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普仏戦争の背景とは?普墺戦争後のフランスとプロイセンの対立

歴ブロ

1866年の普墺戦争に勝利したプロイセンは、ドイツ統一の主導権を握りました。

オーストリアはドイツ統一の枠組みから外れ、翌1867年にはプロイセンを中心とする北ドイツ連邦が成立します。

※この時点ではバイエルンやヴュルテンベルクなどの南ドイツ諸国は加わっておらず、ドイツ統一は、まだ完成していません。

その後、プロイセンとフランスの対立が深まり、1870年に普仏戦争が始まりました。

普仏戦争の直接のきっかけは、スペイン王位継承問題エムス電報事件です。スペイン王位継承問題をめぐる外交交渉のなかで、フランス政府がプロイセン王に将来の保証を求め、その会談報告がビスマルクによって編集・公表されたことで、エムス電報事件へ発展しました。

れきぶろ
れきぶろ

エムス電報事件によって、行き詰まっていた外交交渉が両国の威信をめぐる問題として表面化した感じですね。

しかし、これらの事件だけで突然戦争が始まったわけではありません。

その背景には、普墺戦争後に急速に力を伸ばしたプロイセンと、その台頭を警戒するフランスとの対立がありました。

今回は、普墺戦争後のヨーロッパで、両国の関係が悪化していった理由を見ていきます。

普仏戦争背景フローチャート
普仏戦争背景フローチャート
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普仏戦争は突然始まったわけではない

普仏戦争とは、1870年から1871年にかけて、プロイセンを中心とするドイツ諸国とフランスとの間で起きた戦争です。

プロイセンとフランスの関係が普墺戦争の終わった1866年ごろから悪化していた中で、「スペイン王位継承問題」と「エムス電報事件」が起こって開戦しています。

当時、スペイン国王の候補にプロイセン王家と同じホーエンツォレルン家の人物が浮上し、フランスが強く反発しました。その後、プロイセン国王とフランス大使の交渉内容を伝えた電報を、プロイセン首相ビスマルクが短く編集して公表したことで、両国の対立はさらに深まります。

まずは、普墺戦争後にドイツ地方の力関係がどのように変わっていたのかを見ていきましょう。

普墺戦争後に成立した北ドイツ連邦

普墺戦争に勝利したプロイセンは、オーストリアをドイツ統一の枠組みから外していました。さらに、プロイセンはハノーファー王国やヘッセン選帝侯国などを併合し、領土と人口を増やします。

1867年には、プロイセンとマイン川より北側のドイツ諸国によって、北ドイツ連邦が成立しました。プロイセン国王を元首とし、ビスマルクが連邦宰相を務める連邦国家でした。

外交や軍事でも、プロイセンが中心的な役割を握っています。

一方、南ドイツにあったバイエルン、ヴュルテンベルク、バーデン、ヘッセン大公国南部などは、北ドイツ連邦に加わりませんでした。

普墺戦争によってプロイセンは統一の主導権を握ることにはなっていますが、まだまだドイツ全体が一つの国になったわけではなかったのです。

フランスはなぜプロイセンを警戒したのか?

当時のフランスでは、ナポレオン3世による第二帝政が続いていました。

ナポレオン3世
ナポレオン3世

フランスはクリミア戦争に参加し、1859年にはサルデーニャ王国を支援してオーストリアと戦うなど、ヨーロッパ政治に強い影響力を持つ国でした。

そんなフランスの東側に、普墺戦争によってプロイセンを中心とする北ドイツ連邦が誕生します。成立したばかりの頃は南ドイツは含まれていませんでしたが、その南側の諸国まで加われば、フランスと国境を接する地域に、人口・軍事力・経済力を持つ統一国家が成立することになります。

プロイセンを中心とする大国が成立すれば、ヨーロッパにおけるフランスの立場や、安全保障にも大きな影響が出ると考えたわけですね。

れきぶろ
れきぶろ

フランスは伝統的に、自国の東側に強力な勢力が成立することを警戒しており、たびたび当時のドイツにあたる地域で勢力が拡大しないよう動いていました。

16世紀ごろのドイツ(当時は神聖ローマ帝国)とフランスの戦い
17世紀の両者の戦い『三十年戦争』

ナポレオン3世は民族自決やイタリア統一を支持したこともあり、民族による国家統一そのものを一貫して否定していたわけではありませんが、フランスのすぐ東側に強力な統一ドイツが生まれるとなれば、話は別だったのです。

普墺戦争後、フランスは成果を得られなかった

普墺戦争が始まったとき、フランスはプロイセンとオーストリアの戦いに直接加わりませんでした。

ナポレオン3世には、戦争が長引けばフランスが講和を仲介し、その見返りとしてライン川方面などで何らかの利益を得られるという計算もあったと考えられています。

しかし、プロイセンはオーストリアを短期間で破りました。

フランスが本格的に介入する前に、ドイツ地方の力関係が変わってしまったのです。

プロイセンは領土と影響力を拡大しましたが、フランスはそれに見合う成果を得られませんでした。フランス政府や世論の一部では、プロイセンだけが強くなり、フランスの立場が相対的に低下したという不満が残ります。

なお、こうした不満の背景には、当時のヨーロッパ外交で重視されていた勢力均衡の考え方がありました。

勢力均衡とは?

一つの国だけが強くなりすぎないように、国同士の力関係を保とうとする考え方です。当時は、ある国が領土や勢力を拡大すると、ほかの列強も補償を求めるなどして、力の偏りを抑えようとしました。

ナポレオン戦争後のウィーン体制も、この勢力均衡を重視して築かれました。

そのため、プロイセンの急速な拡大は、フランスにとって単なる領土問題ではなく、それまでの勢力均衡を崩す動きとして受け止められました。

ルクセンブルク危機で対立が表面化

1867年には、ルクセンブルクをめぐってフランスとプロイセンの対立が表面化します。

普墺戦争後、プロイセンが勢力を拡大した一方で、フランスは戦後に目立った成果を得られていませんでした。そのためナポレオン3世は、フランスの影響力低下を補う外交上の成果を求めていました。

そこで白羽の矢が立ったのがルクセンブルクだったのです。

当時のルクセンブルクは独立した大公国でしたが、オランダ国王ウィレム3世がルクセンブルク大公を兼ねていました。同時に、ルクセンブルクは、ドイツ関税同盟に参加し、ルクセンブルク市の要塞にはプロイセン軍が駐留していました。

れきぴよ(右)
れきぴよ(右)

オランダと言えば、江戸幕府と交流があったことで知られています。

ウィレム3世の時代には、家定から家茂へ将軍が代わるころの日本と、日蘭修好通商条約が締結。ルクセンブルク危機はこの条約の9年後にあたります。

そこでナポレオン3世は、ウィレム3世に金銭を支払い、ルクセンブルクに対する大公としての権利をフランスへ譲らせようとします。

しかし、この計画が明らかになると、プロイセンやドイツ諸国で強い反発が起こりました。

最終的には1867年のロンドン条約によってルクセンブルクの中立が定められ、プロイセン軍も撤退します。フランスへの譲渡は実現しませんでした。

ルクセンブルク危機は戦争には発展しませんでしたが、普墺戦争後のフランスとプロイセンが、すでに対立関係に入りつつあったことを示す出来事です。

南ドイツ諸国は独立していたが…

普墺戦争後も、南ドイツ諸国は独立を維持していました。

宗教や歴史的な違いもあり、南ドイツにはプロイセン主導の統一に反発する人々もいたため、南ドイツ諸国がすぐに北ドイツ連邦へ加わることはありませんでした。

ですが、南ドイツ諸国はプロイセンと無関係だったわけでもありません。経済面ではドイツ関税同盟を通じて北ドイツと結びついていました。

さらに普墺戦争後、プロイセンはバイエルン、ヴュルテンベルク、バーデン、ヘッセン大公国と軍事協定を結びます。外国との戦争が起きた場合、南ドイツ諸国はプロイセンと共同して戦い、その軍隊をプロイセン国王の指揮下に置くことが定められました。

これらの協定は当初、秘密にされていましたが、1867年に公表されています。

南ドイツ諸国は政治的には独立していたものの、軍事面ではすでにプロイセンとの結びつきを強めていたのです。

第二帝政の事情も対立に影響した

1860年代後半のフランス第二帝政では、議会や言論に対する統制が緩められ、政治の自由化が進んでいました。

一方で、メキシコ出兵の失敗やプロイセンの台頭を受け、ナポレオン3世の外交に対する批判も起こっていたことで、フランス政府は議会や新聞、世論を以前ほど無視できなくなっています。

そのため、プロイセンとの外交問題で一方的に譲歩したと受け取られれば、政権の威信が傷つく可能性がありました。

国内政治の変化は、ナポレオン3世に戦争を決断させた直接の原因ではありませんが、議会や世論の影響が強まるなかで、プロイセンとの外交問題で一方的に譲歩することが以前より難しくなっていたのは確かです。

ナポレオン3世とフランス第二帝政については、こちらの記事で詳しく紹介しています。

普仏戦争前のフランスとプロイセン

普墺戦争後、プロイセンは北ドイツ連邦を成立させ、ドイツ統一に大きく近づきました。

一方のフランスは、プロイセンの急速な台頭によって、ヨーロッパにおける自国の立場が低下することを警戒します。

ここまでの流れを簡単に振り返ると、次のようになります。

  1. プロイセンは普墺戦争に勝利し、北ドイツ連邦を成立させた
  2. フランスは、プロイセンを中心とするドイツ統一が進むことを警戒した
  3. 1867年のルクセンブルク危機によって、両国の対立が表面化した
  4. 南ドイツ諸国は北ドイツ連邦に加わっていなかったが、軍事面ではプロイセンとの結びつきを強めていた
  5. 第二帝政のフランスでは、外交上の譲歩が政権の威信に関わるようになっていた

この段階で、フランスとプロイセンの戦争が避けられないと決まっていたわけではありません。ルクセンブルク危機も、各国の外交によって戦争を回避しています。

しかし、プロイセンが中心となってドイツ統一を進めるほど、ヨーロッパの力関係が変わることを警戒するフランスとの対立は深まっていきました。

その緊張が続くなか、1870年にスペイン王位継承問題が起こります。

スペイン国王の候補に、プロイセン王家と同じホーエンツォレルン家の人物が浮上したことで、フランスとプロイセンは新たな外交問題を抱えることになりました。

この問題をきっかけに両国の対立はさらに激しくなり、やがて普仏戦争の開戦へとつながっていきます。

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歴ブロ・歴ぴよ
歴ブロ・歴ぴよ
歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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