昭和

なぜ世界恐慌が起きたのか?原因・影響と各国の対応策

歴ブロ

世界恐慌とは、1929年10月24日のニューヨーク株式市場での株価大暴落をキッカケに起きた世界的な大不況の事を言います。ちなみにこの日は、木曜日だった事から【暗黒の木曜日】と呼ばれています。

この大不況に各国が対策を講じ、イギリス・フランスはブロック経済を開始し、ドイツと日本は植民地を拡大しようと軍国主義を探るようになり、これらの対応が第二次世界大戦へと繋がっていくことになります。

 

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なぜアメリカの株価が大暴落したのか??

世界恐慌のきっかけとなったアメリカは当時、第一次世界大戦の戦争特需で凄まじい経済発展を遂げ世界を驚かせました。

1920年代のアメリカは世界中から投資の対象とされ大繁栄する事になり、それに合わせてアメリカの株価も高騰し続けました。こうして、世界一の経済大国として君臨したアメリカのですが、徐々に曇りが見え始めます。

ヨーロッパでも戦後の復興が進むとヨーロッパ製品が流通し始め、アメリカ製品との競合が始まりました。すると、以前ほどアメリカ製品が売れなくなり、工業製品の在庫が増え続け、農作物も売れなくなり農家の稼ぎが大きく減りました。

 

アメリカの発展が鈍化し始めたのですが、不思議な事に株価だけは上がり続けました。

それは、アメリカの成長は永遠に続くと夢を見た投資家たちが株を買い続けていたのです。こうして世界市場は、アメリカの経済成長がストップしているにもかかわらず、株価だけが急騰し続けるバブル経済へと突入していきました。

夢と言うのはいつか覚めるもので、1000円で買った株式は実は10円の価値しかなかったと気が付き、株価が高いうちに売りぬこうと売り注文が殺到します。

その日が1929年10月24日でした。

株価が大暴落すると、夢から覚める人が増えまた株が売られ、暴落が大暴落を生む負の連鎖が続きます。こうして、ニューヨーク株式市場で大暴落が起こり世界恐慌が始まります。

 

株価の下落と不況の理由

多くの人が株を(この時はアメリカ株)持っていれば、株価が上がって儲かるはずと膨大なお金と使って株の売買をしていました。ここでポイントとなるのが、投資家の中には個人ではなく会社組織で投資をしていると言う点です。

株価上昇を見込んで手元のお金を使いこんでしまった会社は、株価の暴落で会社の資金を溶かし、経営状況が一気に悪化する事になります。その中には、大量のお金を借りて株を買った会社があり、その借金を返せなくなり経営状況が悪化。

株式に手を出した会社の多くが経営不振に陥ると、節約のために設備投資や新規事業を控えるようになり労働者はリストラされ、失業者があふれかえります。さらに、設備投資や新規事業に関わる会社の業績にも影響を与え、その会社も事業の縮小やリストラをするようになり負のスパイラルが生まれます。

そして、その会社が倒産すれば貸したお金を回収できない銀行も多大な損害を被ることになります。実際に多く銀行が経営破綻しました。

銀行が倒産すると…

  1. 会社の借り入れが難しくなり資金難になり倒産
  2. 銀行の取次騒ぎが起こり、銀行の資金が一気におろされ資金不足で倒産

などを生んで世界経済は深刻なだえーじを追う事になります。

こうして、株価大暴落の影響は株式に手を出していない私たちにまで波及していくことになるのでした。また、こうした負のスパイラスが、ヨーロッパで商品が売れなくなっていたアメリカ経済に止めを刺した形になりました。

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アメリカ不況は世界恐慌に発展

当時のアメリカは世界一の経済力を持った国でした。

ニューヨーク株式市場の大暴落はアメリカ国内以外にも世界中に波及します。

アメリカは貿易を通して多くの国と交易をおこなっており、投資などを通じて世界各国の間で巨額なお金が動いていました。それらの国々がアメリカの経済発展の元利益を得ていましたが、アメリカ不況がキッカケでその影響が世界中に広がりました。

世界的な不況に終止符を打とうと主要国の政策が以下の通りです。

 

アメリカの経済政策

深刻なダメージを受けたアメリカ経済は、多くの企業や銀行が倒産し、街には多くの失業者があふれかえりました。1929年フーヴァー大統領は、不況は一時的なもので、しばらく耐え抜けば自然に戻ると考えていました。

そのため、当初は本格的な経済対策が行われませんでした。

また、自由放任主義と言う考え方が経済分野で主流となっており、需要と供給は時間と共に戻ってくる言う考え方から、政府は経済活動に余計な手出しをしないとも考えていたようです。

しかし、時間の経過とともに経済が回復する兆しが全く見えてきませんでした。

対策に失敗したフーヴァー大統領は、国民からの信頼を失い、1932年の大統領選挙で敗北して、1933年ルーズヴェルト大統領が就任し、自由放任主義を放棄して新しい経済対策に乗り出します。

ルーズヴェルトの経済政策

物が売れないなら政府が価格庁瀬出来るようにすればよい、仕事がなくなれば政府が仕事を作ればよいと政策を打ち出しました。

そこで、農業分野では農業調整法(AAA)を制定し、失業者対策ではテネシー川流域の開発などの公共事業を増やすことで失業者を減らそうと努めました。

この一連の政策をニューディール政策と言います。

しかし、この政策も深刻な不況を改善できるほどの効果は得られませんでした。

結局、アメリカの景気は停滞したままで、回復するのは第二次世界大戦による軍事特需の恩恵を受けた1940年代まで待つこ事となります。

 

ドイツの状況と対応

ヨーロッパ諸国で最も深刻だったのがドイツでした。

その理由は、第一次世界大戦の敗戦によって巨額の賠償金を背負わされていたから。

歴ぴよ
歴ぴよ

2010年10月3日にドイツが第一次世界大戦の賠償金を完済

第一次世界大戦の敗戦で、ドイツが課せられた賠償金は1320億マルク、これは当時のドイツの国家予算の30倍で、国家予算の10%を返済に回しても300年かかる額でした。この巨額の賠償金が第2次世界大戦の遠因にもなっています。第2次世界大戦以降のドイツの復興と世界的な経済成長があり、92年かけて、やっと返済できました。

賠償額は主にフランス・イギリスに対してのもので、ドイツの国力では到底支払いう事が出来ない金額でした。第二次世界大戦で敗戦した日本の賠償金はこれに比べれば大したものではないほどです。

 

そこでドイツが賠償金を支払えるように、アメリカからこんな提案をしました。

アメリカによるのドイツ返済計画

  1. アメリカがドイツの経済復興を支援のためドイツへ投資
  2. ドイツは復興で得たお金を賠償金としてフランス・イギリスに支払い
  3. フランス・イギリスはアメリカへ借金(戦債)を返済※以下繰り返し

※フランス・イギリスは、第一次世界大戦の時にアメリカに多額の借金をした。

アメリカはイギリス・フランスからの借金を回収するために、ドイツに投資をすることになります。しかし、世界恐慌が起こると、アメリカからのドイツへの投資が止まり、自立できないドイツは経済破綻状態に陥りました。

ドイツ経済が生き詰まると、1933年頃にはヒトラー率いるナチス党が政権を握るように…

ヒトラーは、独裁者として人々から自由を奪うファシズム的な政治を行いましたが、その強力なリーダーシップでドイツ経済の立て直しに成功しました。その後、ヒトラーはイギリス・フランスに対抗するために、領土拡大を目指すようになります。

 

ヒトラーの野望・ファシズムの台頭と第二次世界大戦前夜 アドルフ・ヒトラーは、1933年にドイツの首相に任命されると、指導者原理主義に基づく一極集中独裁の政治体制を築いたナチスの指導者です...

 

イギリス経済の立て直し

アメリカとの経済関係が深かったイギリスも世界恐慌の大きなダメージを受けました。

特に大きかったのは、ドイツからの賠償金の支払いストップで、イギリスの国際収支は一気に赤字転換し金が国外へ流出します。

歴ぴよ
歴ぴよ
国際収支国に入ってきたお金国から出ていったお金

金の流出に歯止めかかからず、イギリスは金本位制の維持そのものが困難になるまで追い詰められます。

金本位制とは、【保有する金の量に相当する量にしか通貨が発効してはいけない】と言うルールがあります。これは、【保有する金の量>通貨量】になると金と交換できない通貨が存在する事になり、通貨の信頼性が失われてる事になります。

そこでイギリスは、金本位制維持の為に国内の通貨供給量を減らして緊縮財政を目指しました。公務員給与のカット、失業手当の10%削減などで通貨量減少を目指すも、それだけでは金本位制の維持が出来ずに1931年に廃止を決定しました。

 

時の労働党・マクドナルド内閣は、結局失業手当をカットに踏み切り国民からの強い批判を浴びて解散に追い込まれています。さらに、1932年に身内だけで経済を回すブロック経済を発案し、経済の立て直しを図ります。

 

フランスの経済対策

フランスはアメリカとの関係が薄かったので、イギリスやドイツよりは世界恐慌の影響は軽かったようです。

が…しかし、1932年頃に時間差で影響が出始めてイギリスと同じくブロック経済を開始。同じくして、国内の政局が不安定となり悪い相乗効果で社会情勢がカオス化しました。

1936年にようやく社会党・ブルム首相内閣が生まれて国全体がまとまり始めました。

 

ソビエト連邦の対応

ソビエト連邦

ソ連は、社会主義国家だった事から世界恐慌の影響をほとんど受けることはありませんでした。世界恐慌が起きたころ、ソ連では社会主義発展のために工業国家化を目指して、【五か年計画】がスターリン主導で進められていました。

しかし、計画実現のために農民達が虐げられるようになり、結果として多くの人が飢餓で命を落としました。

世界恐慌の影響を受けなかった、スターリンの政策は世界からの注目の的になりました。こうした事から、スターリンを崇拝する者が増え始め、独裁体制が出来上がるのでした。

 

日本と世界恐慌の影響と対策

世界恐慌で日本は、大きな影響を受けることになります。

ヨーロッパほどアメリカと関係は深い物ではなかったものの、主に貿易面でアメリカ向けの輸出品が売れなくなり商品価格が大暴落する影響を受けてしまいます。

特に主要輸出品【生糸】は大ダメージを受けます。

さらに不運だったのが、世界恐慌真っ最中の1930年1月に金本位制※を再開させたことでした。※金輸出解禁

金輸出解禁に伴うデフレ政策を行う事で、自らで不況を招いてしまう結果に…

 

世界恐慌による輸出減と金輸出解禁に要るデフレ対策のダブルパンチで日本の景気が悪くなり、昭和恐慌と呼ばれる大不況へ突入します。

そこで日本政府は、1930年12月に金本位制を再び停止。その後、アメリカのニューディール政策のように政府が積極的に経済介入する事で経済の立て直しに成功し、1933年には不況から脱出する事が出来ました。

 

その速さは、世界各国でもトップでしたが、イギリスとフランスがブロック経済によって他国との貿易を拒絶した事で日本は貿易相手を失ってしまいます。日本も、台湾や満州を中心にブロック経済を試みますが、植民地の少ない日本ではその効果は薄い物でした。

この状況を打破するために、次第に武力による領地拡大を狙う軍国主義に日本は舵を切ることになるのでした。

 

世界恐慌の結果、グローバル化しつつあった経済は分断され、ブロック経済や軍国主義のように【自国優先主義】と言った考え方が台頭する事に…

こうした考え方は、他国との摩擦を生みやがて第二次世界大戦へと発展していくことになります。

 

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歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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