【青天を衝け】渋沢栄一はどんな人で何がすごいのか?
新一万円札の肖像画に渋沢栄一が選ばれましたが、福沢諭吉や聖徳太子のように「アー!あの人ね」とならなかったのは、私だけではないはずです。
ただ言えることは、何をしたかは分からないけど偉人なんだなということだけです。
そこで今日は、渋沢栄一についてまとめてみましたので、いったい何をした人なのかを押さえて見てはいかがでしょうか?
渋沢栄一の誕生
以外にも、明治ではなく江戸末期の天保11年(1840)2月13日に深谷ネギで有名な現在の埼玉県深谷市(当時は武蔵国)に藍の製造販売と農家を手掛ける家に生まれました。
普通の農家とは違って原料の買い付けや販売を担っていたので、常に算盤をはじく商才が必要な仕事でした。幼少の時から、父に本を与えられ栄一は勉学に励みました。主に『論語』を読みふけっていたそうです。
そんな栄一が13歳の時、単身で藍の仕入れを任されるようになり、商売人の血なのか父譲りの商才を発揮し周囲を驚かせることになります。この藍の仕入れの経験から以後の現実的な合理主義思想に繋がったと言われています。
尊王攘夷に目覚めるが挫折
時は幕末、尊王攘夷の思想が高まる中、栄一は北辰一刀流の道場に通う中で勤皇志士と交流をするようになります。
その影響から、尊王攘夷の思想に目覚め長州と連携して倒幕の計画を立てますが、尾高長七郎の説得により自分がやろうとすることは自殺行為で一人の力ではどうにもならないと言う事が分かりました。
その点では、意地になって他人の説得には応じず、尊王攘夷の思想の狂気に駆り立て殉死する志士たちと違い、栄一は現実的思考を持っていたのです。幼少期に商いで培った合理的な思想によって、現実に対するバランス感覚が抜群だったという事でしょう。
パリ万博へ随行
その後、渋沢栄一に大きな転機が訪れます。
当初より交流があった一橋慶喜が将軍となった事により、栄一が幕臣となりパリ万博の随員としてフランスへ渡ることになりました。
このフランス行きは渋沢栄一にとっては大変リスクが大きいもので、渡航中に幕府が倒れてしまったら幕臣である栄一の居場所がなくなり、倒幕に貢献した者が支配する世の中になっている恐れがありました。
それでも栄一はリスクを冒してでもフランスへ渡ることを選択します。
徳川昭武の御勘定格陸軍付調役の肩書を得てパリ万博を視察し、ヨーロッパ各国を訪問し先進的な産業や軍備を目の当たりにします。この時に、通訳としてシーボルトの長男・アレクサンダーが同行し、その後も交友が続き日本赤十字社設立に携わるなどしています。
このフランス渡航で渋沢栄一は、日本にはない欧米流の資本主義や経済学、金融の発展に圧倒されることになります。新しい日本のためにも、栄一が欧米式の経済を持ち帰り国内を体制ごと変える必要があると考えました。
帰国後は大蔵官僚へ…
帰国した栄一を待ち受けていたのは崩壊した江戸幕府でした。
将軍慶喜と幕臣らは静岡の地で謹慎。この時、栄一も同行し【静岡商法会所】の大改革をして静岡の商業を立て直します。この手腕に目を付けたのが、人材不足の明治政府でした。
当の栄一は、新政府に力を貸す気がサラサラありませんでしたが、大隈重信に説得され大蔵省に入省することになりました。こうして栄一は大蔵官僚として、民部省改正掛を率いて改革案の企画立案や度量衡の制定や国立銀行条例制定に携わりました。
1872年には、現在の財務省印刷局の前身である紙幣寮の長に就任しますが、予算編成をめぐり大久保利通や大隈重信と対立し、1873年に退官しました。
退官後は、官僚時代に設立させた第一国立銀行(現みずほ銀行)の頭取に就任し、経済界に身を置くことになりました。銀行設立の経験を買われ七十七国立銀行などの設立にも携わりました。
資本主義の父への道のり
次に取り組んだのが製紙業で【抄紙製紙(現・王子製紙)】の創設に関わりますが、なかなか軌道に乗らず苦労続きでした。しかし、西南戦争による新聞ブームによりパルプの躍進に一役買ったことで、ようやく軌道に乗るようになっています。
また、【大阪紡績(現・東洋紡)】にも携わりますが、洋服の服飾文化の変貌だけでは赤字が埋められませんでした。ところが、この時も軍服需要の増加が紡績の躍進に繋がっていきます。
その他にも、栄一が関与した企業は、500以上で…
- 東京ガス
- 東京海上火災保険(現・東京海上日動火災保険)
- 田園都市(現・東急)
- 秩父セメント(現・太平洋セメント)
- 帝国ホテル
- 秩父鉄道
- 京阪電気鉄道
- 東京証券取引所
- 麒麟麦酒(現・キリンホールディングス)
- サッポロビール(現・サッポロホールディングス)
- 大日本製糖
- 明治製糖
- 澁澤倉庫
上記には上げ切れな程会社設立に携わり、昭和初期頃には渋沢栄一を慕う経営者たちが集まる龍門社が立ち上げられ、その会員数は数千人にもなりました。
明治23年には、政界へ進出し貴族院議員として活動し、明治25年には民間人としては初の勲四等瑞宝章を叙勲しました。晩年は、経済活動のほかに、教育や医療・福祉の充実、国際交流の発展に尽力しました。
関東大震災の時には、83歳の高齢にもかかわらず、被災者支援に奔走したそうです。
教育界の業績
栄一は教育にも力を入れており、商法講習所【一橋大学】、大倉商業学校【東京経済大学】の設立に尽力した他、二松學舍大学の学長にも就任しています。また、女子の教育の必要性を考えて、伊藤博文らと共に日本女子大学校・東京女学館の設立に携わりました。
渋沢栄一が紙幣になるのは2回目!?
来る2024年の新紙幣発行の際に、新一万円札の肖像が渋沢栄一に決まりました。
ここまで読んだ人なら、納得の人選となる渋沢栄一ですが、1963年の千円札の肖像候補にも上がっていたそうです。この時は「偽造防止のために髭のある人物がふさわしい」ということで伊藤博文に決まりました。
ところが、大日本帝国と呼ばれていた時代に大韓帝国を併合する前の朝鮮半島において、日本政府監督下で事実上の中央銀行にあたる朝鮮銀行から、1902年、渋沢栄一が描かれた紙幣が発行されていたようです。
渋沢栄一はいったい何をした人?まとめ
現在に名を轟かせている数多くの企業の元を作り上げたのが渋沢栄一です。
彼が居なければ、日本の経済発展は数十年遅れていいたとも言われています。しかも、実業家の側面だけではなく、様々な社会活動にも関り支援してきました。
ここまですごい人がどうして大々的にピックアップされてこなかったのかが不思議です。
渋沢栄一の何がすごい?
- 倒幕活動から一転、徳川慶喜下で幕臣となりその後明治政府に仕えた
- 明治政府を辞めると、600業種・500の会社を設立に尽力した
- 私利と公益のバランスが大切だと【道徳経済合一説】を説く
- 日米の平和にも尽力しノーベル平和賞の候補にも…
渋沢栄一の名言集
- 貯蓄とは将来を楽しむため現在の享楽を犠牲にするものだ
渋沢が若い頃大きな借金をしていたようで、その大きな借金を倹約をして完済したそうです。その教訓から、貯蓄の必要性を説いたのかもしれません。
- 倹約すればよいとはかぎらない
上記の事と矛盾していますが、人は出費が減ると少ない収入でよいと考えるようになり、向上心が無くなるようです。それを国に例えると。国税が減り国家が貧しくなるとの事。そのため、倹約はしつつも身の丈に合ったお金の使い方をするが良いそうです。
- 社会のために尽くす者に対しては天もまた恵みをあたえる
自分の利益だけを追っていくと人に恨まれるだけです。同じ設けるなら社会のために働いて設ける事を心がけましょう。
戦後の昭和、平成生まれの私たちは、生まれながらにして経済的インフラが整った状態で生活をしているので今の状況に違和感を感じませんが、その当たり前の状況の基礎を明治の頃に作り上げたのが渋沢栄一です。
もっとわかりやすく言うと、孫正義・スティ-ブ・ジョブズ、マークザッカーバーグなどのインターネット上のプラットホームを構築していった人をすべて足したレベルと考えると澁澤栄一がとてもすごい人だと言う事が想像できるでしょう。
これだけを押さえておけば、2021年2月14日からのNHK大河ドラマ『青天を衝け』が面白くなってくるはずです。