【地政学的近代史】第二次世界大戦の勃発とシーパワー国家同士の衝突!!
前回の記事では、第一次世界大戦でドイツが敗戦するところまでを書いて行きました。
今回は、1919年~1945年までの地政学に世界情勢を書いていこうと思います。
1919年~1945年までの期間は、日本にとって大きな変化をもたらした重要な時期で、多くの国際的な出来事と地政学的な変化が起こりました。
- 第一次世界大戦の終了とヴェルサイユ条約締結
この条約によって、戦勝国とドイツとの間で取り決めが行われました。しかし、条約の内容が不平等さがドイツと敗戦国に強い経済的・政治的負担を強いることになりました。 - ロシア革命とソビエト連邦の成立
ロシア革命により、ロシア帝国が崩壊しました。これにより、ソビエト連邦が成立し、共産主義国家が世界の地政学的均衡を変える要因となりました。 - 1920年代の世界情勢の不安
大戦後の荒廃やヴェルサイユ体制の不平等により、国際的な不安定さが続きます。
多くの国で経済的・政治的な混乱が続き、さらなる紛争の可能性が高まりました。 - 1929年の世界恐慌
1929年の株式市場の暴落をきっかけに、世界恐慌が広がります。これにより多くの国が経済的に困難な状況に陥り、政治的な動揺も増加しました。 - ファシズムの台頭と第二次世界大戦
ファシズム政権がイタリアやドイツ、日本などで台頭しました。特にナチス・ドイツのヒトラーは、ヴェルサイユ体制の不平等さを批判し、国際的な緊張を高めました。
これにより第二次世界大戦が勃発し、世界中で大規模な戦争が繰り広げられました。
これらの出来事がわずか30年程で起き、国際的な秩序と均衡が再構築されるほどに影響を与える事になります。
シーパワー国家・日本とアメリカの対立
第一次世界大戦が終結するとパリで講和会議が開催され、敗戦国ドイツには植民地の放棄、軍備の制限、そして巨額の賠償金支払いが課されることになりました。19世紀のウイーン会議で敗戦国・フランスに課せられたものと比べると不平等な内容となっています。
こうして、1919年にヴェルサイユ条約が連合国とドイツの間で締結されました。
莫大な賠償金はドイツの復興を妨害し、その結果、国内での不満が高まり、後にナチ党の台頭へと繋がりました。一方で、戦勝国である日本は、太平洋地域においての旧ドイツ領南洋諸島を委任統治下に置きました。
委任統治は国際連盟から行政権を委任される事を言います。
その実態は植民地支配と同じでした。
1918年時点で世界第3位の海軍力を持つ日本は、南太平洋の広大な地域を確保し、急速にシーパワーとしての地位を築き上げました。これにより、太平洋地域におけるアメリカの拡大政策に対する懸念が高まりました。
1921年には、アメリカ主導でワシントン会議が開催され、太平洋地域の領土確保や主力艦隊の保有比率を調整するための海軍軍縮条約が締結されました。しかし、アメリカと日本はその後も緊張が続き、双方とも相手国を重要な対立相手と見なすようになりました。
世界恐慌とブロック経済
1929年にアメリカを発端とする世界恐慌が始まると、これまで欧州やアジアで燻っていた第一世界大戦の余韻が一気に爆発をします。
各国は世界恐慌に対応するために、連邦内や植民地間で経済圏を形成し、内部で関税を軽減し通商を活性化させる【ブロック経済】が広がりました。同時に、ブロック経済圏外では、高い関税と保護貿易政策を用いて国内経済を守ろうとする試みが行われました。
英・米・仏の経済圏に組み込まれなかった日・独・伊のような国々は、ブロック圏を形成できる植民地を持たず、困難な状況に直面しました。
これらの国々は、軍事侵略を通じて海外での勢力拡大を模索しました。
第二次世界大戦の勃発
ナチ党がドイツで政権を握ると、オーストリア併合やチェコスロバキアの一部を侵略しました。1939年9月にはソ連と独ソ不可侵条約を締結し、ポーランドに侵攻することで、英・仏がドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦が勃発しました。
開戦初期はドイツが有利で進展しましたが、1941年にはイギリスとの戦闘の傍ら、独ソ不可侵条約を破りソ連にも侵攻しました。これにより戦局が変化し始めます。
ソ連戦ではナポレオンがロシアを侵攻した時と同じく冬の寒さと物資不足に苦しみ、大きな戦力消耗を強いられます。この結果、ソ連戦で敗北を喫し、ドイツはその後の戦況を立て直すことができませんでした。
シーパワー国家・日本とアメリカの衝突【太平洋戦争】
日本は侵攻先として満州としました。
満州は新たな市場だけでなく、石炭や鉄鉱石の産地としても魅力的な地域です。そして、中国北部までの影響圏を広げるために侵攻を開始。これが1937年の日中戦争の始まりとなりました。
日中戦争では、中国のランドパワーとしての強さを日本は痛感します。中国は度重なる敗北にもかかわらず、奥地に撤退しつつ持ちこたえる姿勢を見せ、日本軍の戦線は長大化し、兵力や物資の確保に苦労するようになりました。
中国が戦争を維持できたのは、米・英・ソからの物資援助があったからでした。
そこで日本は、インドシナ北部への進出を開始します。この地域を基盤として援助ルートを遮断することを狙いました。同時に、戦争を継続するためには石油やゴムなどの東南アジアの資源を手に入れる必要があり、南進政策はその一環でもあります。
しかし、この南進政策はアメリカにとって太平洋地域での影響力を維持する重要な要素であり、アメリカはこれに対して反発しました。アメリカは石油の対日輸出を禁止するなどの経済制裁を強化し、中国やインドネシアからの全面撤退や満州の返還を要求します。
日米の交渉は決裂し、1941年12月に日本はアメリカとイギリスに宣戦布告し、こうして日本は太平洋戦争に進んで行く事になります。こうして、日本はランドパワー国家である中国との対決と同時に、シーパワー国家であるアメリカと戦う事になりました。
太平洋戦争は開戦からわずか半年でアメリカが主導権を握り、日本は主に守勢に徹する立場に追い込まれます。
それでも戦争は続くことになるのですが、日本にとって1944年7月のサイパン島での敗北が致命的に。
サイパンが陥落したことによって日本本土の大部分が敵の爆撃範囲に入り、制空権を失う事態となったのです。この状況の変化により日本の敗北は避けられないものとなりました。
その結果、1945年8月15日に日本はポツダム宣言を受諾して降伏したのです。