近代史

分かりやすい社会主義の実践国家・ソビエト政権の誕生【ロシア史】

歴ブロ
ソビエト連邦

第一次世界大戦中に起こった1917年の二月革命ロマノフ王朝が消滅。臨時政府が権力を握った後にソヴィエト政権の二重権力が出来上がると、十月革命を経て社会民主主義政党の分派ボリシェヴィキが独裁体制を築き上げようと動きます。

今回は、この十月革命とそれ以降ボリシェヴィキが独裁体制を目指した時に国内外で起きた変化を簡単に解説していきます。

れきぶろ
れきぶろ

ボリシェヴィキとは・・・
ロシアで生まれた政党で『多数派』を意味し、格差や貧困などを解消するために唱えられた社会主義思想や運動を指す『社会民主主義』を実現しようとする政党が分裂してできました。

少数精鋭主義で暴力なしでの革命は不可能と主張しています。

 

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共産党の誕生と赤軍の誕生

臨時政府を倒したボリシェヴィキは、主導権を握った際に『平和に関する布告』『土地に関する布告』というソヴィエト政権の基本的考え方を採択していました。

その具体的内容として

  • 第一次世界大戦で関係国と平等な立場で交渉する民主的講和と即時停戦
  • 地主の土地を没収すること
  • 民主化によって上官の命令が絶対の軍隊でも、兵士の意見が聞き入れられる組織を構築させること
  • 憲法制定会議を開くこと
  • パンを確保すること
  • 民族が自らの国家の将来を決める権利を認めること

こういった目標を示しています。

『憲法制定会議を開くこと』を実現するために、全ロシアで史上初の憲法制定会議の議員を選ぶ選挙が行われました。

ところが、結果は惨敗。

※選挙関係なしにロシア全土で支持者が多いのは圧倒的にボリシェヴィキでした。ただ選挙に弱かった...

ボリシェヴィキはこの選挙結果で「どの地域が反ボリシェヴィキか?」を把握し、以後締め付けを強くしていくこととなりました。

社会主義ソビエト共和国の誕生

この結果を受けて1918年の1月5日に憲法制定会議を開くと、議長に社会革命党の人物が選出されました。これを認めるわけに行かないボリシェヴィキは武力を背景に審議不参加、会議の解散を主張し退場すると、その5日後には『社会主義ソヴィエト共和国』であることを宣言しています。

国家の方針として社会主義を掲げて独裁体制を築き上げると、1918年春の党大会で『ロシア社会民主労働党』を『ロシア共産党』へ名前を変更。以後、社会主義ソヴィエト共和国は共産党と呼ばれる政党に支配されていくこととなりました。

赤軍の誕生

ボリシェヴィキが政府内で独裁権力を築き上げていく中、対外的にはまだ続いている第一次世界大戦のうち東部戦線でロシアと戦っていたドイツとの和平交渉が始まります。

この時内部では交渉反対の声が、外国からは革命に対しての反発の声が出始めていました。

そんな状況下で1918年1月、十月革命の過程で作り出された労働者による武装組織『赤衛隊』の後継として赤軍が組織されるようになります。

赤軍は

  • ソヴィエトの権力を守ること
  • ヨーロッパへの革命支援

こうした目標をもって組織されています(なお、当時のロシア軍は革命以降ほぼ機能していませんでした)

ところが、2月に入っても交渉はまとまりません。タンネンブルクの戦いでの敗北の後、厭戦気分が蔓延していたロシア。和平交渉の最中にドイツ軍が侵入するまでに至ったため

  • フィンランドの独立承認
  • 高額な賠償金の支払い

などの内容が盛り込まれたブレスト=リトフスク条約を締結させています。なぜドイツ軍が和平交渉中に進軍してきたのか?の疑問は『ソヴィエトの内戦と諸外国からの干渉』で後述します。

ソヴィエトの内戦と諸外国からの干渉

ロシアと独墺間で講和条約を結ぶ以前から、国内では社会主義を良しとしない地主や貴族といった反ボリシェヴィキ、反ソヴィエト政権の勢力が結成されていました。

こうした反革命軍【白軍の蜂起によりロシアは1917年から21年あたりまで内戦が続くことになります(場所によってはもう少し続くところもあり)。いわゆるポーランド・ソ連戦争バスマチ蜂起(中央アジアでの反ソビエト運動)などといった戦いです。

また、ソヴィエト支配下のロシアは同じくソヴィエトの傀儡政権だったウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国と共に、対ウクライナ人民共和国ソヴィエト・ウクライナ戦争で戦いました。

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この頃のウクライナ情勢

1917年の二月革命の後、キーウ(キエフ)では民族運動が再興しはじめていました。

そのような情勢下で設立されたウクライナ中央ラーダ(『ラーダ』=評議会、ロシア語の『ソヴィエト』と同じ意味)は各勢力間の関係を関係を調整する政治的中枢機関としての役割を担うようになります。

この辺の時期にロシアを掌握していた臨時政府と中央ラーダは政策を巡って対立。一時的に中央ラーダはボリシェヴィキ側にいることもあったのですが...

十月革命が起こると中央ラーダはボリシェヴィキと対立関係に陥ります。暴力による権力奪取に反対したためです。こうして両者は激突するようになりました。

もちろんウクライナ内部には中央ラーダの勢力だけでなく、中央ラーダに反発するロシア人やユダヤ人を中心としたソヴィエト側の勢力も結成されています。

そんな中での以前話した選挙開催です。キーウでは社会革命党が52%、ボリシェヴィキ系のウクライナ共産党は僅か10%に留まっており、ウクライナは完全に二分されることとなりました。

結局、中央ラーダを中心とした勢力はウクライナ人民共和国として独立を宣言したことでボリシェヴィキが反発。戦争にまで発展することとなったのです。

 

ロシアー独墺間のブレスト=リトフスク条約が結ばれた背景

中央同盟軍とウクライナ間で結んだ条約もブレスト=リトフスク条約と呼ばれており、この条約で反ボリシェヴィキ共同戦線を張ることに合意。ドイツ軍やオーストリア軍がキーウに入っています。

結果、「無賠償・無併合」の講和を目指していたロシアの思惑は敵わず、条件付きのブレスト=リトフスク条約が結ばれたようです。

諸外国からの干渉

上記のようなロシア国内で起こった内戦には、国内の勢力同士だけではなく第一次世界大戦での協商(連合)や彼らと戦っていたはずのドイツ軍も赤軍の対立相手であった白軍側で参戦しました。

赤軍を組織させた目的の一つが「ヨーロッパへの革命支援」ですので、白軍側として立つのは当然だったのでしょう。加えて、ドイツの場合は講和条約で有利に進めたい思惑が働きました。

こうして内戦と同時に外国勢力と戦うこととなります。いわゆる【対ソ干渉戦争(1918~1920年)が起こったのでした。

内戦の結果は・・・?

多方面で起こっていた戦いでしたが、ポーランド=ソビエト戦争が1921年3月に署名された平和条約によりポーランド勝利で終結すると、赤軍はまだ戦いの舞台となっていたクリミア半島へ全勢力を投入。

最終的には白軍を圧倒するようになった赤軍の勝利で内戦は幕を閉じています。

ソヴィエト政府が戦い以上に直面した困難とは??

外国軍や反政府勢力との戦闘を行ってきたソヴィエト政府でしたが、戦闘以上に問題となっていたのが社会や経済が機能していないことでした。

当然ですが、工場経営をしているようなブルジョア(産業資本家)はソヴィエト政府に協力しません。

また、土地を手にした農民(十月革命の後に出された「土地に関する布告」で地主の土地を没収して後に農民に分配されています)も食料を都市に流通させようとせず、ボリシェヴィキによる国家運営は困難を極めています。

結果、1918年の春~夏にかけて食料の確保が難しくなったため、政府は農民たちが食べる分を除いた穀物を没収、配給制へと移行させました。工業製品も国による管理を開始。1920年には食料を没収された農民や結局内戦後も不自由なままの兵士たちにより暴動が起こっています。

新経済政策(NEP)の導入と社会主義国家としての大きな矛盾

こうした暴動などを受けて、ソヴィエト政府は食料税を導入。税を納めた後ならば「農民の手元に残った分の穀物は自由にしてもいいよ」という取り決めをしました。この政策を【新経済政策(NEP)】と呼んでいます。

工業分野でも一部の小企業の国有化が解除され私企業として営業、中・大企業も独立採算制が認められるようになります。

この方法は経済回復のためには大いに役立ちました。農村ではクラーク(=富農)が出現し穀物価格が上昇。都市部でも市場経済を容認したことで生まれた私的商人・私的実業家が出現しました。

ところが、ソヴィエト政府の基本方針・思想は社会主義です。明らかに両者の出現は大きな矛盾を抱えることになります。

共産党員は疑問に持つようになり、その疑問を解消するため新たに組織の再編成をすることになったのでした。

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歴ブロ・歴ぴよ
歴ブロ・歴ぴよ
歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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