万国博覧会【万博】の歴史と日本の博覧会
世界で初めて開かれた万博は1851年の第一回ロンドン万博です。
実を言うと日本人の万博デビューは古く、1862年の第二回ロンドン万博で初めて幕府の使節団の一行が見物に行っています。この万博ではイギリスの駐日大使が日本の品々を紹介してくれました。
そして、1867年の第二回パリ万博からは出品も行い、日本の美術品・工芸品は好評で後のジャポニズムの流行のキッカケとなっています。
万博が始まった最初の50年の間は蒸気機関と電気の利用が産業を変えた時代でした。日本でいうと『幕末・明治維新~日露戦争』の頃の話です。
万博で紹介されたような西洋技術を積極的に取り入れたことは近代技術の発展に大いに貢献しています。
博覧会の起源
起源については諸説あるようですが、博覧会の原型は17世紀~18世紀にかけて登場したとされています。1667年にフランスのルーブル宮で美術品の博覧会が開催され、各作家が競い合い、愛好家者たちが批評したと言います。
1797年の博覧会では、王立工場再建の一環で『タペストリー』『陶器』『カーペット』などの製品在庫を城で売りました。この売り立て会が、産業復興にとても有効であるとして国家事業として行うようになります。
フランスで国家事業として行われた博覧会はどんなもの?
国家事業になってからは展示品の売買を禁止し、優れた製品は審査により賞を受賞するといった近代博覧会の形式が成立しました。パリの会場と周辺のアーケードには、全仏から集まった製品が集まり、市民の人気を集めました。
この博覧会の成功でフランスでは1849年までに11回の博覧会を実施しています。出品者、会期は回を追うごとに拡大し、産業奨励会が組織されるなど、国内産業の進歩に大きな刺激を与えていきました。
こうして、フランスの成功をみたヨーロッパ各国がこぞって国内博覧会を開くようになっていきます。
イギリスでの博覧会のはじまりとは??
一方、産業革命で技術革新を進めてきたイギリスでは、博覧会を「工業化に遅れた国の事業」とする見方が強く、見本市的なモノは開かれたものの商取引が中心でした。しかし、ヴィクトリア女王の夫であるアルバート公によりこの認識は打ち砕かれます。
1845年に自身が総裁を務める王立美術協会を通し、工業製品の国内博開催案を推進していたのですが、これに庶民たちが手に触れやすい工芸品も含めたことにより、国民の関心が高くなりまいた。
以降、毎年イギリスで展覧会を実施した事で、この場に優れた工業・工芸品などが国内に集まるようになり、その経済効果は大きなものとなっていきました。
この展覧会の成功に味をしめたアルバート公が国際的な博覧会開催へと駆り立てて行くことになり…
- 自ら博覧会基金に多額の寄付を投じた
- 反対派の議員たちの説得
- 諸外国を訪問し参加国を募る
などを積極的に行い、こうした努力の結果、イギリス国内博として開催予定だったロンドン博覧会は、1851年に世界初の万国博覧会として開催されることになりました(詳細は後述します)。
近代の万国博覧会と世界の出来事一覧
1851年のロンドン万博を皮切りに欧米諸国を中心に万博ブームが起こり、各国で次々と開催されるようになります。後述しますが、日本が初めて正式に参加※したのは、渋沢栄一が随行した第二回パリ万博でした。
※日本という名で正式に参加したのは、1872年のウイーンとも言われています。
日本でも、明治に入ると国内の博覧会を開催するようになります。主な万国博覧会と国内博覧会は以下の通りです。
年 | 万国博覧会 | 日本の博覧会 | 世界の出来事 | 日本の出来事 |
1851 (嘉永4) | 第一回ロンドン万博 | |||
1852 (嘉永5) | フランス第二帝政(~1870) | |||
1853 (嘉永6) | ニューヨーク万博 | クリミア戦争(~1856) | ペリー来航 | |
1854 (安政1) | 日米和親条約 | |||
1855 (安政2) | 第1回パリ万博 | 長崎海軍伝習所開設 | ||
1856 (安政3) | ベッセマー製鋼法 | |||
1858 (安政5) | 日米修好通商条約 | |||
1861 (文久1) | 南北戦争 ロシア農奴解放令 イタリア王国成立 | 長崎製鉄所竣工 | ||
1862 (文久2) | 第2回ロンドン万博 | ロンドン覚書(開市開港延期) | ||
1866 (慶応2) | 普墺戦争 | |||
1867 (慶応3) | 第2回パリ万博 | 大政奉還 | ||
1868 (明治1) | 戊辰戦争 | |||
1870 (明治3) | 普仏戦争 フランス第三共和制 | |||
1871 (明治4) | 京都博覧会 | ドイツ帝国成立 | 廃藩置県 岩倉遣外使節団派遣 専売略規則公布 横須賀造船所 | |
1872 (明治5) | 湯島聖堂博覧会 | 横浜-新橋鉄道開通 学制公布 官営富岡製糸場開業 | ||
1873 (明治6) | ウィーン万博 | 徴兵令 征韓論破れ西郷隆盛ら下野 | ||
1876 (明治9) | フィラデルフィア万博 | ベルが電話を発明 | 廃刀令 敬神党(神風連)の乱/秋月の乱/萩の乱 | |
1877 (明治10) | 第1回内国勧業博覧会 | 露土戦争 イギリス領インド帝国の成立 | 西南戦争 | |
1878 (明治11) | 第3回パリ万博 | エジソンが白熱電球を発明 | ||
1879 (明治12) | シドニー万博 | |||
1880 (明治13) | メルボルン万博 | 工場払下概則で官営事業を民間払下げ | ||
1881 (明治14) | 第2回内国勧業博覧会 | 明治14年の政変 松方正義が大蔵卿に就任 | ||
1883 (明治16) | 工業所有権の保護に関するパリ条約 ダイムラーがガソリンエンジンを発明 | |||
1884 (明治17) | 清仏戦争 | |||
1885 (明治18) | レントゲンがX線を発見 | 内閣制度 専売特許条例 | ||
1887 (明治20) | 東京電燈(電力会社)営業開始 | |||
1888 (明治21) | バルセロナ万博 | |||
1889 (明治22) | 第4回パリ万博 | 大日本帝国憲法発布 | ||
1890 (明治23) | 第3回内国勧業博覧会 | 第一回帝国議会開催 | ||
1893 (明治26) | シカゴ万博 | |||
1894 (明治27) | 露仏同盟 | 日清戦争 | ||
1895 (明治28) | 第4回内国勧業博覧会 | 三国干渉 | 京都電気鉄道開業 | |
1897 (明治30) | ブリュッセル万博 | |||
1898 (明治31) | 米西戦争 | |||
1900 (明治33) | 第5回パリ万博 | 義和団事件 | ||
1901 (明治34) | 官営八幡製鉄所操業開始 | |||
1903 (明治36) | 第5回内国勧業博覧会 | |||
1904 (明治37) | セントルイス万博 | ルベールがオフセット印刷を発明 | 日露戦争 | |
1905 (明治38) | リエージュ万博 | ベルギー独立75周年 | ||
1906 (明治39) | ミラノ | |||
1907 (明治40) | 東京勧業博覧会 | 英仏露三国協商成立 |
上記に記載している万国博覧会をすべて紹介すると果てしなく長いので、いくつが抜粋して紹介してきます。
世界初の万国博覧会・第一回ロンドン万博
世界初の万国博覧会であるロンドン万博は、ロンドンのハイドパークに建てられた会場は、その外見からクリスタルパレスと呼ばれ、万博最大の目玉展示物でもありました。
これまで、農業中心の伝統的な産業が主だったイギリスは18世紀末から始まった産業革命により工場制産業が幅を利かせるようになっていました。
これにより世界の工場イギリスの繁栄は明らかになり、このロンドン万博の開催により圧倒的な工業力を世界に知らしめることになります。
参加国は34か国、141日の会期で一日の平均入場者数は4万人以上で、10月7日には11万人以上の最高入場者数を記録しました。会期中の延べ入場者数は600万人以上で、イギリスの人口の三分の一でロンドンの人口に至っては人口の3倍に当たります。
これだけの人が訪れた背景には、イギリス国内の印刷技術の進歩による宣伝効果や鉄道網の発展による交通手段の進歩によるものと考えられています。
また、海上帝国イギリスは定期蒸気船航路で南・北アメリカ、アジア、アフリカに分散する植民地が結び付けられており、ロンドンが文字通り世界の中心として君臨していたことも関係しているでしょう。
出品者13000人以上の半数以上はイギリスからの出品を占め、出展品は鉱物・化学薬品の原材料・機械・土木・ガラス・陶器・美術部門のように分類されました。
この万博は約52万ポンドの収入と約18万ポンドにものぼる利益を得る大成功を治めます。そして、この利益を基にできたのが『ヴィクトリア・アンド・アルバート・ミュージアム』『科学博物館』『ロイヤル・アルバート・ホール』などの文化施設でした。
渋沢栄一が随行した第二回パリ万博
第二回パリ万博は、ナポレオン三世によるロンドン万博への挑戦として世界中の注目を集めます。1863年6月にナポレオン三世は勅命を出し、万国博覧会の開催が決定したのです。
広大なシャン・ド・マルスの敷地を会場として、中央に温室庭園を囲んで7つの回廊が同心円状に広がる展示会場が建設されました。それぞれの回廊には特定の展示部門を置き、内から『芸術作品』『文化教養』『家具』などが並び、6番目の最大の回廊には『機械工業関係の品』が展示されていました。
おそらく、青天を衝けで渋沢栄一が見て体験した『蒸気機関エレベーター』などは、この6番目の回廊に当たるのではないかと思われます。また、大河ドラマにあった各国の展示品は円の中心から通路を歩いたところにあったようです。
さらにメイン会場の外周には売店やレストランなどの飲食店や遊園地などもあり、子供たちに人気を博しました。こうした娯楽施設出店は第二回パリ万博が初めての試みです。こうした明るいお祭り的な万博は、その後の万博のモデルとなりました。
出品者数は6万人、入場者数は900万人以上と1851年の第一回ロンドン万博を凌ぐものとなり、こちらも大成功の万博となっています。
この時、日本が初めて正式に参加。(幕末の情勢を考慮して)幕府・薩摩・佐賀藩が出品しています。遠い日本からの出品物は大変珍しがられ、ジャポニズムに繋がりました。
渋沢栄一のパリでの活躍
1867年に渋沢栄一は、第二回パリ万博に御勘定格陸軍附調役【会計係兼書記】として、使節団の一人としてパリへ随行しました。これまでの渋沢栄一の足跡は他の記事で書いてますので参考にしてください。
パリ万博でも栄一は、庶務・会計について手腕を発揮。パリ滞在の経費を削減し、博覧会出品物の売却も行いました。
こうした万博に関する幕府の仕事をこなしながら、1年半の滞在で経済の理法、合本組織の実際(=株式会社)、金融の仕組みを調査して研究しました。この知識が後の近代企業の設立、租税制度や貨幣制度の改正・改革へと繋がっていきます。
栄一が書いた『航西日記』には、パリ万博の規模や状況・各国の元首などを事細かく書かれており、日記のいたるところに西欧文化の進歩に感嘆している文章が何度も見られます。ほんの数年前までは過激な攘夷論者であった栄一が、西欧文化に触れどのように心変わりしたのかが、この史料をみればわかる事でしょう。
金閣がアメリカにも!?セントルイス万博
1904年(明治37年)には、アメリカのセントルイスでも万国博覧会が開かれました。この万博に参加した日本は、会場に【日本庭園】を造っています。
1903年の万博の準備段階で「臨時万国博覧会事務局」が陸軍に送った資料から、この日本庭園の様子を知ることができます。少し見えにくいかもしれません。
『聖路易万国博覧会ニ於ケル日本庭園俯瞰図』という史料を見ると、池や川が作られ、石灯篭や岩、マツなどが配置された、とても広い本格的な日本庭園であることが想像できます。
その庭園の中に、日本家屋がいくつか建てられ、中でも中央の金閣があるのがおわかりでしょうか?
日本文化と言えば日本庭園。そして、日本の建築物の代表として何よりも金閣を紹介したかったのでしょう。わざわざアメリカの万博会場に、金閣を初めこの壮麗な建物を再現して見せているところに強いアピールの姿勢が感じられます。
現在でも京都の金閣には多くの外国人観光客が訪れていますが、この時代から外国人は『日本=金閣』といった建造物のイメージを持っていたのかもしれませんね。
世界大戦後の万国博覧会
第一次大世界戦後には、近年の万博のように【テーマ】を持った万博が行われるようになります。1928年には、国際博覧会条約が署名され【国際博覧会】はこの条約の基準に沿って開催されることになりました。
第二次世界大戦がはじまると、18年ほどの中断期間がありましたが、1958年に再びブリュッセルにて万国博覧会が開催されました。
その後、2000年に行われたハノーバー博まで、国際博覧会は世界各地で開催されてきました。
日本と国際博覧会
世界中の万博ブームに乗ろうと日本でも万博を開催しようと1890年(明治23年)にありましたが、次期尚早と言う事で見送られましたが、1940年の紀元2600年を記念した【東西文化の融合】をテーマとして東京・横浜で開催する事が決まり、入場券を印刷し販売するところまで準備が進みました。
しかし、第二次世界大戦の勃発とともに1938年に中止が決定されました。東京中央区にある勝鬨橋は、この幻の万博のために建設されたものだそうです。
日本の万国博覧会
日本で念願の万博が開催されたのは、1970年(昭和45年)の大阪万博でした。
【人類の進歩と調和】をテーマに、終戦25周年を記念として、戦後の高度経済成長を遂げ世界第2位の経済大国となった日本の象徴的な意義を持つ万博として、77か国が参加しました。
この万博は、1964年の東京オリンピック以来の国家プロジェクトであり、多くの企業・研究者・建築家・芸術家らなどがパビリオン建設や映像・音響などのイベント・展示物の政策に起用されました。
大阪市などの会場周辺は、道路や鉄道、地下鉄などが整備され、日本政府の万博関連事業として6500億円が支出されました。昭和40年の5億円が今の50億円に相当すると言われているので、現在の価値で6兆円以上を支出した事になります。
これを機に国内各地で地方博覧会が行われるようになり、1981年に神戸で開催されたポートピア’81の成功で一気に地方博覧会ブームが訪れましたが、1990年代のバブル崩壊と共に沈静化。東京臨海副都心で行われる予定だった博覧会は中止となります。
これ以降も、地方では博覧会は行われましたが、札幌市で行われた世界・食の祭典は運営のずさんさも相まって90億円の大赤字を出すなどの最悪の結果となりました。
博覧会の意義
このように博覧会は19世紀~20世紀においては各国で大きな役割を果たしてきましたが、情報網が進化し、様々なイベントや展覧会が日常的に開催される現在では博覧会の意義が失われつつあるようです。
テーマによりますが、多くの場合は科学技術の成果などを大衆に知らしめる内容や出展企業・団体・国のPRになるような内容であることが多いのが博覧会です。しかし、今となって人々が期待する博覧会は【お祭り】や【遊園地】的な物を期待するのが多いのが現状です。
そのため、科学技術の成果物ではロボット、宇宙開発、リニアモーターカーなどの子供に分かりやすく見た目が派手な展示に目が行きます。また、客層も子供や中高生と言った10代の青年層が多く、20代以上成人層で博覧会で何かを得ようとする人は少ないのが現状でしょう。
2025年には、関西地区で再度万博が開催される予定で、テーマは【いのち輝く未来社会のデザイン】らしいです。現在、官民一体となって【Society 5.0】という国家プロジェクトに取り組んでおり、IoT、AI、ロボット、Big Dataなどの革新技術を最大限活用することによって、人々の暮らしや社会が最適化された未来社会の実現を目指すようです。
詳しくは、ホームページに概要があったので参考にして見て下さい。