歴史コラム

もしも関ヶ原の戦いで西軍が勝っていたら?— 日本の歴史が激変する7つのシナリオ

歴ブロ

1600年に石田三成率いる西軍と徳川家康を中心とした東軍が激突した戦い「関ヶ原の戦い

結果、徳川家康が勝利し石田三成は処断されます。そして、1603年に家康は江戸幕府を開き、260年以上にわたる政権の礎を築きました。

歴史にif(もしも)はナンセンスと言いう人もいますが、もし関ヶ原の戦いで西軍が勝利していたら日本の歴史はどうなったのでしょうか?

そこで今回は「西軍勝利」のifシナリオを7つの視点から考察し、想像を膨らませていきます。

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大坂中心の豊臣政権が存続か?

関ヶ原で西軍が勝利していれば当然江戸幕府は誕生せず、豊臣家の権威は保たれたまま大坂が引き続き政治の中心となっていたでしょう。

しかし、豊臣政権が存続しても問題は西軍内の主導権争い。

毛利輝元、宇喜多秀家、石田三成らが勝利後の体制をどう構築するかが課題となり、「豊臣政権の復活」か、「合議制による政権運営」かで意見が分かれる可能性があります。

予想される影響

  • 豊臣秀頼が名目上の最高権力者となり、大老・奉行による合議制の継続
  • 政治の中心は引き続き大阪や京都になり、江戸は発展せず。
  • 武断派と文治派の対立が修復不可能な状態に。

西軍の勝利しても毛利輝元らを含む西軍の大物大名たちは今後の政権運営にノータッチとはいかないでしょう。中堅大名である石田三成に五大老級の大物たちをコントロールできるでしょうか?

そのため、内部の結束が長続きしない可能性は十分に考えられます。

「鎖国」がなく日本の開国が早まる可能性?

徳川家康も幕府設立直後は諸外国のとの貿易に積極的でした。しかし、国内のキリスト教の広がりに脅威を感じた家康は次第に諸外国との交易を制限していきます。こうして、江戸幕府は徐々に鎖国政策へと転換していくのですが、西軍が勝利したとなれば、豊臣政権を引き継ぎ貿易を重視した「開国路線」を進めていった可能性があります。

秀吉が生前進めていた南蛮貿易は引き続き継続され、西日本を中心にポルトガルやスペインとの関係が強化されたかもしれません。

もし開国が続いていたら?

  • 長崎・堺を中心に貿易都市が繁栄し、経済発展が加速
  • キリスト教の布教が広まり、西洋化のスピードが早まる
  • 明や朝鮮との関係も強化され、東アジアの中心国家へと成長

しかし、開国が進みすぎると西洋列強の干渉を招き「日本の植民地化」という新たなリスクも生じます。秀吉もスペインの植民地政策を危惧していたとの指摘もあります。

徳川家の存続した場合—東西日本の分裂国家に?

関ヶ原で西軍が勝利したとしても、徳川家康の処遇によって世の中の動きが変わる事でしょう。ここでは、西軍に敗れても家康が生きていたらと仮定してみます。

関ヶ原の戦いに敗れた家康は駿河や遠江に撤退し、関東の独立勢力として再起を図るのではないかと思います。伊達政宗や最上義光といった東北地方の諸大名が徳川家と連携し、豊臣政権に対抗する東国の連合体を形成する可能性もあります。

考えられる未来予想図

  • 西(豊臣政権) vs 東(徳川勢力)の冷戦状態が継続
  • 江戸ではなく西寄りの駿府や小田原が中心都市として発展
  • 最終的に第二の「関ヶ原」が発生し、東西統一戦争が勃発

西軍が勝利しても、東国(特に徳川家康)を完全に臣従させることは難しく、日本は東西に分裂していたかもしれません。そのため、関東の中心地が東側のにらみをきかせるために、駿府や小田原など西側に移っていたかもしれません。

新たな戦乱の時代に突入?

応仁の乱を発端とする戦国時代の幕開けは、豊臣秀吉によって天下が統一されました。ところが、秀吉死後は内部抗争による政権不安定さが露呈し、新たな権力争いが勃発します。

それを制したのが、徳川家康で江戸に幕府を開き260年の平和を実現することができました。

今回のテーマは西軍が勝ち豊臣政権が続いた場合。

豊臣政権は非常に不安定さが指摘されています。徳川家康が退場しても毛利氏・上杉氏・島津氏などの有力大名同士のパワーバランスが不安定で、新たな内乱の再燃も十分に考えられます。

石田三成は秀吉に劣らずの政治手腕は持っているものの、武断派のとの確執や各大名家達の大名たちの独立志向が強く、「第二の戦国時代」が始まっているかもしれません。徳川家康もいますしね。

想定されるIfシナリオ

  • 東北や九州などの勢力が台頭し、統一国家の維持が困難に
  • 豊臣家内部での主導権争いが激化し、最終的に分裂

江戸時代の「町人文化」は生まれなかった?

江戸幕府では武士中心の社会構造が確立され、独自の文化が発展しました。

しかし、豊臣政権が続くと武士だけでなく商人や職人の台頭もあり、商業国家として成長した可能性があります。

豊臣政権下の文化の変化

  • 大阪が経済の中心となり、商業中心の文化が繁栄
  • 武士の力が弱まり、早期に資本主義的な経済システムへ移行
  • 江戸歌舞伎や浮世絵などの文化は異なる形で発展

武士が支配する社会形態ではなく、大坂らしい町人文化が洗礼された文化が訪れたかもしれません。きっと明治期の文明開化が早期に訪れていたかもいせません。

朝鮮・明との関係が修復されなかった?

豊臣政権の最大の失敗とも言われる「朝鮮出兵」。その影響で日本と朝鮮や明との関係は悪化していました。史実では徳川政権によって和解がされ交易が続きましたが、豊臣政権が続くと外交問題は解決がなされず朝鮮や中国との対立が続いていた可能性があります。

とは言え、そのままにするわけにはいかないので豊臣政権が体制を立て直し積極的な外交政策を展開するかもしれないので、あらたな貿易体制が朝鮮や明と構築可能性も捨てられません。

もし西軍が関ヶ原で勝利していたら?

西軍が関ヶ原で勝利した場合、日本の歴史は大きく異なる方向へ進んでいたでしょう。
豊臣政権の存続により大阪や京都が政治・経済の中心として発展し、江戸は地方都市のままだったかもしれません。

ただし、内部の権力闘争や大名たちの独立志向によって、豊臣政権は安定した政権運営を維持するのが難しく、第二の戦国時代に突入する可能性もあります。徳川家康や東国の大名たちが再び力を蓄え、新たな統一戦争が勃発する可能性も否定できません。

豊臣政権が安定を保てた場合は海外との貿易が活発化し、日本の近代化が早まる一方で、西洋列強の影響力が拡大し、日本が植民地化されるリスクも生じたでしょう。

文化面では江戸時代に見られた武士中心の文化ではなく、大阪を中心とした商業都市文化が花開き、資本主義的な経済がより早く発展した可能性があります。町人文化も異なる形で成熟していたかもしれません。

最後に朝鮮や明との外交関係が改善されない場合、東アジアにおける日本の立場は不安定なものとなり、長期的な対立が続いていた可能性もあります。

このように西軍の勝利は一つの歴史の分岐点であり、その後の日本の姿は現在とは全く異なるものになっていたかもしれません。関ヶ原の戦いは単なるいくさではなく、日本の未来を大きく左右する運命の分かれ道だったと言えるでしょう。

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歴ブロ・歴ぴよ
歴ブロ・歴ぴよ
歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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