生涯現役のレジェンド!大島光義――戦国時代を駆け抜けた90歳越えの猛者

戦国時代の武将たちは数多くの戦場を駆け抜けましたが、その中でも90歳を超えて戦い続けた武将がいました。その名は、大島光義(おおしま みつよし)。彼のように長年にわたり現役で戦い抜いた人物は非常に珍しく、その生涯はまさに伝説です。
大島光義は生涯、53回もの合戦に出陣し、戦国の激動の時代を駆け抜けました。なんと、96歳の時には関ヶ原の戦いにも参戦し、戦功を挙げたというから驚きです。
今回は、この生涯現役の武将、大島光義の生涯を振り返ってみましょう。
戦国乱世の中で生き抜いた少年時代
大島光義は1508年、美濃国に生まれました。幼少期、7歳の時に父・光宗が戦死し、孤児となります。当時の戦国時代で孤児になることは命がけです。しかし、光義はその過酷な状況を乗り越えるため、必死に弓の技術を磨きます。そして13歳で初陣を迎え、見事に弓で敵兵を討ち取る武功をあげ、武将としての道を歩み始めます。
伝説の弓の名手

大島光義には数々の伝説的なエピソードが残されています。
例えば鉄砲よりも早く矢を放ったとか、木の陰に隠れていた敵を木ごと射抜いて討ち取ったという逸話。実際にどこまでが事実かはわかりませんが、その弓の腕前が並外れていたことは間違いないのでしょう。
これらのエピソードが語り継がれるほど、光義の弓の技術は卓越していたと言えます。
織田信長に仕官、60歳で大出世
光義が仕官したのは斎藤家の衰退後、織田信長に招かれた時でした。
すでに60歳に差し掛かり隠居を考える年齢でしたが光義は信長の誘いに応じ、織田家に仕官します。
信長は彼を弓大将に任命し、100貫の土地を与えるという大出世を果たします。信長はまた、光義の戦場での働きぶりを見て「お前の戦場を駆ける姿は雲のようだ」と評価し、光義に「雲八」という名を授けました。
この年齢での出世と、戦場での活躍はまさに驚異的です。
90歳を超えても現役武士
1582年6月2日、本能寺の変で織田信長が討たれると、光義は安土城にいました。
明智光秀の軍に攻められると、妻子を連れて戦いながら美濃へと退却。その後は丹羽長秀、豊臣秀吉に仕官し、戦場で活躍を続けました。
驚くべきことに、光義は1600年の上杉景勝の会津征伐にも93歳で参加し、96歳で関ヶ原の戦いにも出陣しています。この年齢で現役を続けることができたのは、まさに怪物とも言える存在でした。
関ヶ原の戦いでは東軍(家康側)に所属し、戦功を挙げるという驚異的な活躍を見せます。その後、江戸幕府の設立に伴い、1万8,000石の大名となります。
生涯現役、97歳で大往生
大島光義は1604年、97歳でその生涯を閉じました。彼のように、老いてもなお現役で戦い続ける姿は、現代人にとって大きな教訓です。
「年齢を重ねたからこそできることがある」と、私たちに強く示しているように感じます。
大島光義は、現代の人生100年時代の生き方を超越し、最期まで生涯現役で戦い抜きました。
彼の生き方は、私たちに「年齢に関係なく、挑戦し続けることの大切さ」を教えてくれる存在です。