ヨーロッパ

1848年革命とは?諸国民の春とメッテルニヒ失脚をわかりやすく解説

歴ブロ

19世紀前半のヨーロッパでは、フランス革命ナポレオン戦争の影響を受けて、自由主義ナショナリズムが広がっていきました。

そのナポレオン戦争後のヨーロッパでは、ウィーン体制によって、王政復古や正統主義を重視しする保守的な秩序が作られました。革命や民族運動の広がりを警戒し、ヨーロッパを再び安定させようとしたのです。

その一方で、七月革命二月革命ギリシア独立戦争イギリスの自由主義的改革などを見ても分かるように、19世紀前半のヨーロッパでは、古い体制に対する不満が少しずつ表面化していきます。それが1848年革命です。

1848年革命は、フランスだけでなく、オーストリア、ドイツ、イタリア、ハンガリー、チェコなど、ヨーロッパ各地に広がった革命運動でした。そのため、「諸国民の春」とも呼ばれます。

今回は、1848年革命がなぜ起こったのか、どの地域に広がったのか、そしてなぜ多くが失敗に終わったのかを見ていきます。

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1848年革命とは何か/諸国民の春

1848年革命とは、1848年にヨーロッパ各地で起こった革命運動のことです。「諸国民の春」とも呼ばれます。

この革命の中心になった思想は、自由主義とナショナリズムでした。

Q
自由主義とナショナリズムとは?
  • 自由主義
    • 憲法、議会、言論の自由、参政権の拡大などを求める考え方のこと。
    • 国王や一部の特権階級だけが政治を動かすのではなく、より広い人々が政治に関わることを求めていった。
  • ナショナリズム
    • 共通の言語や文化を持つ人々が、民族としてのまとまりを意識する動きのこと。
    • ドイツ人、イタリア人、ハンガリー人、チェコ人などが、自分たちの政治的な権利や国家のあり方を強く意識するようになった。

1848年革命は、こうした自由主義とナショナリズムがウィーン体制のもとで抑え込まれていた不満と結びつき、各地で一気に表面化した動きだったといえます。

フランス二月革命が大きなきっかけになった

1848年革命がヨーロッパ各地に広がる大きなきっかけになったのが、フランス二月革命です。

七月革命と二月革命の影響
『エリア別だから流れがつながる世界史』(朝日新聞出版)をもとに作成

1848年、フランスでは七月王政が倒れ、第二共和政が成立しました。男子普通選挙も導入され、王政から共和政へと政治体制が大きく変わります。

フランス革命以来、フランスの政変はヨーロッパ全体に大きな影響を与えてきました。1789年のフランス革命、1830年の七月革命、そして1848年の二月革命…すべて周辺諸国の自由主義者や民族運動に強い刺激を与えています。

フランスで王政が倒れたことは、ヨーロッパ各地の人々に「自分たちの地域でも変革を起こせるのではないか」と考えさせるきっかけになってきたのです。

各地にはすでに政治への不満、民族問題、経済不安が蓄積していたため、二月革命はそうした不満に火をつける役割を果たしました。

なぜ1848年革命は起こったのか

1848年革命の背景には、ナポレオン戦争後の秩序への不満、自由主義とナショナリズムの広がり、そして1840年代の経済不安がありました。

実際にどんな背景だったのかを詳しく見ていきましょう。

ウィーン体制への不満

ナポレオン戦争後のヨーロッパでは、ウィーン体制によって保守的な秩序が作られました。

この体制は、戦争で大きく揺れたヨーロッパに安定を取り戻す役割を果たします。その一方で、革命や民族運動を警戒し、自由主義やナショナリズムの広がりを抑え込もうとする性格も持っていました。

ですが、自由主義やナショナリズムは完全に消えたわけではありません。

19世紀前半になると、都市の中産層や知識人の間では、憲法、議会、言論の自由、参政権の拡大を求める声が強まり、自由主義を求める動きが各地で強まります。また、ドイツやイタリアのように統一国家が存在しない地域では、民族としてのまとまりを求める意識も高まっていきました(後述)

1848革命背景
図:フランス革命・ナポレオン戦争の影響で広がった自由主義・ナショナリズムをウィーン体制が抑え込み、不満が1848年革命へつながった

つまり、ウィーン体制は一時的にヨーロッパを安定させた反面、自由や民族の権利を求める人々の不満をため込むことにもなったのです。

こうしたウィーン体制に対する反発が各地で表面化していきます。

経済不安も革命を後押しした

1848年革命の背景には、政治思想だけでなく生活不安もありました。

1840年代のヨーロッパでは、不況や食糧危機が起こります。農作物の不作や食料価格の上昇は、農民や都市の労働者の生活を直撃しました。都市では失業や賃金低下への不満も強まっていきます。こうして、中産層や知識人だけでなく、労働者や農民も既存の体制に不満を抱くようになりました。

1848年革命は、思想だけで起こったのではなく、政治的不満、民族問題、生活不安が重なって広がった革命運動だったといえます。

ヨーロッパ各地に広がった1848年革命

1848年革命の中でも、特に象徴的だったのがオーストリア帝国の動揺です。

ナポレオン戦争後の社会秩序は、このオーストリア...その中でも外相のメッテルニヒが中心となって作り上げていました。

メッテルニヒにとって、憲法や議会、言論の自由を求める自由主義は、王政や保守秩序を揺るがす危険な動きでしかありません。民族としてのまとまりや自治を求めるナショナリズムも多民族国家であるオーストリア帝国にとって大きな脅威と考えました。

実際にオーストリアには、ハンガリー人、チェコ人、イタリア人など多民族が暮らしており、もし各民族がそれぞれで自治や独立を求めれば、帝国そのものが揺らぎかねないと考えていたのです。

多民族国家オーストリアの動揺

その懸念は1848年3月に現実のものとなります。

ハンガリーでは、コシュートらが議会政治や民族の権利を求める運動を進め、ウィーンにも刺激を与えると、学生や市民が改革を求めて立ち上がりました。

3月13日にはウィーンで革命が起こり、メッテルニヒは失脚して亡命します。

これは、単に一人の政治家が退場したというだけではありません。1815年以来のウィーン体制を象徴する人物であるメッテルニヒが革命によって退場したことは、保守秩序が大きく揺らいでいることを示していました。

メッテルニヒの失脚により、これまで抑え込まれていた民族運動も各地で表面化していきます。

ハンガリーとチェコの民族運動

ハンガリーではコシュートらを中心に自治や独立を求める動きが高まり、やがてこの運動は、オーストリア帝国からの独立を目指す動きへと強まっていきます。

一方、チェコ人の多いプラハでもスラヴ系民族の権利を求める民族運動が起こりました。チェコ人の運動は、ハンガリーと同じように単純な独立運動として進んだわけではありませんが、オーストリア帝国の中で各民族が自分たちの権利を求め始めていたことを示しています。

ドイツ三月革命とフランクフルト国民議会

メッテルニヒ亡命の風刺画(1848年3月)
メッテルニヒ亡命の風刺画(1848年3月)

ウィーンでの革命でメッテルニヒが失脚したという事実は、ドイツの他の地域にも大きな影響を与えます。当時のドイツは一つの統一国家ではありません。ドイツ連邦の中心的な大国の一つがオーストリアだったこともあり、革命は他のドイツ諸邦に連鎖していきます。ドイツ諸邦の自由主義者やナショナリストを勢いづけたのです。

Q
ドイツ連邦って?

ドイツ連邦とは、ナポレオン戦争後のウィーン会議で作られた、ドイツ系諸国のゆるやかなまとまりです。

図:ドイツ連邦の大まかな範囲
オーストリアとプロイセンが、ともにドイツ連邦内の有力国だったことが分かります。
※地図は1820年ごろのドイツ連邦を示した参考図です。
図:ドイツ連邦の大まかな範囲
出典:Wikimedia Commons, “Map-GermanConfederation.svg”, 52 Pickup, CC BY-SA 3.0

↑オーストリア(黄)とプロイセン(青)が、ともにドイツ連邦内の有力国だったことが分かります。地図は1820年ごろのドイツ連邦を示した参考図です。

もともとドイツ地域には神聖ローマ帝国がありましたが、ナポレオンの影響でライン同盟が作られたことで、1806年に神聖ローマ帝国は消滅しました。

その後、ナポレオンが敗れると、ウィーン会議でドイツ地域の再編が行われます。そこで作られたのがドイツ連邦です。オーストリア、プロイセン、バイエルン、ザクセンなど、多くの国や都市が集まった連合体でした。

連邦内ではオーストリアが議長国として中心的な立場にあり、プロイセンも大きな影響力を持っていました。

自由主義者やナショナリストたちは憲法の制定とドイツ統一を求めました。

オーストリアを含めたこの運動は、ドイツ三月革命と呼ばれています。

その中で開かれたのが、フランクフルト国民議会です。ここではドイツ統一国家のあり方が議論されましたが、最終的に統一は実現しませんでした。プロイセン王が国民議会からの帝冠を拒否したことも、その象徴的な出来事です。

ただし、この失敗は無意味ではありませんでした。1848年革命によって、ドイツ統一という課題がはっきり表面化したからです。

イタリアの反オーストリア運動

イタリアでも、1848年革命の影響を受けて自由主義や民族運動が高まりました。

当時のイタリア半島は、まだ統一国家ではなく、サルデーニャ王国、両シチリア王国、教皇領などに分かれています。さらに、北イタリアのロンバルディアやヴェネツィアは、オーストリアの支配下にありました。

そのため、イタリアの民族運動は反オーストリア運動と結びつきます。1848年にはミラノやヴェネツィアで蜂起が起こり、サルデーニャ王国もオーストリアと戦いました。

この時点ではイタリア統一は実現せず、オーストリアに鎮圧されていますが、イタリア統一を求める動きが消えることはありませんでした。のちのカヴールやガリバルディ、サルデーニャ王国を中心とする統一運動へつながっていきます。

まとめ

こうして1848年革命は、フランスから始まった動きに刺激され、オーストリア、ドイツ、イタリア、ハンガリー、チェコなどへ広がっていきました。

ただし、これらの運動はすぐに成功したわけではありません。多くの地域では、保守勢力や軍隊の巻き返しによって革命運動は鎮圧されていきます。

それでも1848年革命は、無意味な失敗ではありませんでした。ウィーン体制の限界を明らかにし、ドイツ統一・イタリア統一・オーストリア帝国の多民族問題など、19世紀後半のヨーロッパを動かす課題をはっきりさせたからです。

次回は、1848年革命がなぜ失敗したのか、そしてその失敗が後のヨーロッパにどのような影響を残したのかを見ていきます。

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歴ブロ・歴ぴよ
歴ブロ・歴ぴよ
歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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