日中戦争の泥沼化と大政翼賛会の誕生と崩壊
1929年の世界恐慌の影響で日本では、金融市場は混乱し農村では娘の身売りが相次ぎました。欧州の多くの国々も不況から脱却できずに失業者が街にあふれかえっていました。
そんな中でもドイツ・イタリアと言ったファシズム国家やソ連のような社会主義独裁国家はいち早く立ち直り経済復興しつつありました。さらに、1939年のドイツのポーランド侵攻による第二次世界大戦がはじまると、連戦連勝のドイツが破竹の勢いで次々と領土を拡大していきます。
このドイツの快進撃に、日本国内の政治家たちは敏感に反応し、ファシズムや共産主義が不況脱却のカギだと考え始める者たちが増えていきました。
その代表が当時の日本の首相・近衛文麿でした。
不況から脱出したナチスドイツの刺激を受けた近衛は、ファシズムこそが世界の主流と信じ、国内政治に取り入れようとしたのです。日米関係が悪化していたこの時期、国民からはアメリカを倒して国を守る事の出来る強い政治体制を求める声が上がっても居ました。
こうして、大政翼賛運動と呼ばれる新体制運動が始まり大政翼賛会がうぶ声を上げた。これにより、国民生活は大きく変貌を遂げることになります。
日中戦争の泥沼化と近衛文麿の新体制運動
1937年に日中戦争が勃発すると、日本は外国との関係が冷え切ってしまいます。
※今のロシアを見ると当たり前な気がします。
当時のドイツは親中派で中国にも軍事援助をしていました。
国際社会からの孤立を避けるために、日本は日中戦争がこれ以上拡大するのを阻止して何とか講和に持ち込もうとします。さらに、アメリカやソ連などの中枢国関係も修復していこうとしますが、軍部と内閣の意見の不一致で当時の内閣が総辞職します。
その後の内閣が日中戦争を起こし泥沼化をさせた後に辞職した、近衛文麿が再び内閣総理大臣に就任しました。この内閣を第二次近衛内閣と言われています。
そこで近衛文麿が「日中戦争をなんとか戦い抜くために国民と政府が一心となればいいんじゃないの?」と思いとんでもない政策を推し進めていくのでした。
これを新体制運動と言います。
大政翼賛会の結成と議会の掌握
近衛は「バス(時代)に乗り遅れるな」とスローガンを掲げ、人々を扇動し有力な政治家たちを取り込んでいきました。
この新体制と言うのが、当時ドイツで行われていた私有財産制の否定と国家への忠誠を無理やり誓わせる全体主義(ナチズム)の事で、昭和恐慌で苦しんでいた頃に経済成長を続けていたそれ等の共産主義も日本にも取り入れようと言う運動でした。
これが成功し、日本が戦争に勝利していた事を考えると恐ろしい事ですが、近衛文麿はこのやばい運動を推し進めていくのでした。
そして、1940年10月に近衛を総裁とした大政翼賛会が結成されました。
大政翼賛会の大政には『天皇の政治』という意味があり、それを『翼賛(賛成して助けること)する』という意味があります。
すると他の政党は、次々と自発的に解散し、共産党以外のすべての政党が大政翼賛会に組み込まれていきました。1942年になると、労働組合も解体され産業報国会に再編させられたのちに大政翼賛会の一部のなりました。
大政翼賛会の目的はナチスのような一国一党の独裁体制の確立でしたが、同時に国内の政治力を一同に集めて発言力を強める軍部に対抗できる勢力を作ることにありました。
ところが、軍部までも大政翼賛運動に関与していた事で、大政翼賛会は陸軍に乗っ取られてしまいます。そして、すべての国民や物資的資源を政府が統制運用できる国家総動員法の実践組織となってしまいます。
そして町内組織も隣組と言う末端組織となり相互監視させるなどし、全国民が大政翼賛会の監視下に置かれることになりました。
このように大政翼賛会は一般人も利用して国民の動きを掌握する事に成功するのですが、政党ではなかったので政治活動はできずに選挙の結果次第では逆転される可能性もありました。
そこで翼賛政治体制協議会を結成し、1942年の総選挙に参加します。
勝利を確実にするために、組織に忠実な議員を援助する傍らで、実戦部隊を使って対抗議員に激しい選挙妨害も実行しました。
その甲斐があって、大政翼賛会は全議席の8割にも及ぶ381人の議員を当選させました。この大勝利後、翼賛会派の議員は翼賛政治会を結成しました。
こうして議会も完全に大政翼賛会の手に落ち、これ以降は軍部の方針を忠実になぞるだけの政治体制翼賛体制が国家運営の中心となりました。
国民の思惑と近衛文麿の思惑
国民は、力を失った政党に失望しており、現状を変えてくれる強力な勢力の出現を期待していました。これは、自民党から民主党政権になる頃の雰囲気に似てるかもしれません。
こうした状況で登場したのが近衛による新体制運動。
日中戦争がはじまってからの国民の生活がどんどん苦しくなる一方で、
国民の声を政治に反映してくれるはずだった政党は力を失っていて頼りにならない。新体制運動が始まれば、今よりは政治が良くなって私たちの生活も良くなるかも?
と「最悪な現状から新体制で政治が変われば今よりましになるだろう」と言う考え方が国民の間に広まり、新体制運動は国民から支持を受けることになりました。
一方で言い出しっぺの近衛の考えでは…
- ナチ党みたいな党を日本で立ち上げて政府と国民一致団結を図る。
- 大政翼賛会は、国民の強力な支持のもとに政治の主導権を握り軍部の暴走を食い止める
- 大政翼賛会は全体主義で国力を総動員し日中戦争を終わらせる
ここで分かるのは、軍部・政党・国民それぞれが新体制運動には賛同するが、近衛文麿の考えには100%賛同していないと言う点。
- 陸軍…一党独裁体制に賛同するが、陸軍牽制には反対
- 政党…軍部からの主導権はく奪は賛成だが、全体主義実現のために政党を排除するやり方には反対
- 国民…政治改革には賛成だが、全体主義は国民の自由を制限する事にあるので民意でない
この意見の食い違いが、後の大政翼賛会の結成に大きな影響を与えることになります。
はげしい規制と弾圧
国民の監視体制を完成させた大政翼賛会は、国民に更なる規制の嵐を巻き起こしました。
石油やガス・電気の供給は規制され、綿や絹製品も貴重品として全面規制されました。また、武器を作るために必要だとして鉄製品が回収され、家庭用品はもちろん、理美容のハサミやカミソリまでもが使用規制されることになります。
さらには、靴以外のありとあらゆる革製品も規制の対象となり、食料も肉類が規制対象となり動物園のライオンが日の丸弁当を食べる光景があったそうです。
規制の目は、物資だけではなく思想までもその対象となった。自由主義や共産主義などは全体主義の政治には不都合な思想であるために、問答無用で弾圧されるようになり、報道にも軍の検閲が入りジャーナリズムの衰退が大きくなった。
しかし、これ以上にひどい規制と言われるのが国民優生法です。
先天的に病気を持つ幼児や精神障害者を審査し男女問わず断種すると言う法律でした。基本的に親族や審査会委員長の親政が無ければ実行できないことになっていましたが、実質的には政府は国民の生殺与奪権も握っていた事になるのです。
大政翼賛会の中でも対立が激化
そんな大政翼賛会では、左翼・右翼・社会主義勢力までも取り組んだ内部であった事で、組織内の対立が恒常的に起きていました。
戦況が良かった頃はかろうじて運営できていたものの、戦局が悪化すると無所属議員が反旗を翻し大政翼賛会に真っ向から反発するようになります。
そして、1944年に対立が表立って現れ、小磯國昭が総理に就任すると、組織の意向を無視しる形で大きくなりすぎた大政翼賛会と関連組織の統廃合を進めようとします。
当然、組織の主要幹部は猛反発。
結果として大混乱を招き、幹部や壮年議員団は次々と離脱していきました。
その後、壮年議員たちは1945年3月10日に翼壮議員同志会を結成。旧翼賛会幹部は護国同志会を結成し、推移を見守っていたほかの議員たちも大政翼賛会を見限った事で事態の収拾は不可能な状態となりました。
大政翼賛会は分裂し、日本の政治は混乱を極めたまま終戦まで突き進むことになります。
こうして、強い政治体制実現のために大政翼賛会が結成されましたが、軍部に掌握され国民の監視機関となりました。そして、すべての政党を統合し、巨大化した組織は内部の対立を常に抱え、自滅と言う形で幕を閉じるのでした。