戦国時代

織田信長の少年時代に影響を与えた平手政秀との関係とその功績

歴ブロ

戦国時代の大名家に生まれた子供たちには、両親に代わり養育や教育を行う乳母や傅役(もりやく)と呼ばれる人たちがついていました。織田信長も例外ではなく幼い時には乳母や傅役がついています。

その中でも平手政秀は、傅役として信長の幼少期から家督を継いだ直後まで傍で彼に支え大きな影響を与えました。

そこで今回は、織田信長と平手政秀の関係とその功績を紹介します。

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傅役・平手政秀の重臣としての功績

元は織田信秀に仕えていた平手政秀。織田家の重臣として外交面で活躍し、茶の湯や和歌にも通じた人であり文武両道に秀でた風流人、信長の茶の湯の関わりも政秀の影響といわれています。

織田信長が尾張の大うつけと呼ばれていた頃の信長も側で見続けた人物で、その死の原因にも信長の奇行を諌めるためといわれますが、明確な理由は判明していません。平手政秀が42歳の時に信長の誕生で傅役に就任。同時に次席家老も務め、沢彦宗恩を信長の教育係として美濃から招いています。

交渉術に長けた名外交官で、平手政秀の功績としては信長と斎藤道三の娘である濃姫(帰蝶)との婚儀を取りまとめたことで織田家と斎藤家の結びつきを強化し、後に信長が天下統一への足掛かりを築くうえで重要な基盤となりました。

また、信秀の命により朝廷に対し京都の内裏修築料として4000貫文を献上し、織田家の名声を国内外に高める役割も担っています。

信長と平手政秀の師弟関係

信長の教育係を担った平手政秀

武術や学問等の帝王学を学ばせ実力を見せていくのですが、奇行が目立ち「うつけもの」と世間から揶揄されるようになります。異形な装いで馬に乗り徘徊するなどの行動が目立ち、織田家臣たちにとっては悩みの種でした。

当時の織田信長は家督相続以降、尾張国内の織田家統一を目指しており、その過程で奇抜で恐れられる存在を演じていたようで、政秀もそれをよく理解していました。ほかの家臣たちが愛想をつかしつつある中、政秀は信長に向き合い、学問・武術はもとより政治的知恵と処世術も叩き込みます。

政秀はその背景を深く理解し信長の行動を見守っていましたが、政秀も顔を覆うような信長の行き過ぎた行動は二人の運命を変えました。

平手政秀の最期とその影響

政秀の最期は信長の「うつけ者」としての行動に対する諫死が理由とされています。※諸説あり

1551年に父・信秀の葬儀で信長が無礼な行動を取ったことに深く恥じ、二年後の1553年に切腹したとされています。その遺書には信長への深い愛情と期待が込められており、政秀の死は信長に大きな衝撃を与えました。

平手政秀の自刃の理由には、織田信長が「父信秀の葬儀の場に湯帷子姿で馬に乗って現れ、抹香を投げつけるなどの奇行を憂い、自身の死をもって諌めるため」とする美談が一般的ですが、そのほかにも説があります。

平手政秀の息子、平手五郎右衛門の所有する駿馬を信長が所望したことを拒否」したことで、信長の怒りをかったためとする説や、織田信秀の死による織田家家督相続に信行を推す林秀貞、通具柴田勝家らとの対立が自刃の理由とする説などがあります。

結果的に政秀が亡くなっても織田信長の素行は変わりませんでしたが、政秀のために政秀寺を建立して菩提を弔いました。自刃の理由がどうであれ、信長にとっては政秀が自刃するとは思っていなかったことがわかります。

織田信長が茶の湯や能楽といった文化的な嗜みにも長けていたのには、傅役に就任していた平手政秀の存在が大きく、尾張国の大うつけの教育役としての役目を果たした人物と言えます。

政秀の死後、信長は独自の道を進みますが、政秀が遺した知恵と信頼の深さは、信長の内面に刻まれていたに違いありません。戦国武将としてはじめて天下統一を目指した織田信長の基盤を作ったのは、幼少期から傅役として側にいた平手政秀といえるでしょう。

平手政秀が自刃したのには織田信長の奇行を諌めるためといわれていますが、明確な史料は残されておらず、その真実は闇の中といえますが、信長の大名としての功績に影響を与えているのでしょう。

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歴ブロ・歴ぴよ
歴ブロ・歴ぴよ
歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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