ナポレオン戦争とは?ヨーロッパ支配から没落までをわかりやすく解説
前回は、ナポレオンが総裁政府の混乱の中から登場し、第一統領、終身統領を経て、フランス皇帝に即位するまでを見てきました。
ナポレオンは、フランス革命後の混乱を収め、ナポレオン法典などによって革命の成果の一部を制度化した人物です。
しかし、ナポレオンの時代は、皇帝即位で終わったわけではありません。
第一帝政の成立後、ナポレオンはさらにヨーロッパ各地へ勢力を広げていきます。その一方で、フランスの支配に対する反発も強まり、やがてロシア遠征の失敗をきっかけに、没落へと向かっていきました。
今回は、ナポレオン戦争の展開と、ナポレオンが最終的に没落していく流れを見ていきます。
- ナポレオン戦争と没落までの年表
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1804年ナポレオンが皇帝に即位、第一帝政成立
ナポレオンがフランス皇帝ナポレオン1世となり、革命後のフランスは第一帝政へ
1805年第3回対仏大同盟フランスの拡大を警戒したイギリス・オーストリア・ロシアなどが、ナポレオンに対抗するために同盟を結ぶ
1805年トラファルガーの海戦フランス・スペイン連合艦隊がイギリス海軍に敗れ、ナポレオンはイギリス本土上陸が困難に
1805年アウステルリッツの戦い(三帝会戦)ナポレオンがオーストリア・ロシア連合軍を破り、陸上での強さを示した
1806年ライン同盟成立、神聖ローマ帝国消滅ナポレオンがドイツ諸邦を再編してライン同盟を作り、その影響で神聖ローマ帝国が消滅
1806年大陸封鎖令ナポレオンがイギリス商品をヨーロッパ大陸から締め出し、経済面からイギリスを苦しめようとする
1807年ティルジット条約ナポレオンがロシア・プロイセンと講和し、ヨーロッパ大陸での支配をさらに強めた
1812年ロシア遠征ナポレオンはロシアへ遠征しましたが、寒さや補給不足、撤退戦によって大きな損害を受けた
1813年ライプツィヒの戦いナポレオンがヨーロッパ諸国の連合軍に敗れ、フランスの大陸支配は大きく崩れた
1814年ナポレオン退位、エルバ島へフランス本国にも連合軍が迫り、ナポレオンは退位してエルバ島へ配流された
1815年百日天下、ワーテルローの戦いナポレオンはエルバ島を脱出して復帰しましたが、ワーテルローの戦いで連合軍に敗れる
1815年セントヘレナ島へ流されるワーテルロー敗北後、ナポレオンは大西洋上のセントヘレナ島へ流され、そこで生涯を終えた
ナポレオン戦争とは?
ナポレオン戦争とは、ナポレオン時代のフランスと、イギリス・オーストリア・ロシア・プロイセンなどのヨーロッパ諸国との間で続いた一連の戦争のことです。
フランス革命後の戦争は、まずフランス革命戦争として始まりました。その中でナポレオンが台頭し、やがてフランスの中心人物となると、戦争はナポレオンのヨーロッパ支配をめぐる戦いへと変わっていきます。一般に、1803年から1815年までの戦争をナポレオン戦争と呼んでいます。
第一帝政と第3回対仏大同盟
フランス革命で王政が倒されて共和政が成立、その後に登場したナポレオンがフランス皇帝に即位して第一帝政に移行していますが、ナポレオンは単に古い王政を復活させたわけではありませんでした。ナポレオン法典や能力主義など、革命によって生まれた新しい仕組みを制度として整えています。
一方で、ヨーロッパ諸国から見ると、ナポレオンのフランスは非常に危険な存在でした。フランス革命の影響が自国に広がることも警戒されましたし、ナポレオンが軍事力によって勢力を広げることも大きな脅威だったからです。
そのため、イギリス、オーストリア、ロシアなどは、フランスに対抗するために第3回対仏大同盟を結びます。
対仏大同盟はフランス革命戦争期からナポレオン戦争期にかけて断続的に結成され、一般に第1回から第7回まで数えられます。基本的に「フランス対ヨーロッパ諸国」という構図で見ると理解しやすいです。なお、対仏大同盟の参加国や組み合わせは時期によって変化します。
トラファルガーの海戦とアウステルリッツの戦い
第3回対仏大同盟が結ばれる中、ナポレオン戦争の転機となったのが、1805年に起きた二つの戦いでした。
その一つは、トラファルガーの海戦です。ネルソン提督指揮下のイギリス海軍がフランス・スペインの連合艦隊を破っています。
トラファルガーの海戦でイギリス海軍はネルソン提督を失いますが、戦争には勝利。フランスの海軍力はかなり削られました。
フランス・スペイン連合艦隊の敗北によって、ナポレオンはイギリス本土へ上陸することが難しくなります。ナポレオンは陸上では圧倒的な強さを見せましたが、海ではイギリスを倒すことができなかったのです。
一方、同じ1805年のアウステルリッツの戦いでは、ナポレオンがオーストリア・ロシア連合軍を破ります。

アウステルリッツの戦いは、フランス皇帝ナポレオン、オーストリア皇帝、ロシア皇帝が関係したため、「三帝会戦」とも呼ばれます。
1805年の二つの戦いが象徴しているように、ナポレオンは陸上で大きな強さを示した一方で、海ではイギリス海軍を簡単には破ることができないでいました。
皇帝になる以前のエジプト遠征で発生したナイルの海戦でフランス艦隊がイギリス海軍に敗れたことで、ナポレオン軍は本国との連絡や補給に苦しんだ経験をしています。この苦い経験があったうえでの1805年のトラファルガーの海戦の敗戦は、フランスがイギリスから制海権を奪うことの難しさを決定的に示すことになりました。
ナポレオンは、軍事的にイギリス本土を攻略することが難しいと考え、経済面からイギリスを締めつけようとしたのです。これがのちの大陸封鎖令につながっていきます。
ライン同盟と神聖ローマ帝国の消滅
アウステルリッツの勝利後、ナポレオンはヨーロッパ大陸でさらに影響力を強めていきました。
1806年、ナポレオンはドイツ西部~南部の16諸邦を再編し、ライン同盟を成立させます。これによって、長く続いていた神聖ローマ帝国は名実ともに消滅します。
※神聖ローマ帝国は962年のオットー1世の戴冠以降長く続いていたドイツ方面にあった国です。ナポレオン登場以前の段階で既に「神聖ローマ帝国の死亡証明書」とも呼ばれる条約(三十年戦争後に結ばれたウェストファリア条約)を結んでおり、領邦が主権国家並みの力を持つ国になっていました。
ナポレオンは、こうしたドイツ方面の政治秩序を大きく変え、自分の影響下に置こうとしました。
さらに1807年には、ティルジット条約によってロシアやプロイセンと講和し、ナポレオンの勢力は最盛期へ向かっていました。フランス本国だけでなく、同盟国や従属国を通じて、ナポレオンの影響はヨーロッパ各地に及ぶようになります。
しかし、支配が広がれば広がるほど、それに対する反発も強まっていきました。
大陸封鎖令とヨーロッパの反発
ナポレオンにとって最大の敵の一つがイギリスです。海軍力でイギリスを倒すことが難しいと考えたナポレオンは、大陸封鎖令を出すことにします。
大陸封鎖令とは、ヨーロッパ大陸からイギリス商品を締め出し、イギリス経済に打撃を与えようとする政策でした。経済政策であると同時に、イギリスを締め上げる戦争政策でもありました。
しかし、この政策はうまくいきませんでした。
ヨーロッパの多くの地域は、イギリスとの貿易に関係しており、イギリス商品を締め出すことは、イギリスだけでなく大陸側の国々にも大きな負担を与えました。
当時すでに産業革命が始まり、のちに「世界の工場」と呼ばれるほど工業力を高めていくイギリスに対し、ナポレオンは軍事力ではなく経済面から打撃を与えようとしました。
また、すべての地域で大陸封鎖令を徹底することは困難でした。

※以前書いた『ピョートル1世以降の混乱~ナポレオン戦争【ロシア史】』の記事で描いたイラストなのでロシアへの影響を主に示していますが、実際にはイギリスとの貿易に関係していたヨーロッパ各国にも負担が及んでいます。
ナポレオンはイギリスを苦しめようとしましたが、その政策はヨーロッパ各地の不満を高める結果にもなったのです。
ここに、ナポレオン支配の限界が見えてきます。
プロイセン改革と民族意識の高まり
ナポレオンに敗れた国々は、ただ押さえつけられただけではありませんでした。その代表例がプロイセンです。
プロイセンはナポレオンに敗北した後、国を立て直すための改革を進めました。シュタインやハルデンベルクらによって、農奴制廃止や行政改革などが行われます。
ナポレオンの支配が、ヨーロッパ各地に改革や民族意識の高まりを促しました。
身分制の見直し、法制度の整備、能力主義の広がりなどフランス革命の成果が敗北したヨーロッパの国にも広げた面もあります。同時に、フランスによる支配が各地の人々に「自分たちの国を守る」という意識も生み出しました。
つまり、ナポレオンの時代には二つの面があったといえるでしょう。
- 革命の成果がヨーロッパに広がった
- フランス支配への反発が強まり、民族意識が高まった
これらはナポレオン戦争を理解するうえでとても重要なポイントで、のちにヨーロッパに限らず世界にも影響を与えることになりました。
ロシア遠征の失敗
ナポレオン没落の大きな転換点となったのが、1812年のロシア遠征です。
ロシアは、ティルジット条約によって一時的にナポレオンと講和していましたが、大陸封鎖令はロシアにとっても大きな負担となっていました。イギリスとの貿易を制限されることは、ロシア経済にも影響を与えたからです。
やがてロシアとナポレオンの関係は悪化し、ナポレオンは大軍を率いてロシアへ遠征します。
ナポレオン軍はモスクワまで進みました。
しかし、ロシア軍は正面から決戦するのではなく、撤退しながら物資を焼き払う焦土作戦をとりました。その結果、ナポレオン軍は深くロシア領内へ入り込んだものの、十分な補給を受けることが難しくなります。
6月に始まったロシア遠征でナポレオン軍は9月にはモスクワへ入りました。ナポレオンは、ロシア側が講和に応じることを期待しましたが、ロシア側は応じません。
それまでの焦土作戦には、ナポレオン軍を消耗させる時間稼ぎの意味もありましたが、その上で、さらに講和をめぐるやり取りも進展せず、ナポレオンはモスクワで時間を失っていきます。

地理的にロシアの冬は早いため、10月には退却を決定するも、すでに補給不足となっていた軍の退却は簡単ではありませんでした。ロシア軍も追撃したことで、冬の寒さ、飢え、病気、撤退戦が重なってナポレオン軍が壊滅的な損害を受けています。
結局、ロシア遠征は失敗。ナポレオンの無敵のイメージを大きく崩しました。
それまでナポレオンに従っていた国々や敗北を重ねていた国々も、再び立ち上がるきっかけを得たのです。
ライプツィヒの戦いとナポレオンの退位
ロシア遠征の失敗後、ヨーロッパ諸国は再びナポレオンに対抗します。
1813年、ナポレオンはドイツ東部、当時のザクセン王国領で行われたライプツィヒの戦いで敗れました。

多くの国がナポレオンに対抗して戦ったため、「諸国民の戦い」とも呼ばれるライプツィヒでの敗北によってナポレオンのヨーロッパ支配は大きく崩れました。翌年にはライプツィヒには参戦していなかった軍も加わってフランス国境が固められ、大包囲網が築かれました。
こうして1814年、ナポレオンは退位に追い込まれてエルバ島へ流され、フランスではブルボン家のルイ18世が王位につきました。再びブルボン家の王が復位することになったのです。
ただし、革命前の状態に完全に戻ったわけではありません。フランス革命とナポレオンの時代を経て、ヨーロッパ社会はすでに大きく変化していました。
百日天下とワーテルローの戦い
エルバ島へ流されたナポレオンでしたが、そのまま歴史の表舞台から退いたわけではありません。1815年、ナポレオンはエルバ島を脱出し、フランスへ戻ります。ナポレオンの帰還により、ヨーロッパ諸国は再び警戒を強めました。

そして1815年、ワーテルローの戦いが起こります。
この戦いで、ナポレオンはイギリス・プロイセンなどの連合軍に敗れました。ワーテルローの敗北によって、ナポレオンの復活は完全に終わります。このナポレオンがエルバ島から戻り、再び退位するまでの時期は百日天下と呼ばれます。
その後、ナポレオンは大西洋上のセントヘレナ島へ流され、そこで生涯を終えています。
ナポレオンの没落後、ヨーロッパ諸国は戦後秩序を作るためにウィーン会議を開きました。ここから、ヨーロッパはウィーン体制の時代へと進んでいくことになるのです。



