【欧州連合】EU設立までの歴史と現在置かれている問題点
EU(欧州連合)とは【ヨーロッパを一つにする】をコンセプトに発足しました。
同じような枠組みでASEAN(東南アジア諸国連合)がありますが、市場や通貨の統合、政治の統合まで推し進めている点ではEUの方が先を行っています。
EUは通貨がユーロに統合され、EU圏内の人や物、資本、サービスの移動が自由です。また、欧州議会や欧州理事会、欧州委員会が設けられ、UE全体の政策に対する意思決定と執行を行ってます。
つまりEUとは国の壁を越えてヨーロッパという大きな連邦国家を作ろうと目指したもののこと。
そこで今回は、EU【欧州連合】について書いてみたいと思います。
EU(欧州連合)発足までの歴史
19世紀後半以降、ドイツとフランスは対立してきました。
1870年、普仏戦争で勝利したプロイセンがドイツ帝国を設立させました。この時、ドイツで絶対的な権力を持っていたビスマルクは、オーストリアやロシアとの三帝同盟やオーストリア、イタリアとの三国同盟を結び、フランスの孤立化を図っていました。
フランスは三帝同盟から脱退したロシアとイギリスと三国協商を結び対抗しました。
第一次世界大戦はこの三国同盟と三国協商の対立が原因とされています。
結果、三国協商側【連合国】が勝利。ドイツが多額の賠償金が課されました。その賠償金が足かせになり、第二次世界大戦でまた戦火を交えることになります。
第二次世界大戦ではフランスの首都パリを一時陥落させるまでの戦火を上げますが、最終的には日本・イタリアと共に敗北してしまいます。
この二つの戦争の結果、残ったのは荒廃したヨーロッパの大地と世界的な地位の低下でした。「フランスとドイツがいがみ合うことはヨーロッパ全体に利益をもたらさない」と痛感した両国は協力してECやEUの設立が実現することになるのです。
ドイツとフランスが主導でECが設立
ヨーロッパでEUのような枠組みの構想が実現したのが、1952年に発足したECSC(欧州石炭鉄鋼共同体)でした。これは、石炭と鉄鋼を国家の枠組みを超えて管理しようという枠組みでした。
ECSCには、フランス、西ドイツ、ベルギー、イタリア、オランダ、ルクセンブルクの6か国から始まります。
ECSC設立には東西冷戦が影響しており、アメリカが西ドイツを社会主義の防波堤と位置づけ、積極的に支援していました。しかし、西欧諸国にとっては西ドイツが力をつけすぎるのはパワーバランスが崩れることを危惧しなければなりませんでした。
そこでフランスは、西ドイツが豊富な炭鉱や鉄鋼業が発展していることを踏まえて、ECSCの設立を提言し実現させたのです。
1958年にはECSC加盟国6か国によって、ECにつながる枠組み、EEC(ヨーロッパ経済共同体)が設立されます。また、EURATOM(欧州原子力共同体)も同時に発足しました。
そして、1967年に3つの枠組みを統合しEC(ヨーロッパ共同体)が誕生しました。
発足当時は6か国だったECは、1973年にイギリス、デンマーク、アイルランドが加盟し、さらにギリシャ、ポルトガル、スペインの12か国でEUの発足を迎えることになります。
冷戦の終結でEU(欧州連合)が発足される
1989年に東欧の社会主義国が相次いで民主化し、11月にはベルリンの壁が崩壊し、翌年に東西ドイツが統合しました。
この統合は、かつての強大なドイツが復活し、ヨーロッパのパワーバランスが崩れる危機感を抱かせました。
フランスはECを政治統合し、その中にドイツを取り込むことによってヨーロッパのバランスを図ろうと考え動き出します。
フランス大統領が「EC圏内の市場統合と政治統合を急ぐべきだ」と発言。
この発言にドイツが賛同する事によって、一気にEUの構想が進みました。
しかし、国単位では賛同していてもデンマークとフランスの国民投票で一度否決されています。二度目の国民投票では賛成をつかむことができたのですが僅差でした。
こうしてEU設立当初から政治エリートたちと一般人との意識のずれがあったうえでのスタートとなりました。
EU設立の意義
連邦国家が出来上がれば、過去にあった二つの世界大戦で繰り広げられたようなヨーロッパ同士の戦争が無くなります。また、小国が多いヨーロッパでは、アメリカなどの大国との貿易交渉が不利になりやすく、EUとしてまとまっていれば、互角な交渉がしやすくなります。
1993年に発足したEUは、その後28か国まで拡大しました。
しかし、こうした枠組みも時代の流れと共に暗い影が立ち込めています。
イギリスがEU離脱を表明し離脱し他の国々も反EUを掲げる政党が議席を伸ばし始めています。このようになぜEUは行き詰ってしまったのでしょうか??
移民・難民問題に苦悩するEU諸国
現在EU、離脱派が増えている要因として移民・難民問題が挙げられます。
EUの多くの国で加盟国内の自由移動を認めた【シェンゲン協定】を結んでいます。
そのため、東欧の貧しい地域から仕事を求めて西側諸国に移住してくるケースが多くみられます。こうした移民たちは低賃金でも働いてくれるために「昔から住んでいる人たちの仕事を奪っている」という反発が広がっています。
2015年にはシリア内戦の激化で中東からの難民が激増しました。
この年のEU圏内の難民申請者は130万人と前年の二倍になっています。この難民の受け入れをめぐり、難民受け入れ積極派のドイツと消極派のハンガリーなどの国が現れ、これらの国の溝が深まりました。
さらに追い打ちをかけるように、同時期にパリを始めヨーロッパ各地でテロが頻発したため事態を深刻化させました。テロの実行犯の多くがアフリカなどからの移民2世や3世だったことからEUの移民政策が上手くいっていない事が浮き彫りになりました。
また、実行犯の中にシリアからの難民に紛れ侵入したことでシェンゲン協定がテロリスト達に悪用される事態となりました。
ユーロ危機によるヨーロッパ経済の危機
2009年にギリシャが財政赤字を大幅に出していたことで債務不履行に陥る恐れがあるという不安から、ギリシャ国債が暴落しました。その影響で、ユーロも急落しました。
さらに翌年には、イタリア・アイルランド・スペインに経済危機が飛び火しました。
この経済危機を鎮めるために、EUはギリシャに多額の緊急支援を実施します。しかし、一方でギリシャに緊縮政策を課したことで公共サービスが大幅に縮小され、国民が苦しい生活を強いられる結果となりました。
このユーロ危機以降、顕著になったのはドイツの優位性でした。
日本同様に輸出で経済を成り立たせていたドイツは、ユーロ安になれば輸出を行う上で非常に有利になります。逆にギリシャなどの南欧の貧しい国は輸入品が高騰しさらに経済がひっ迫する事態となりました。
本来通貨統合した時からEUは財政面も統合するべきでした。現在、金融政策については欧州中央銀行に一本化されており、金利為替も同一です。
ところが、財政については各国に予算策定や執行がゆだねられています。経済的に強い国と弱い国での深刻な格差が生まれたのです。
これがキッカケで財政統合を行う構想も出てきましたが、現在のところ実現の予定は立っていません。
欧州憲法作成も各国で否決される
現在、EUでは移民問題が深刻化して反EU派が増えてきていますが、これ以前も【一つのヨーロッパを作る】のが難しい事を突き詰められる出来事がありました。
2004年EU加盟国は欧州憲法条約を締結しました。
「EUの政治主体は、EU市民と加盟国であること」が謳われてるなど、立派な憲法の体裁をとったものでした。
ところが、翌年にフランスが欧州憲法の確認の可否を採決したところ大差で否決され、オランダの国民投票でも20%以上の差で否決されて、EUは欧州憲法の確認をあきらめました。
憲法制定によってヨーロッパ連邦国ができることに各国の人々が拒否反応を示したのです。
ヨーロッパに住む多くの人々は、既存の国家の枠組みを取り壊して一つのヨーロッパを作ってしまう急進的な動きまでは望んでいなかったようです。