近代史

なぜ大日本帝国は満州国を作ったのか??

歴ブロ

上記は満州国の国旗:Wikipediaより転載

1931年、日本が運営していた南満州鉄道の線路を何者かが爆破しました。

当時の日本陸軍の一組織で現地に駐留していた関東軍は、満州に拠点を置く中国の軍閥・東北軍の犯行と断定して即座に反撃を開始し、翌日には奉天を占領します。

これが、満州事変の発端である【柳条湖事件】です。

 

関東軍のこの事件に対する手際の良い軍事行動の裏には、線路を爆破したのが彼らの自作自演だった事でした。

日露戦争の勝利以降、日本は遼東半島・朝鮮、台湾などを手中に収め、次なる植民地を求めていました。その白羽の矢が立ったのが満州であり、関東軍は満州制圧の実行部隊でした。

そして、清朝の最後の皇帝・溥儀をトップに据えて翌年の3月1日に新国家【満州国】が誕生したのでした。

 

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満州国の概要

愛新覚羅溥儀:ウィキペディアより転載

日本人・漢人・朝鮮人・満州人・モンゴル人の5族が共存して国を動かすと言う五族協和と理想郷のような国を作り上げる王道楽土と言うスローガンの下、満州国が建国されました。

満州国には執政(皇帝)として愛新覚羅溥儀(上記の写真)が即位していましたが、その実態は大連にいた関東軍と南満州鉄道の強い影響下にあり、外からの評価は【日本の傀儡国家】と位置づけられていました。

政治体制は日本に寄せており、参議府(日本でいうところの枢密院)、行政として国務院、司法機関として法院、立法機関として立法院と、官吏などが悪さをしないかチェックする機関として監察院を置いて政治をしていた。

しかし、これらの機関トップはほとんどが日本人が独占していました。

満州国の文化

日本の傀儡国家だった満州国は、日本の文化が色濃かった。

しかし、元は中国だった事もあり、両国の文化が混ざり合い独特な物でした。

言語は、中国語と日本語で満州国の影響で協和語と言うものが誕生しました。よく胡散臭い中国人が使う【~デアルヨ】みたいなニュアンスの言葉がそれです。

 

満州国の設立で孤立する日本

表向きは独立国家と言う体裁を取ってた満州でしたが、実際は日本の植民地でした。

政策決定、軍事、交通などの国の運営は日本人が掌握し、初代総理大臣の鄭考胥在任中一度も閣議で発言しなかったと言います。

こうして、新たな植民地獲得となった日本でしたが、事態は思いもよらぬ方向へ転がっていきました。満州地域を奪われた中華民国が国際連盟に訴えた所、それが受け入れられて連盟から調査団が派遣されました。

調査の結果は、関東軍の行動は侵略であり建国は非合法だと結論付けた。日本は正当性を訴えたが、国際連盟の決議は賛成票42、反対1票(日本)と言う大差で満州国は世界から否定されました。

しかし、1937年にはイタリア、スペインが、38年にはドイツ満州国を承認し、さらに第二次世界大戦時の日本の同盟国や友好国や枢軸寄りの中立国、エルサルバトルやコスタリカなども後に承認国に入るようになった。

また、反対側のソビエト連邦も領土不可侵条約を約束したうえで、満州国内に公館を設置し、アメリカやイギリス国営企業や大企業の支店を構えるまでになり、人と物の交流が始まるようになりました。

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話を戻すと、この国際連盟の決定には満州地域の日本の権利を保証する妥協案も含まれていたようですが、納得がいかずその場で国連脱退を表明します。

こうして、満州の権利と支配は死守したが、日本は国際的に孤立をしてしまい太平洋戦争への道を突き進むことになります。満州事変が戦前日本の最大のターニングポイントと言われているのはこうした背景があったためです。

 

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なぜ日本は満州に執着したのか??

満州に固執したがために、世界を敵に回す結果となった日本はどうしてそこまでしたのでしょうか??

こうした背景には日本の国内事情がありました…

満州国は、南満州鉄道の利権対ロシアの防波堤としての役割などの重要な事情がありました。それと同時に本土の日本国内では爆発的な人口増加問題を抱えていました。

明治以降、日本の人口は増加し、昭和初期には6000万人以上。現在の約半分くらいなのですが、当時の社会基盤では到底養いきれないほど人口だったようです。

そこへ追い打ちをかけたのが1929年世界恐慌で、農村などでは一家心中が多発し、深刻な不況が蔓延しました。

その解決策が満州国への移民で、日本の国土の3倍~4倍あるこの地には、農作物栽培に適した肥沃な土地が広がり、労働力はいくらあっても足りないくらいでした。また、石炭や鉄鉱石が豊富で資源が乏しい日本にとっては非常に重要な場所でもありました。

そして、満州国建国から終戦までに、農家の次男などの食い扶持の足りない若者を中心に約200万人以上が大陸へ渡る事になります。日本は、人口問題と不況の打開策として満州国は手放せない切り札だったと言えます。

 

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満州国の実態(写真はイメージです)

満州国の人口は最盛期で約4400万人に上り、大部分は漢民族、さらに満州族、朝鮮人、日本人から構成されていました。

アジア地域は全体的に開発が遅れていましたが、その満州の都市部は実に先進的で、道路が舗装され、それに面して高層建築のホテルやデパートが軒を連ね、満州最大の歓楽街ハルビンは、【東方のモスクワ】と呼ばれたとそうです。

約200万人以上の移住と言うと、特定の外国に住む日本人としては、最大規模を誇っていました。そのため、現在でも活躍しているテレビで活躍している草野仁・板東英二さんなどが満州で生まれ育ち、多くの満州生まれ日本育ちの人を輩出しています。

 

しかし、その光景はあくまで一部の事で、日本人の移民も含む開拓民や農民の生活中心となっていたのは、冬は-30℃になる原野でした。インフラが未整備で、飲料水の確保の難しく、伝染病や栄養失調が問題となり、満州での乳児死亡率が日本の2倍になっていました。

さらに匪賊と呼ばれる、銃器や青龍刀で武装した山賊集団の脅威もありました。

彼らは、強盗や誘拐、抗日目的でテロ活動を行い、満州建国当初は年4回も襲撃にあった開拓民もあり、死活問題となっていました。

満州国は日本の生命線ではありましたが、現地の状況は良いとは云えず、多くの人々は過酷な生活を送っていたのでした。

 

満州国の経済を潤したのはアヘン

日本が敗戦すると、満州国も廃止されました。

13年と言う短い国家でしたが、その歴史を語るうえで避けて通れないのが、アヘンとの関りです。

満州国の周辺は、アヘンの原材料であるケシの世界的な産地であり、満州国の行政・経済を支配してた関東軍は、アヘンビジネスによって軍資金や国家の資金を荒稼ぎしていたのです。

その販売ルートが、満州国政府専売局がケシの栽培組織から原材料を入手し、アヘンに加工した後に満州国内で法外な値段で反ばすると言うもの。さらに、上海や香港を経由して中国内陸部で反ばするルートもあったそうです。

アヘン利益は膨大で、建国8年目のその利益は満州国の国家予算の6分の一に相当する1億2000万で現在の紙幣価値で約2000億円になるそうです。

もちろん当時もアヘンは国際条例違反の禁止薬物ですが、満州国ではアヘン中毒者が多かった事を理由に漸禁措置が取られていました。

急にアヘンを禁止すると中毒者たちが苦しむと言う理由で、アヘン販売は国が管理し、徐々に禁止していくと言う方針なのだが、アヘンビジネスを独占するいい口実に過ぎなかった。

まさに国家ぐるみで犯罪が行われていたのですが、終戦後の東京裁判によってアヘン関係で起訴した者は誰一人いなかったのが事実で、連合国だったイギリスも中国にアヘンをばらまいて莫大な利益を上げていた過去がありました。

こうしたイギリスの背景から、裁判の場でアヘンに注目が集まることを避けるのが目的だったとも言われています。

さまざまな利権や思惑が渦巻いて建国された満州国はこうして、国際社会から姿を消していくのでした。

 

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歴ブロ・歴ぴよ
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歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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