制しました。特に、シーパワーとランドパワーの競合が激しいリムランド地域に焦点を当てて支援を行いました。

実際、社会主義勢力と自由主義勢力の対立は多くがリムランド地域で発生しました。1950年の朝鮮戦争や1960年のベトナム戦争も、リムランド地域を巡る闘いでした。

アメリカの支援で経済発展を遂げた日本

第二次世界大戦における日米の太平洋戦争は、日本の敗北により終結しました。これによって、太平洋は事実上アメリカの内海となりました。

日本の領土は本州・四国・九州・北海道と周辺の小島のみとなり、アメリカによる占領下に入りました。アメリカは日本が再び国際的な脅威とならないように、その軍事力や産業力を徹底的に制限しようとします。この時期、日本は船舶の保有数などが制約され、シーパワー国家としての機能が制約されていました。

当初アメリカは中国を社会主義の防波堤とする計画でしたが、中国での共産党と国民党の内戦により、共産党が台頭して社会主義国家として成立します。このため、アメリカは日本を防波堤として利用する方針に転換しました。

日本は海を挟んでソ連や中国・北朝鮮と隣接しています。さらに、日本列島はこれらの国々が太平洋を渡ろうとする際にまさに塞ぐような位置にありました。この地理的条件が日本を防波堤に適している要因だと考えられています。

アメリカは日本を西側陣営に取り込み、経済復興と早期独立を支援しました。そして日本の独立後、日米安保条約を締結。これにより、米軍は引き続き日本に駐留し、西側陣営の前線基地となりました。

この条約は日本にとっても大きなメリットがあり、米軍の強力な軍事力の下で安全が確保され、経済活動に専念することができました。こうした状況で、日本は軍事大国から経済大国への転換を果たすこととなりました。

中国とソ連の対立

東西冷戦時代の社会主義陣営は一枚岩とは言えませんでした。

1960年以降、中国とソ連の対立が激化し1969年には中ソ国境地帯で武力衝突が発生します。中国は以前、ロシア帝国の南下政策の被害者であり、そのためソ連に対する警戒感を持ち続けていました。

中国が首都を北京に置いたのは、海からの脅威よりも北方からの脅威をより重視したとされています。中ソの対立が顕著になるとアメリカは中国との関係を修復し、米中の和解が進むと、両国は協力してソ連を取り囲む戦略を強化していくことになりました。

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歴ブロ・歴ぴよ
歴ブロ・歴ぴよ
歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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