徳川幕府最後の将軍・徳川慶喜はどのような凄い人生を送ったのか?
2021年2月7日から始まったNHK大河ドラマ【青天を衝け】で、日本の資本主義の父と呼ばれる渋沢栄一の人生が演じられることになります。
その中で、草彅剛演じる徳川慶喜が何かとピックアップされる事ありました。
初回の放送では、冒頭の5分くらいしか出演していなかったのに普段の草彅剛とは思えない役のはまり具合に驚きました。
以前、渋沢栄一本人はサラッと書きかましたので、今回は徳川幕府最後の将軍・徳川慶喜にスポットを当てて書いていきたいと思います。
徳川慶喜の簡単な人物像
徳川慶喜と言えば、徳川幕府最後の将軍で自らの政権を朝廷に返した大政奉還は日本人なら誰もが知っている常識となりました。しかもそれを極力血を流さない形と言うのは大変なことです。
幼いころから、頭の回転が速いと言われ物事を常に合理的に考えたと言われています。頭の回転が速すぎるのか飽きっぽいのかは分かりませんが、断固決めた事をあっけなく投げ出すこともあり、家臣達は振り回されることもシバシバあったようです。
将軍後見職の頃から幕政には積極的でしたが、口が達者で我が強い性格のため、周りを論破しまくっていた結果、周りに政敵ばかりなり家臣達にも嫌われていたようです。
将軍就任前から京都で朝廷とのやり取りをしていたので、江戸城に一回も入らなかった将軍として大奥も未経験のまま江戸城無血開城と相成りました。
良くも悪くも当時の感覚とだいぶずれた御仁であったからこそ、この難局を切り抜けたのではないかと評価され、間違いなく明治以降の日本の礎を築いた者の一人なのはほとんどの研究者が一致しているようです。
晩年は、弓道、油絵、狩猟、打毬、碁、将棋、刺繍、お菓子作りなどの趣味多彩で腕前はプロ級でした。中でも手裏剣は達人の域を言っており、慶喜のライフワークとなっていました。
唯一大奥を経験していない将軍でしたが、静岡に移り住む際は20人の側女が一緒でした。しかし、実際の生活には支障をきたすために2人に絞り10男11女を設け、女同士も仲が良く子供たちもどちらが自分の母親とは特に意識することなく仲良く暮らしていました。
結果的に、将軍歴代3位の子だくさんと最長齢77歳でその生涯を閉じます
徳川家康の再来と言われた徳川慶喜
徳川慶喜(以降慶喜)は、水戸藩藩主・徳川斉昭の七男として1837年に江戸の水戸藩邸で生まれました。水戸藩と言えば徳川御三家ですが、8代将軍・吉宗の血が濃い尾張・紀州家と大きく隔たり、遠い親戚程度になっていました。
それに加え藩主・斉昭が、大奥や譜代大名から煙たがられていたこともあり、13代将軍家慶に見込まれ一時は将軍候補に挙がったものの、14代将軍の座には就くことが出来ませんでした。
とは言え、水戸藩主である事から、幕府の中枢に入るも周りから煙たがられているため、非常に腕を振るいにくい環境に置かれていました。
そんな状況下の水戸藩主・斉昭の下に生まれた慶喜は、生後七か月に国許(くにもと)で教育すると藩の方針で江戸から水戸へ移りました。
水戸では、藩校・弘道館で会沢正志斎から学問と武術の教えを受け、特に手裏剣術が好きで達人域まで極め、隠居生活になった後も毎日手裏剣の修業を行っていたと言います。こうした慶喜の才覚は評判となり、藩主・徳川斉昭も他家には養子に出さず、長男・徳川慶篤の控えとして水戸においておくことにしました。
一橋家相続と将軍継嗣問題
1847年8月1日、12代将軍・家慶の意向により水戸藩に向かった老中・阿部正弘は、慶喜を御三卿である一橋家に迎えたいと申し出ます。これを受け慶喜は、9年過ごした水戸を去り一橋家を相続しました。この時に、将軍・家慶から一字賜り【慶喜】と改名しました。
その後、将軍・家慶は時期将軍に慶喜を推すのですが阿部正弘の反対を受けて断念しました。
1853年に黒船来航の混乱の中、12代将軍・徳川家慶が死去すると、13代将軍に家定が継ぎました。しかし、病弱であったため男子を設ける見込みがなかった事で14代将軍の継嗣問題が幕府で浮上しました。
この時に老中・阿部正弘、島津斉彬、松平慶永、徳川斉昭は一橋慶喜(徳川慶喜)を推し、保守的な譜代大名や井伊直弼や大奥では、血筋が近い紀伊藩主・徳川家茂を擁立しようと、一橋派と南紀派が対立。
1858年になると、一橋派の中枢を担っていた阿部正弘・島津斉彬を相次いで亡くすと、大老に井伊直弼が就任し将軍継嗣問題は一気に加速し、14代将軍に徳川家茂を決定します。
安政の大獄と桜田門外の変
同時に、井伊直弼は日米修好通商条約を勅許なしに結び、世論の反感を買う事に…
水戸藩・徳川斉昭は、朝廷をないがしろにしたこの調印劇に反対し、松平慶永らと共に大老・井伊直弼に直談判をするために登城するが、無断登城を指摘され1859年に隠居謹慎処分となります。この時、御三卿の登城日であった事から慶喜は無断登城で処分されることはなかったが、原因不明の処分を受けています。
これを機に大老・井伊直弼は、一橋派を弾圧した政治を行うようになります。この一連の弾圧を安政の大獄と言います。
井伊直弼は、諸藩との協力によってではなく、幕府の求心力を強めることで国難に対処しようと強権政治を行いましたが、長続きはせず1860年に水戸藩の藩士だった者たちが、主家に対する侮辱的な仕打ちに怒り狂い、登城中の直弼を江戸城桜田門近くに待ち伏せて襲撃し暗殺した、桜田門外の変が起こります。
現役の大老(老中)が藩士により暗殺される前代未聞のこの事件で、幕府の権威がさらに失墜し、代わりに京都の朝廷とそれに取り入っていた西国の大名達が政権に参加する時代に代わっていきます。
程なくして老中の安藤信正・久世広周により、安政の大獄による弾圧が解除され、一橋派が自由になったのは同じ年の9月4日の事でした。
将軍の後見職となり権勢を振るう
1862年に島津久光らが勅命を盾に幕府の首脳人事に介入し、徳川慶喜が将軍後見職に就任します。これにより幕政の主導権を握った慶喜らは幕政改革を行い、京都守護職に松平容保を当て参勤交代の緩和などの施策を行いました。
この一連の改革を文久の改革と言います。
この頃、朝廷では公家たちが尊王攘夷藩に良いようにあやつられ、幕府に対して攘夷を早く実行してくれと要求するようになっていました。特に歴代の天皇が守り続けてきた美しい日本を外国人に侵されてはならないと強く思っていた孝明天皇は強く思っていました。
朝廷や天皇だけではなく、この時の日本ではほとんどが【尊王攘夷】だったとも言われています。開国論などを口にしたのなら命そのものが危なかったのです。
また幕府は、実際に諸外国とのやり取りの中で、今の日本では諸外国に太刀打ちできないと痛感しており、とても攘夷なんて出来る訳がないと思っていました。その結論での条約締結だったので、実際に開港が始まっている中での諸外国の排斥や攻撃などは出来るはずがありませんでした。
しかし、世論が世論だけに幕府に関わる者たちすべてが開国論を堂々と主張する事が出来ずに、気を使いとりあえず攘夷を目指すふりをしながらのやっているのが現状でした。
だからこそ、攘夷思想の水戸藩出身の徳川慶喜は、みんなの期待を一身に受けていたのですが、慶喜本人は攘夷の不可能さを良く知っており、その好奇心旺盛さから外国の文化にあこがれを持っており心の中では開国派だったと思われます。
ほどなく、しびれを切らした朝廷側から慶喜の元へ期限付きの攘夷の勅令が下りました。
天皇直々の攘夷命令に慶喜は【5月10日】に実行する旨をあっさり取り決めました。そして、攘夷の準備があると言い残し上洛してきた将軍を京都において江戸へ向かいました。
江戸にもどると慶喜は白々しく朝廷に将軍後見職を辞職する旨の手紙を送りました。権威が失墜したとは言え日本最大の武力集団である幕府は攘夷を行うためにはなくてはならないので、実質トップの辞任は避けたいとに朝廷は必死に慶喜の慰留を求めました。
内心、ガッツポーズをしたかどうかは分かりませんが、慰留を受けた慶喜は再び京都へ向かう事になります。この頃の政権の中枢は江戸ではなく、朝廷のお膝元である京都での出来事が多くなります。
参与会議と横浜港封鎖問題
同じころ、京都では朝廷に取り入って権勢を振るっていた尊王攘夷派の長州藩が京都を追い出される八月十八日の政変がおこりました。慶喜にとってはうるさい長州藩がいなくなって生成した事でしょうが、かわりに薩摩藩が朝廷を牛耳るようになってきました。
そこで慶喜は、京都での主導権を握ろうと薩摩藩と対立するようになりました。
薩摩藩は既に薩英戦争で外国の軍事力を肌で感じ、もはや攘夷はかなわないと開国路線に舵を切るところで、大枚をはたいて公家たちを自分たちの方に引き込ませようとしていました。
朝廷は、自身の会議に武家も加われるように参預会議を設けました。そのメンバーに徳川慶喜・島津久光(薩摩)・松平春嶽(福井)・伊達宗城(宇和島)・山内容堂(土佐)が集まり知恵を出し合うものでした。
この会議は薩摩藩が裏で手を引いている事を知っていた慶喜は、この会議の場でも薩摩藩と横浜鎖港問題などで対立色を深めていきました。
横浜鎖港問題とは、すでに開港していた横浜を再び閉じようと朝廷が要求していた問題です。これに対して慶喜は、【出来る訳がない】と思いながらも世論を気にして【幕府としても横浜を閉じようと思っていた】風に演じていました。
しかし、朝廷側も横浜港封鎖は現実問題無理と分かっており、それを知りながら幕府を困らせるための要求だったが慶喜があっさりとOKを出すもんだから、朝廷もビビッて【今回の封鎖は手違いだからやめてね♡】と慶喜に言ってきたのです。
これを受け慶喜は薩摩を引きはがすために、会議メンバーを引き連れ朝彦親王の館へ押しかけ、酒に酔った勢いで、久光に対し【この天下の大愚物め!】などとさんざん罵ったうえ朝彦親王に、愚物を信用してはなりませぬとくぎを刺したのです。
こんなことがあってはまともに会議など続けられるわけがないので、参与会議はほどなく空中分解してしまいました。一説によると、慶喜はこの参与会議自体をぶち壊すためにやった事だと言われています。
長州征伐の失敗と幕府の終焉
1864年3月に、慶喜は将軍後見職を辞めて禁裏御守衛総督となりました。
禁裏とは朝廷の事で、これにより慶喜は幕府中央から半ば独立した勢力基盤を構築していく事になります。同じ年の7月には、京都から追放されていた長州藩が出兵し、禁門の変が怒り、薩摩藩が強兵ぶりを発揮。慶喜も禁裏御守衛総督として活躍をしてその存在感を示しました。
長州藩は恐れ多くも御所で戦闘を起こした事で光明天皇の怒りを買い、朝敵となり幕府も朝廷の許しを得て長州藩を討伐する事になります。※第一次長州征伐
もしこの時、長州藩を完膚なきまでにたたけば、幕府の権威は回復し政治の中心は徳川家にあり続け、徳川慶喜は明治期の偉大な君主であり続けたかもしれませんね。
しかし、幕府軍の参謀として慶喜の前には現れたのが薩摩の西郷隆盛でした。この頃の西郷はいまや薩摩の実力者であり、禁門の変では長州藩を撃退する立役者でした。とは言うもののその内心は、いずれ長州藩の力が必要になるときが来ると考え始めてもいました。
我が薩摩藩が幕府に成り代わりいずれは新しい政府を作り上げるためには、死なない程度に長州藩は力を持っていてはもらわなくてはいけませんでした。そして、西郷の目論見通りに長州藩の家老の首をいくつか差し出しただけの処置で長州征伐は終了しました。
最初こそは幕府に恭順の意思を示したいましたが、元々筋金入りの反幕府の藩であることから、吉田松陰に影響を受けた高杉晋作や伊藤博文らが幕府に恭順した長州に激※を飛ばしたのです。※1864年12月の高杉晋作の功山寺挙兵
これで目が覚めた長州藩は再び反幕府の姿勢を取っていきます。
そして水面下に薩摩と長州の間で軍事同盟が結ばれることになり、長州は文久三年の政変や禁門の変以来薩摩に散々な目に合いいがみ合っていましたが、坂本龍馬や中岡慎太郎の仲介が実り、敵同士が手を組む薩長同盟が締結しました。
一方で再び言う事を聞かなくなった長州藩に手を焼いていた幕府は、第二次長州征伐に薩摩は出兵拒否し他の諸藩も金銭面を理由に中々足並みがそろいません。それでも、1866年にようやく開戦しましたが、倒幕に意気込む長州藩兵と気の乗らない幕府軍では勝負にはならず、幕府軍は長州藩に蹴散らされてしまいます。
15代将軍・徳川慶喜の誕生
長州征伐で長らく大坂城に詰めていた将軍・家茂が1866年に死去すると、幕閣からは慶喜将軍論が浮上し本人を説得に当たりました。しかし、幕府内でも敵が多い慶喜は、これをすぐには受けず、徳川宗家の家督だけを先に相続しました。
この頃の慶喜にはハッキリと開国を目指す意向があったようで、将軍を受ければ開国ができるんじゃね?と思ったのかどうか分かりませんが、渋々を装い将軍職を受けました。しかも、やる気満々で受けるのではなく、みんながそこまで言うから仕方がなくやりましょうと言う風に…
こうして15代将軍となった徳川慶喜は、いきなり長州攻めを強化する命令を出し、やる気を出すのですが、幕府軍前線の小倉城が落ち戦況の挽回が出来ないと知ると、我が方に利があらずと兵を引き上げていくのでした。
このやる気のない引きざまは、事実上幕府の権威は失墜を越え無くなった瞬間だったかもしれません。薩摩・土佐藩を筆頭に、これまで慶喜を支えていた松平春嶽も幕府に見切りをつけたと言います。
幕藩体制の終焉と大政奉還
幕藩体制が事実上機能しなくなったことから、今後は大名達の合議制で決めていこうとなりました。そこで薩摩藩は、有力藩をなるべく巻き込もうと列藩会議という形で物事を進めようとし、その中で1867年5月に京都で四侯会議が開かれました。メンバーは、島津久光、山内容堂、松平春嶽、伊達宗城、徳川慶喜でした。
そこで幕府の主導権を握りたい慶喜は、兵庫開港問題を解決させようとしますが、島津久光が開港問題より長州問題を先にあげ先延ばしにしようとしますが、慶喜の弁舌のに諸侯は為す術がありませんでした。
ぶっ通しの議論は終始慶喜のペースのまま、ついに朝廷から兵庫開港の勅許を勝ち取る事が出来ました。この無双ぶりに、薩摩の実力者・木戸孝允は、この手ごわさは家康の再来だと舌を巻いたと言います。
何とか平和的な話し合いで徳川慶喜と上手くやって行こうと思っていた諸藩たちでしたが、のらりくらりと論破されてしまい手が付けられないために、徳川とは武力で決着をつける事にしました。
そこで諸藩たちは公家の岩倉具視と共謀し、朝廷から薩摩藩と長州藩に【幕府を討て】という討幕の密勅を出してもらう事にしました。
こうした不穏な動きを察知していた慶喜は、討幕派が動き出す前に幕府が持っている権限を朝廷に返す【大政奉還】を実行し、討幕派が幕府を討つ大義名分を削いでしまおうとしました。
実際問題、朝廷が政権をいきなり返してもらっても、最大の軍事力と経済力を持っている徳川を頼らざる得ないと踏んでいたようです。以前から大政奉還しましょうと土佐藩からの打診があり、このタイミングで実行してやろうと思ったようです。
この時点で、土佐藩は薩摩と長州に比べるとかなり幕府よりの藩だった事が伺えます。きっと、土佐藩の祖・山内一豊が家康から土佐一国を与えられた恩義をずっと抱いていたのかもしれません。
国是が倒幕の長州藩・毛利家とは逆の立場であったかもしれません。
この土佐藩の渡り船に乗ることにした慶喜は、岩倉の裏工作で討幕の密勅が薩長に出されたとちょうど同じ日の慶応3年10月14日に、徳川慶喜は大政奉還の願いを朝廷に提出し、翌日それが受理されました。
王政復古の大号令で勝負ついに徳川家が…
大政奉還によって倒幕の出鼻をくじかれた薩長は、日本の新しい政治システムに徳川家を参加させてはいけないと朝廷にクーデターを起こします。
朝廷内から幕府の息のかかった公家をすべて追い出し、慶喜に朝廷に入り込むすきを無くしてしまい、討幕派のみで新しい政治システムを作りました。
これが王政復古の大号令です。
1867年12月9日に薩摩藩の西郷隆盛、大久保利通、公家の岩倉具視の3名が中心となり武力クーデターを決行し不要な公家たちを追い出し、天皇を国政のトップとする明治新政府を誕生させたのです。幕府も将軍も認めない徳川家とは完全に縁が切れた瞬間でした。
幕府からしてみれば天皇を人質としたテロリストですが、世論は完全に幕府の時代から離れつつあったことから、このクーデターは歓迎されることになりました。
幕府側から見れば、現政府に逆らうテロリストたちが天皇を人質にして朝廷に立てこもったという表現が当てはまるでしょう。しかし単なるテロとはならなかったのは、世の流れが幕府の時代から明らかに離れつつあったと言う事だったのです。
武力衝突へ…戊辰戦争の始まり
新政府が成立したのち観念した慶喜は、以前のような勢いを無くしジッとしていました。
新政府が徳川慶喜に最初に命じたのは、辞官納地で慶喜の官位と徳川の直轄地400万石をすべて召し上げると勅命が下りる事になります。これには、親幕派の新政府メンバーもいくら何でもやりすぎだと言う事で処分が甘くなり、新政府の議定に就任します。
しかし、旧幕府に仕えていた武士たちは怒りが頂点になり、暴動が起きかけるさなか慶喜は京都でのトラブルを避けるために、大坂へ行き様子を伺いました。
一方で西郷隆盛を有する新政府は、慶喜の政治力と外交力を恐れ、武力行使にでる事を決定しました。新しい時代を開くためには、旧幕府勢を徹底的にたたくしかないと思ったのです。
西郷は、江戸にいる薩摩の同志たちを使い、街を荒らすように指示をしました。
これに激怒した幕府側は、江戸薩摩藩邸に押し入り焼き討ちにしました。これにより、戦争の既成事実が出来てしまい、慶喜も武士たちを抑え込むことが出来なくなり旧幕府軍と新政府軍が京都郊外の鳥羽街道で激突する【鳥羽伏見の戦い】が始まりました。
兵数では幕府軍が勝っていたのですが、新政府軍の近代的な兵器の前に幕府軍は為す術もなく敗北を喫してしまいました。さらに、新政府軍に【錦の御旗】が掲げられ自分たちが館群であることをアピール。【自分たちが賊軍になってしまった】事に戦意を喪失した幕府軍は、新政府軍に寝返る者が出始める事に…
この状況をみた慶喜は、戦力は十分に残っていましたが、アッサリと白旗を上げて大阪城を脱出し幕府戦艦開陽により江戸へと引き上げていきました。
新政府軍が江戸へ迫ると、慶喜は勝海舟を交渉役に命じ江戸城攻撃前夜に勝と西郷の会見を行い江戸城無血開城を決めました。
江戸城無血開城で江戸の街は戦火を逃れたのですが、会津藩では幕府ぐうに代わり死闘を演じ敗北。更に戦線は函館まで北上し、五稜郭の戦いを持って旧幕府軍は完全に降伏し、鳥羽伏見に始まった【戊辰戦争】が明治2年に終結しました。
徳川慶喜の隠居後の優雅な暮らし
戊辰戦争終結後、徳川慶喜は江戸から水戸へ、そして駿府へ移住しました。
かつて、幕府に仕え命を懸けて戦った元武士からしてみれば、慶喜に対しては出家でもするか潔く腹を斬れと思っていたかもしれませんが、そんな封建的な常識は慶喜にはなかったかもしれません。
それどころか、隠居手当を言う年金見たいものをたっぷりもらい、趣味の写真や油絵、刺繍、狩猟などに精を出し、静岡の町をサイクリングする姿も見られたようです。そんな生活をよそに、将軍のために命を懸けて戦った元幕臣たちは、家族や領地、財産を失い困窮する生活を強いられていました。
徳川慶喜の評価
そんな徳川慶喜も、日本が近代化するために果たした功績は小さいものではありませんでした。もし、慶喜が本気を出し巧みな政治力を駆使し、幕府の持っている軍事力を精一杯使い本気を出して新政府誕生を阻止していたら、現代の皇居は以前として徳川幕府の政治の中心地跡だったかもしれません。
そしたら、近代化は遅れ、当時の世界情勢を考えると日本は半植民地・植民地化していたかもしれません。幕府側の人間からしてみると、慶喜のあきらめの速さや行動に批判が向きますが、あえて勝てる可能性を戦を打ち切り、封建的な幕藩体制に幕を下ろし結果的に明治の近代化の道筋をつけた慶喜の功績は大きいような気がします。
そんな徳川慶喜は、明治30年の61歳の時に幕末以来の江戸(東京)に移り住み、大正2年に77歳の生涯を閉じるまで暮らしました。
幕府を滅亡させたと言う点では、江戸幕府の将軍史上最低の評価かもしれませんが、最小限の被害で明治維新への道筋をつけて日本の近代化に一役買ったと言う点で評価すると慶喜あっての現代の日本があったのかもしれませんね。