戦国時代

武田家を滅ぼした三人の決断――木曽義昌・穴山梅雪・小山田信茂の裏切りとその末路

歴ブロ

戦国時代という混乱の時代、人々は生き残るためにあらゆる選択を迫られました。
中でも「裏切り」は、非難されがちな行動でありながら、戦国武将にとっては珍しいものではありませんでした。

血縁関係であっても、情ではなく利で動く――。

盟約を破棄し、昨日までの味方が今日には敵になることなど日常茶飯事。

それが戦国時代でした。

そこで今回は、名門・武田家の崩壊を早めたとされる三人の武将――木曽義昌、穴山梅雪、小山田信茂に焦点を当て、なぜ主家を裏切り、どんな結末を迎えたのかを見ていきます。

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木曽義昌:織田に通じて生き延びた武田勝頼の義弟

信濃・木曽谷の豪族である木曽義昌は、武田信玄の三女を正室に迎えており、武田家の親族衆でもありました。

美濃・飛騨との国境地帯を預かる地理的要所を治める義昌でしたが、信玄亡き後の武田勝頼に対する不信感から織田信長と結びつき、寝返りを決断します。

この裏切りが、信長による甲州征伐の発端となり、武田家滅亡のカウントダウンを早める要因となったのは間違いありません。

織田側からは信濃の領有を約束されたものの、武田に人質として送られていた家族は処刑され、義昌の代償は小さくありませんでした。

本能寺の変の後、情勢は大きく動き、義昌は北条・徳川・豊臣と主を変えながら命脈を保ちますが、最終的に徳川家の傘下に組み込まれ、木曽谷ではなく下総国阿知戸(現在の千葉県旭市)に1万石を与えられます。

土地開発に励んだものの、木曽の地に戻ることなく1595年にこの地で没しました。

穴山梅雪(信君)|一門筆頭の離反と落ち武者狩りの最期

武田信玄の甥であり娘婿でもあった穴山梅雪は、一門衆の中でも特に立場の強い人物でした。
しかし信玄亡き後、勝頼との対立が表面化し、長篠の戦いでは戦わずして戦線を離脱。信頼は大きく揺らぎます。

梅雪はやがて徳川家康に通じ、信長の甲州征伐の際には織田軍を先導するという形で武田家を離反。親族中の筆頭である彼の離反は、家中に大きな動揺をもたらしました。

その後、家康に従って上方に赴いていた梅雪でしたが、1582年の本能寺の変により状況は一変。堺からの帰国途中、落ち武者狩りに遭い、無惨にも命を落とします。

息子・勝千代(信治)は武田家の名跡を継ぎましたが早世し、家康の五男・信吉が武田氏を継いだことで、家としての梅雪の思惑は一応の形を保ったものの、その最期は皮肉にも裏切りの代償を思わせるものでした。

小山田信茂|勝頼を見捨てた「未曾有の不忠者」

小山田信茂は甲斐の有力国衆で、信玄の従甥にあたる人物です。

数々の戦いで実績を挙げ、勝頼からも信頼されていました。

しかし1582年、勝頼が新府城を放棄して信茂の岩殿城に逃れようとした際、信茂はこれを拒否。行き場を失った勝頼は天目山で自害し、武田家は事実上滅亡します。

その後、信茂は織田家への降伏を試みるものの、信長の嫡男・信忠から未曾有の不忠者と非難され、嫡男とともに処刑されました。

信茂の裏切りは、武田家との長年の関係を考えると、家中でも最も深刻な背信として認識されており、処遇の厳しさはその評価を物語っています。

三人とも、生き延びるための判断を下したつもりだったのでしょう。
けれど、どの人物も最終的には安定した地位や未来を得ることはできませんでした。

戦国時代において裏切りは決して特別な行動ではなく、生きるための選択肢の一つではありました。しかし、その選択が報われるか否かは、誰にも分からない。むしろ、大きな代償を背負うこともある――。

彼らの歩んだ道は、そのことを静かに私たちに教えてくれているようです…

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歴ブロ・歴ぴよ
歴ブロ・歴ぴよ
歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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