日清戦争後の日本の政府と政党
日清戦争は、政府と政党の関係を大きく変えることになりました。大日本帝国憲法下の最高立法機関・帝国議会も日清戦争の前後で初期議会とそうじゃないものに分けられるほど戦前戦後で雰囲気が大きく変わっています。
初期議会の頃は意見の相違で議会はなかなか進みませんでしたが、日清戦争が始まると挙国一致で戦争遂行にあたり、戦後も政府(第二次伊藤内閣)と衆議院第一党である自由党は戦後経営を巡って共同歩調を取ることが出来たようです。
今回は、そんな日清戦争の戦後日本国内の様子に迫っていきましょう。
日清戦争前の政府と政党の関係は?
復習も兼ねて日本で政治を行う際に必要な議論を行う場(帝国議会)や日本最初の近代政党誕生について書きたいところですが、過去記事にも詳しくあるので簡単に紹介します。ただし、全文が長くなりそうなので隠しておきます。必要に応じて見てみてください。
- 帝国議会ってなに?日本の近代政党の始まりって?
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帝国議会とは大日本帝国憲法下における最高立法機関のことで、内閣が立てた法律案や予算案を審議する場として最低でも年に一度は議論がなされていました。
貴族院と衆議院の二院制で成り立っており、そのうち衆議院は選挙で選ばれた議員により構成されています。
初期の頃は明治維新で活躍した元勲※や薩長などの維新の主導的立場にあった藩出身の藩閥政治家による人事がなされており、内閣にも元勲や藩閥政治家たちが多数含まれていました。
※元勲とは歴史上の王政復古に対し、大きな功績を残したものを指す言葉です。
選挙で選ばれた議員にはどんな人がいたのか
政党とは、共通の政治的な目標や主張、理念を持っている人たちの集団のこと。選挙には政党に所属する人たちが多数参加しています。
政党には主に吏党と呼ばれる政府寄りの姿勢を示す政党と、民党と呼ばれる藩閥政治に反対する政党がありました。
民党の代表的な政党、自由党と改進党
民党の成立には、藩閥政治全盛期の中で藩閥政治への批判をはじめとした民意を政治に反映させるための運動・自由民権運動を行った人たちが大きく関係しています。国会開設の要求も自由民権運動がキッカケで達成しました。
その自由民権運動の中心となったのが板垣退助らです。
板垣退助は1881年に国会開設の詔が出ると、帝国議会への進出を目標に政党・自由党を創設。
のちに運動が過激化し統制が効かなくなったために解散させますが、帝国議会創設直前の1890年には旧自由党勢力の再結集運動の末に再び「自由党」を結成させています。
また、板垣退助とは別に自由民権派の政党として大隈重信も立憲改進党を設立しました。
こうした自由党や立憲改進党などの政党に所属する人たちが衆議院議員を決める選挙に臨み、自由民権派の流れをくむ民党が多数を維持させています。
第二次伊藤内閣(1892年8月-96年9月)
日清戦争(1894-95年)前から組閣していた伊藤内閣。元勲内閣と呼ばれるほど明治維新の時の功労者で構成されていました。
民党とは国会設立までの経緯もあって最初は対立しますが、戦前の時点であまりにも予算案が通過しないことから伊藤は自由党と近づいて内閣と政党が近づくきっかけを作っています。
事実上、連立内閣が発足する
日清戦争後に締結した下関条約(1895年4月17日)で
- 朝鮮の独立承認
- 台湾・澎湖諸島・山東半島の一部の割譲
- 賠償金支払い
- 日清通商航海条約の締結
- 清の一部市港の開港
- 租界での治外法権承認
などが決められました。
これに対し、すぐにロシア・ドイツ・フランスが三国干渉で遼東半島を清国に返還させることを要求し日本は受け入れざるを得なかったことで、日本国内では批判の対象に。政治にも大きな影響を与えるかと思われました。
この後、三国干渉の見返りとして露清密約を締結させ清はロシアに満州北部の鉄道敷設権を与えています。敷設権を得たロシアは東清鉄道を敷設。日本はロシアに対して警戒心を高めることに。
しかも、三国干渉に加えてロシアが乙未事変(いつびじへん/閔妃暗殺事件)と露館播遷(ろかんはんせん)で朝鮮での影響力を高めています。日本は相対的に朝鮮半島での影響力を低下させて戦時中の協力体制が崩れかけたのです。
その関係をうまくまとめたのが陸奥宗光(外相)や伊藤巳代治(内閣書記官長)。彼らを通して自由党との関係改善や提携にこぎつけることが出来ています。
戦後に開かれた第9回の帝国議会でも自由党の協力によって内容をあまり変えずに議会を通すことに成功。また、連携を強めるために翌1896年4月には自由党党首板垣退助を内務大臣に入閣させて事実上の連立内閣を成立させました。
ところが、自由党の方がどんどんと与党化して存在感を増すようになっただけでなく、5月には外相の陸奥宗光が(肺結核を患っていたため療養生活に突入)、8月には大蔵大臣が辞任し、政権維持が難しくなり始めました。
そのうえ、内務大臣・板垣退助が内務官僚にとって不満の種だったようで反発を呼び、山県有朋を中心とした派閥が形成されていくことになります。
第二次伊藤内閣、政権維持が困難に
一方で自由党以外の民党にも動きが出始めています。
自由党が政府と連携し始めたことで立憲改進党をはじめとする複数の政党が反発。議席の少ない政党同士で協調体制を取り始め、新たに進歩党(党首・大隈重信)を結成させていたのです。
上の円グラフは第4回衆議院議員総選挙(投票日1894年9月)の議席内訳です。
元から民党だった立憲改進党(議席数49)、かつての吏党系議員の中から民党寄りの姿勢を持つようになった政党(同盟俱楽部)と同志倶楽部に加えて一部無所属議員で新たに設立された立憲革新党(議席数39)、帝国財政革新会(議席数5)、中国進歩党(議席数4)などが合同して代議士99名で結成されたのが進歩党でした。
さらに、進歩党以外の軍事力も視野に入れた「強硬的な外交を行う方がいい」とする派閥が倒閣の動きを見せたことで伊藤は進歩党にも接近し始めたわけですが...
外交強硬派にとって三国干渉による譲歩は非難の的でした
自由党と進歩党の仲も悪く、自由党が進歩党との連携が上手くいくことはありませんでした。結局、政権運営は困難と判断し伊藤は内閣を解散させることとなります。
松隈内閣(1896年9月-98年1月)
松隈(しょうわい)内閣は第二次伊藤内閣の後を受けて成立した第二次松方内閣のことです。
『隈』の文字が入っていることからも想像できるように、大隈重信率いる進歩党と政権が提携。大隈重信が外相となっています。が、大隈重信にとって外務大臣の地位は不満だったようで内閣と対立し、結局、予算案などが議会を通らずに解散に追い込まれます。
ロシアがシベリア鉄道建設の本格化(東清鉄道との連結でアジアまでの区間短縮)や旅順を軍港としたたため日本は海軍を拡張しようとしていましたが、この時は失敗しています。
こうした藩閥中心だった内閣に政党が連立するような形がたびたび出て政局を左右するようになると、政党が徐々に勢力を伸ばしていきました。
憲政党の結成
1898(明治31)年に発足したのは、またしても伊藤内閣でした。3度目なので第3次伊藤内閣と呼ばれています。
伊藤は戦後経営のための財源を得ようと予算を組みますが、自由党も進歩党もこれに反対。予算案は否決され、衆議院は解散することになりました。
解散後にすることと言えば選挙ですが、松隈内閣の解散後の選挙からわずか5か月弱で第6回衆議院議員総選挙が行われています。
その選挙より僅か2か月前に自由党と進歩党が合同し、憲政党が結成されました。
ちなみに前回の選挙では
- 立憲自由党(議席数105)
- 進歩党(議席数104)
- その他(無所属含む議席数91)
第一党が立憲自由党、第二党が進歩党でした。
前選挙の第一党と第二党が合わさったということで、第6回衆議院議員総選挙では憲政党が絶対多数の政党となり、伊藤内閣は退陣に追い込まれています。
隈板内閣(1898年6月-11月)の誕生
前内閣が倒れた後、伊藤含む元老たちから推薦を受けた大隈重信と板垣退助が組閣を命じられたのが第一次大隈内閣です。
小見出しにある隈板(わいはん)内閣の名前から何となく想像はつきますね。
隈板内閣では大隈重信が首相、板垣退助が内相、陸相と海相以外はすべて憲政党議員から選出された日本史上初めての政党内閣となっています。
ところが、憲政党内で旧進歩党と旧自由党の対立は激しく、党内から進歩党議員の演説が批判されて辞職に追い込まれたり、旧自由党議員の一人の暗躍により憲政党が解党したりと内閣は4か月で退陣しました。
第二次松方内閣以降、海軍増強のために地租増徴を目指しましたが伊藤内閣でも予算は通らず、民党の流れをくむ隈板内閣になったことで海軍増強の目途が全く立たなくなりました。
そんな中で渋沢栄一ら商工業者たちが「営業税などの税率に比較して地租の税率が低すぎる」と意見を唱えるようになっています。ちなみに選挙権を持つのは「直接国税15円以上を治める者」。ということで「地租が低い!」の意見を無視できなかったんじゃないかと思います。
憲政党が解党した後、旧自由党は新たな憲政党を、旧進歩党は憲政本党を作っています。
第二次山県内閣(1898年11月-1900年10月)
憲政党(旧自由党)の支持を受けて隈板内閣に続いて組閣したのは第二次山県内閣です。
山県内閣では今後の日本に大きな影響を与えることになる
- 地租増徴案
これまで希望していた予算が無事通過 - 文官任用令
「政党が力持ちすぎ」と考えた山県が文官任用令を出して政党員が官吏になることを制限 - 軍部大臣現役武官制の確立
軍部大臣は現役の大将や中将に限ることとした。政党員がなる余地なくなる。 - 治安警察法
社会・労働運動を規制 - 選挙権拡大と被選挙権の拡大
選挙権が「直接国税15円以上」から「10円以上」になり、被選挙権は「直接国税15円以上満30歳以上の男子」から納税額による制限が撤廃 - 投票方法が無記名秘密投票制に
以上のような政策が取られるようになりました。
そんな感じで内閣は政党を押さえつけるような方策を取ろうとはしていますが、かつて黒田清隆らが言っていたような
浅い知識しか持たず、言いたい放題で暴動まで起こすような民衆たちの意見などに制約されないよう独自の路線を貫こう。政党なんて気にすんな。
超然主義を押し通すことは不可能なことが明らかになっています。
立憲政友会の結成(1900年)
憲政党は文官任用令を改正する際に山県内閣と対立。
一方でこの頃の伊藤博文は政党の必要性を痛感していたため、自分でも政党を作り出そうと動き始めていました。
そこで憲政党を解党し、超大物の伊藤を総裁に擁立する形で新たな政党・立憲政友会が結成することになります。立憲政友会の初代総裁が伊藤博文、幹部には西園寺公望・星亨・尾崎行雄・原敬など有名どころばかりです。
さらに長らく内閣にいただけあって伊藤は顔も広く、実業家や地方議員などにも入党を呼び掛け1902年の総選挙では190名もの代議士を衆議院に送り込むことに成功させていますが、第二次伊藤内閣の時に集まりはじめていた山県を支持する官僚たちは、立憲政友会に参加せず貴族院が伊藤内閣の反対拠点となっていたようです。
伊藤・山県が第一線を退くように
1900年に立憲政友会を基礎に成立した第4次伊藤内閣は半年で終わったのを機に、これまで大きな力を持った伊藤博文と山県有朋は後ろに引っ込むようになりました。
とはいえ、内閣の背後で元老として影響力を持ち続けたようですが。
1901年成立の第一次桂内閣(桂太郎)、1906年成立の第一次西園寺内閣はそれぞれ
- 桂太郎・・・山県有朋を中心とする藩閥・官僚
- 西園寺公望・・・伊藤博文と立憲政友会
の影響を受けながら後退して内閣を組織する桂園時代が始まっていくこととなります。
そんな形で帝国議会設立(1890年~)から10年ほどで立憲政治は定着し、政党政治発展の基礎がつくられるようになりました。
立憲政治が最初に定着したヨーロッパでは流血沙汰がたびたび起こったようですが、それと比較すれば、藩閥勢力と(もとは敵対していた自由民権派の流れをくむ)政党も協力体制を築きながら平和的に定着しています。