ドイツ

1871年に成立したドイツ帝国とは?国家の仕組みとビスマルクの国内政策をわかりやすく解説

歴ブロ

1871年1月、普仏戦争で優勢に立ったプロイセンを中心に、ドイツ帝国が成立しました。これによって、すでに成立していた北ドイツ連邦にバイエルンなど南ドイツ諸邦が加わり、ドイツ統一が実現します。

ドイツ帝国は、バイエルン王国やザクセン王国、ヴュルテンベルク王国などの諸邦を残したまま成立した連邦国家でした。

また、帝国には皇帝がいる一方、選挙で選ばれる帝国議会も置かれています。

こうした諸邦の独自性を残した国家の仕組みには、神聖ローマ帝国以来のドイツの歴史も関係していました。

今回は、1871年に成立したドイツ帝国がどのような国家だったのか、ビスマルクの国内政策や工業化とあわせて見ていきます。

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ドイツ帝国はどんな国だったのか

1871年に成立したドイツ帝国は、プロイセンを中心としながら、バイエルンやザクセンなどの諸邦がそれぞれの政府を持つ連邦国家でした。

こうした仕組みになった背景には、ドイツ地域が長いあいだ多くの領邦に分かれてきた歴史があります。

まずは、神聖ローマ帝国の時代から簡単に振り返ってみましょう。

神聖ローマ帝国以来の領邦国家の伝統

中世から近世にかけてのドイツ地域には、神聖ローマ皇帝のもとに多くの諸侯や都市が存在していました。時代が進むにつれて、それぞれの領邦は独自の行政や軍隊を整え、政治的な自立性を強めていきます。

16世紀に宗教改革が始まると、宗教面でも地域ごとの違いが大きくなりました。

北部や中部の多くではプロテスタントが広がる一方、バイエルンなど南部にはカトリックの強い地域もありました。宗教改革や三十年戦争を経て、領邦ごとに政治や宗教の異なる伝統が形づくられていきます。

1806年に神聖ローマ帝国が消滅した後も、バイエルンやザクセン、ヴュルテンベルクなどは独自の国家として存続しました。

1815年に成立したドイツ連邦も、こうした諸国によって構成されています。さらに普墺戦争後の1867年には、プロイセンを中心とする北ドイツ連邦が成立しました。

その後も各国の政治的な伝統は残っており、1871年に成立したドイツ帝国でも諸邦を残した連邦国家となっています。

※ドイツ連邦については、下の記事で解説しています。

プロイセンを中心とした連邦国家

ドイツ帝国は、プロイセンをはじめとする25の邦から構成されていました。

それぞれの邦には政府が置かれ、教育や行政など一定の分野では独自の権限も残されています。バイエルンなど一部の邦には、軍事や郵便などで特別な権限が認められていたのですが…

そのなかでも、領土・人口ともに最大であり、ドイツ統一を進めるうえでも中心的な役割を果たしたプロイセンが帝国内部で大きな影響力を持っていました。

プロイセン国王のヴィルヘルム1世がドイツ皇帝となっただけでなく、帝国宰相となったビスマルクもプロイセン首相を兼任しています。

皇帝・宰相・議会はどんな関係だったのか

帝国には、各邦政府の代表からなる連邦参議院(ブンデスラート)と、国民の選挙によって議員が選ばれる帝国議会(ライヒスターク)が置かれました。

帝国議会の議員は、25歳以上の男性による普通選挙で選ばれ、法律や予算の審議に参加します。このように、ドイツ帝国には国民の選挙によって構成される議会が存在していました。

一方で、帝国宰相を選ぶのは帝国議会ではありません。

宰相は皇帝によって任命され、ビスマルクは皇帝のもとで帝国政府を率いました。

つまりドイツ帝国では選挙を通じて議員が選ばれていましたが、宰相は議会の多数派を基盤として政権をつくる仕組みにはなっていませんでした。

皇帝と宰相が強い権限を持ちながら、諸邦を代表する連邦参議院と、国民の選挙による帝国議会も政治に参加していたことが、ドイツ帝国の政治制度の特徴となっています。

ビスマルクは新しい帝国をどうまとめたのか

1871年にドイツ帝国が成立しても、国内には地域や宗教、政治思想の違いが残っていました。

こうした人々を一つの帝国としてまとめていくことは、帝国宰相となったビスマルクにとって大きな課題でした。

カトリック勢力との文化闘争

課題の一つが、カトリック教会との関係です。

プロイセンはプロテスタント色の強い国家でしたが、西部のラインラントなどには多くのカトリック住民が暮らしていました。さらに1871年のドイツ帝国成立によって、北ドイツ連邦には加わっていなかったバイエルンなど、カトリック人口の多い南ドイツ諸邦も帝国に加わります。

こうした人々を背景に勢力を伸ばしたのが中央党です。

一方、ビスマルクはカトリック教会やローマ教皇の政治的な影響力を警戒し、学校教育への国家の監督強化や聖職者への統制、イエズス会の活動禁止などを進めました。

これが文化闘争(Kulturkampf)です。

しかし、中央党の支持は衰えず、ビスマルクも1870年代末から政策を修正していきました。

文化闘争は単なる宗教上の対立ではなく、新しく成立したドイツ帝国が、国内で大きな勢力を持つカトリック教会や中央党とどう向き合うのかという問題でもあります。

社会主義への弾圧と社会保険

ビスマルクが警戒したもう一つの動きが、工業化とともに成長していた社会主義運動です。都市で働く労働者が増えるなか、社会主義を支持する人々も増加していきました。

そこでビスマルクは、1878年に社会主義者鎮圧法を成立させ、社会主義者の組織や集会、出版活動などを取り締まります。

その一方で、労働者を国家の側へ引きつけるため、1883年の疾病保険、1884年の災害保険、1889年の養老・廃疾保険などの社会保険制度も導入されました。

つまりビスマルクは、社会主義運動を抑えながら労働者の生活を国家が支えることで、ドイツ帝国の安定を目指したのです。

工業化がもたらした社会の変化

ビスマルクが社会主義運動を警戒するようになった背景には、ドイツ社会の急速な変化がありました。

ドイツの工業化は、1871年の統一以前から進んでいました。1834年にはプロイセン主導でドイツ関税同盟が成立しています。

オーストリアが参加しなかった関税同盟によって、ドイツ諸邦の経済的な結びつきが強まり、プロイセンの影響力は次第に大きくなっていきました。さらに鉄道網の拡大によって、石炭や鉄鋼などの産業も発展します。

こうした経済的一体化を背景にドイツ帝国が成立すると、19世紀後半には重工業に加えて化学・電気・機械などの産業も発達し、ドイツは第二次産業革命を代表する工業国の一つへ成長しました。

また、人口増加とともに都市化も進み、工場で働く労働者も増えています。こうした社会の変化が、社会主義運動の成長やビスマルクによる社会政策にもつながっていきました。

大国となったドイツはヨーロッパをどう変えたのか

1871年のドイツ帝国成立は、ヨーロッパの勢力関係にも大きな変化をもたらしました。

それまで多くの諸邦に分かれていた中央ヨーロッパに、人口4000万人を超える統一国家が誕生したからです。さらにドイツは工業力や人口を伸ばし、ヨーロッパ有数の大国へ成長していきました。

ビスマルクは統一後、領土拡大よりも新しい帝国の安全を確保することを重視します。

普仏戦争でアルザス=ロレーヌを失ったフランスを警戒しながら、オーストリア=ハンガリーやロシアとの関係を調整し、ドイツが複数の大国と同時に対立する状況を避けようとしました。

こうした外交方針は、1890年にビスマルクが失脚すると変化していきます。ヴィルヘルム2世の時代には海外進出や海軍拡張を進める世界政策が展開され、とくにイギリスとの競争も激化しました。

※ビスマルク失脚後のドイツ外交の変化や、ヴィルヘルム2世の外交方針については、下の記事でも解説しています。

その後のヨーロッパでは、列強間の外交関係や植民地競争、バルカン半島をめぐる対立など、さまざまな要因が重なり、第一次世界大戦へとつながっていきます。

そのなかで、中央ヨーロッパに強力なドイツ帝国が登場したことは、19世紀後半から20世紀初頭のヨーロッパの勢力関係を大きく変える出来事となったのです。

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歴ブロ・歴ぴよ
歴ブロ・歴ぴよ
歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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