幕末の水戸黄門、烈公とも呼ばれた【徳川斉昭】が幕府に与えた影響
吉沢亮が渋沢栄一を演じて何かと話題の『青天を衝け』。徳川慶喜を演じる草彅剛、徳川斉昭を演じる竹中直人など個性あふれる出演陣が揃っています。
これまで、竹中直人と言えば、1996年の大河ドラマ『秀吉』で豊臣秀吉役を演じ、2014年の大河ドラマ【軍師官兵衛】でも秀吉役に返り咲き、私の中では秀吉役=竹中直人と言うのが定着していました。なので青天を衝けでは徳川斉昭役なのですが秀吉にしか見えなかったのは私だけではないはず…
しかし、徳川斉昭の肖像画を見ると竹中直人に似ていることがわかり、これがキャスティングの理由なのではと世間を騒がせたのは有名な話です。
渋沢栄一が前半生を生きた幕末は激動の時代でした。その時代を見ていくうえで徳川斉昭が重要な人物の一人だったりします。
そこで今回は、幕末の黄門様・徳川斉昭について書いていきたいと思います。
水戸黄門は徳川光圀だけではない!?
タイトルにあるように水戸黄門と言えば【二代目藩主・水戸光圀】が有名ですが、そもそも黄門とは古代の日本の官職・中納言を中国風に言い換えたものなのです。要するに、中納言=黄門なので何も徳川光圀だけが黄門様ではないのです。
水戸光圀と斉昭の共通点と言えば、同じ水戸藩主で私たちの認識では、尾張・紀州・水戸といった徳川御三家のお家柄なのは知っての通りです。しかし、水戸徳川家に関しては幕府設立当初から御三家とは認識されておらず、御三家=将軍家・尾張家・紀州家の事を指し、水戸家はその下に序列されていたそうです。
ところが、尾張7代藩主・徳川宗春がよく幕府のルールを破る事があったので、当時の将軍吉宗から苦言を呈した事に対し「将軍家と尾張・紀州家は御三家として同格と決めたはずでは?」と反論し揉めたそうです。その過程で、将軍・吉宗は、宗春を隠居させ【御三家】とは、尾張・紀州・水戸家とし、将軍家はその上に立つ家だと決めました。
この尾張の反発が無ければ水戸家が御三家と認められなかったかもしれないので、水戸家からすれば尾張家に足を向けて寝られない事でしょう。これが、徳川慶喜以外の将軍で水戸家から将軍を出さなかった理由かもしれませんね。
話が少しそれてしまいましたが、本題に行きましょう。
徳川斉昭の誕生
青天を衝けでは【頑固爺】みたいな感じの9代水戸藩主・徳川斉昭ですが、庶民に人気の名君だったと言われていますが、気性が荒く【烈公】の異名もあるそうです。
1800年に水戸藩主7代・徳川治紀の三男として江戸の水戸藩邸で生まれ、11代将軍・徳川家斉の一字を賜り藩主就任後は徳川斉昭と名乗ります。幼い頃に水戸学を学び聡明さを示しました。
徳川治紀には、男子が4人いて長兄以外は各家に養子に送られていましたが、斉昭だけは長兄の控えとして水戸徳川家に残っていました。
そんな斉昭に転機が訪れます。1829年に長兄である第8代藩主・斉脩が次期藩主を決めないまま死去すると、反斉昭派が不穏な動きをみせるが斉脩死後ほどなくして斉昭を次期藩主とする遺書が見つかり、徳川斉昭が9代目水戸藩主となりました。
徳川斉昭の藩政改革
藩主就任後、藩政改革を断行し人事を一新。優秀な人材を奉行に命じ、地方へ派遣し農村復興に尽力しました。
また、斉昭は藩政改革を行うための4本柱を掲げました。
- 藩内の検地を行い境界を正すことで秩序を保つ
- 城下の藩士を郡部に住み着かせ軍備拡張をする
- 弘道館を設立し、他にも学校を作る
- 藩士の江戸定府※の廃止
※参勤交代の際の藩主の江戸在中に一緒に仕えること
藩主就任後、藩政改革を断行し人事を一新。優秀な人材を奉行に命じ、地方へ派遣し農村復興に尽力しました。
また、軍事にも力を入れており、那珂湊(なかみなと)に砲台を築き、大砲を鋳造して設置し、大規模な軍事教練を毎年のように行いました。
教育にも力を入れ【弘道館】と言われる藩校を設立し、自らの子供達にも学ばせていました。市民の中から優秀な人材を育成し、水戸学の他に自然科学や武道など、広く学ばれていたようです。
水戸藩では学問は一生行うものとして、卒業制度が無かった事が大きな特徴で、この弘道館では【生涯学習】と言う概念が百年以上前にあった事になります。
精神修養と余暇のための施設として水戸偕楽園(かいらくえん)も造営し、領民にも開放していました。
藩財政の立て直しで倹約令を打ち出し、自ら率先して倹約をして見せました。
ところが、この斉昭の改革は保守勢力の反感を買う事になり、特に力を入れていた軍事教練は幕府から嫌がられていました。また、大砲鋳造のために寺院の鐘楼を没収したして僧侶たちにも恨まれ、さらには幕政に口を出し倹約を推奨したため大奥にも嫌われる始末でした。
こうした周りからの反感が幕府を動かし、1844年に徳川斉昭は謹慎処分を受けてしまいました。
しかし、ここで終わるような斉昭ではなく、謹慎が緩くなると老中・阿部正弘にいずれ交易を求めてやってくる外国使節の海防策を他の御三家や雄藩諸侯に意見を求めたほうが良いと進言しました。
徳川斉昭の危惧は1853年に現実のものとなります。浦賀湾に黒船が来航したのです。
すると斉昭は大砲74門を幕府に献上し江戸へ運び入れると、黒船におびえていた庶民たちは斉昭を称賛したちまち人気者となりました。斉昭の事を煙たがっていた幕府も、この行動に感服しそのまま幕府の海防参与を命じました。
この黒船来航を機に老中・阿部正弘は、斉昭の進言通り諸藩大名に海防策の意見を求めるようになりました。しかし、これが幕末の諸藩の幕政介入のキッカケともなりました。
さらに1857年には、米国総領事・ハリスが通商条約の締結を迫ると、攘夷派の斉昭が反対の姿勢を取ります。当時の老中・堀田正睦は斉昭を押さえるために通商条約締結の勅許を朝廷から得るべく動きますが、事前に斉昭が孝明天皇に攘夷論を吹き込んでいた為、勅許が出ませんでした。
幕府の政策が京都の朝廷側が反対した事で、日本の政争は江戸から京都へ移っていきました。斉昭が幕府のために行った謀は結果として幕府の権威をおとしめる結果となりました。
安政の大獄と徳川斉昭
井伊直弼が大老に就任すると、勅許をえずに日米修好通商条約に調印し、反対派の大名を次々に蟄居・隠居させ尊王攘夷志士達を徹底的に弾圧する安政の大獄を行いました。その一環で斉昭も水戸藩邸で幽閉されました。
これにより徳川斉昭は、事実上政治の表舞台から姿を消すことになります。
この処分に納得いかない水戸藩士たちは1860年の3月に城上中の井伊直弼を暗殺する桜田門外の変が起こり、1864年には藩内の過激派が筑波山で挙兵する天狗党の乱が起こります。乱は幕府によって鎮圧され、350人が死罪、130人が島流しになる大事件となりました。
徳川斉昭は、1860年8月15日に蟄居処分が解けぬまま60歳の生涯を閉じる事になります。桜田門外の変よりわずか半年だったため、斉昭の死は彦根藩士による暗殺ではないかとも言われていましたが、当時の彦根藩は否定しています。
通説では、壮年期から狭心症を患っており、長期間の蟄居によるダメージによる心筋梗塞だと考えられています。
水戸学と徳川光圀
水戸学は、朱子学を主流としながら国学や史学も取り入れた水戸藩独自の学風で、この学風は弘道館での基本となりました。
2代目藩主・徳川光國の時代に水戸藩では大日本史の編集の過程で、独自の尊王攘夷論を理論化した国家観が形成されました。斉昭藩主時代になると欧米列強の脅威と幕藩体制の弱体化が顕著となり、尊皇思想を基本として攘夷に結びつける思想が、斉昭の改革のなかで大きくなりました。
また、水戸藩の学者・会沢正志斎が国防の重要性を説いた『新論』は藩内でベストセラーになり、志士たちの間で聖書のように扱われました。
こうして水戸藩は、尊王攘夷の理想論を掲げ各方面から期待をされるが、幕府内では異端とされ活躍する機会をどんどん失っていきました。こうした流れから、幕末の維新で水戸藩出身の志士が聞かないのはこのためだと考えられています。
しかし、光圀から始めた『大日本史』の編集は、明治後も続き1906年についに完成を見せました。明治維新後に御三家は侯爵に列しましたが、水戸徳川家は大日本史の功で【公爵】に上がることになります。