インフレ解消を目指した松方財政と近代日本型資本主義の始まり
明治の始まりから頻発していた農民一揆や士族の反乱、自由民権運動の対応に追われていた政府は、早くも財政問題に直面します。
1873年に公布した地租改正により、全国的な租税徴収権を一手に握り、安定した地租収入を確保していました。また、新しい貨幣制度を確立して、国立銀行を各地に設立。兌換券の発行や殖産興業への資金供給を行っていました。
しかし、1876年の国立銀行条例改正で正貨との兌換義務が廃止されたため、多額の不換紙幣の発行が経済を混乱に落としいれました。
インフレの解消を目指した松方財政
この混乱に拍車をかけたのが、1877年の西南戦争でした。
士族の反乱史上最大の内戦を鎮圧するための軍資金として政府は不換紙幣を増発します。これによって深刻なインフレが起こり、貿易取引などで用いられる銀貨に対する紙幣の価値が下落しました。
また、明治初頭から続く輸入超過によって、金・銀の保有高は底をついており、政府の財政的基礎をゆるがす事態となっていました。このインフレで貨幣価値の下落と物価高騰が起こり、国民の生活は大打撃を受けてしまいます。
そこで政府は1880年、官営工場を払い下げる方針を決めて財政整理を行いました。不換紙幣を整理し、安定した通貨・信用制度を確立して資本主義育成の基礎を作ることにしました。
翌年に松方正義が大蔵卿に就任すると、国家財政の構造を大きく変える改革に乗り出します。これを松方財政と呼んでいます。
まずは軍事費以外の財政支出を徹底的に削減します。次に、消費税や地方税により増収を図ります。次にインフレを解消するために、徹底した緊縮財政により不換紙幣を回収して、金・銀の備蓄を進めました。
さらに、1882年に中央銀行として日本銀行を設置します。
日本銀行は国立銀行や企業の資金力を拡張して金利を低下させ、兌換銀行券※を発行して政府の金融機関として機能を果たすことを目的として設立しました。
兌換銀行券については『わかりやすい日本のお金の歴史のながれ』に詳しく書いてあります。
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その日本銀行は、銀貨と紙幣価値の差がほとんどなくなった1885年から銀兌換の銀行券を発行して銀本位の貨幣制度が整いました。
また、1884年から官営工場の払い下げが本格化して、軍事工場を除いた造船所や紡績工場や鉱山が三井・三菱・古河などの政商に払い下げられました。これらの政商は後に、鉱工業を基礎に持ち、財閥の発展へのきっかけとなりました。
農民の困窮による寄生地主制の成立
政府の厳しいデフレ対策は、深刻な不況を全国にもたらします。
増税に加えて、米・繭などの農作物の価格が著しく下落したため、農村部はかなりのダメージを負います。困窮した自作農たちは、先祖代々の土地を手放し、小作農に転落する一方で、地主への土地集中が大幅に進みます。
地主は土地を小作人に貸し付けて高率の現物小作料を取り立てた傍らで貸金業や酒屋などを営むと、それらで得た資金を土地の買い取りをしていました。
こうして地主は、農業や商工業から手を引き、小作料を徴収して生活をする寄生地主化が進みました。
一方で、土地を失った農民が貧民として年に流れ込む現象も起こります。
これにより都市部では、賃金労働者が増加する事になります。このような農村の深刻な状況が社会全体の動揺を呼び、自由民権運動の激化をもたらすことになります。
松方財政は近代的な銀行制度を作り、官営工場を払い下げによって民間資本の成長を促すことで資本主義を形成して、日本での産業革命を開始させました。しかし、その一方で全国に深刻な不況をもたらし、堕落した農家が小作農化し寄生地主制が成立する要因となりました。