ギリシア独立戦争とは?オスマン帝国からの独立と列強の思惑をわかりやすく解説
19世紀前半のヨーロッパでは、自由主義やナショナリズムの動きが広がり、ウィーン体制によって作られた国際秩序が少しずつ揺らいでいた時期です。その動きは、西ヨーロッパだけで起こったわけではありません。
オスマン帝国の支配下にあったギリシアでも、独立を求める動きが起こりました。これが、1821年に始まるギリシア独立戦争です。
このギリシア独立戦争は「ギリシア人がオスマン帝国から独立を求めた戦い」という民族主義だけが絡んだ戦いではなく、ロシア・イギリス・フランスなどヨーロッパ列強の思惑も深く関わった戦いでもありました。
ここでは、そんなギリシア独立戦争を詳しく見ていこうと思います。
オスマン帝国の衰退とバルカン半島
ギリシア独立戦争を理解するには、オスマン帝国とバルカン半島の関係を押さえておく必要があります。

オスマン帝国は、かつて地中海東部・バルカン半島・中東・北アフリカに広がる大帝国でした。とくに16世紀のスレイマン1世の時代には、オスマン帝国は最盛期を迎え、ヨーロッパ方面にも大きな影響力を持っていました。
ところが、17世紀後半以降のオスマン帝国は勢いを失いはじめます。
オスマン帝国は建国してから何世紀も経って内部の歪みが出始めており、軍事力・財政・行政の面で以前のような強さを保つことが難しくなっていたのです。
一方、ヨーロッパは大航海時代を迎え、新大陸への航路を発見。現地を植民地化し、鉱山開発やプランテーション、奴隷貿易などを行ないます。
そのうえ、絶対王政の時代に突入していたため、王権を維持するだけの軍事力とその軍事力を支える経済力の重要性が増してきていました。その経済力を支えるために重商主義政策も行なうようになり、世界的なお金の流れも変化します。
結果、オスマン帝国とヨーロッパ列強の力関係も変わっていたのです。
その両者の間に位置し重要になったのが、当時、まだ地域の大部分がオスマン帝国の支配下にあったバルカン半島でした。
ギリシア独立戦争――オスマン帝国からの独立運動
フランス革命やナポレオン戦争の影響によって、ヨーロッパ各地では「自分たちは何者なのか」「自分たちの国を持つべきではないか」という意識が強まっていきました。
こうした民族主義(ナショナリズム)の広がりは、オスマン帝国支配下のギリシアにも及んでいきます。
1814年には、ロシア領オデッサでギリシア人商人らが秘密結社「友愛協会(フィリキ=エテリア)」を結成し、ギリシア独立を目指す動きが具体化していきました。
そして、ついに1821年、ギリシア独立戦争が始まります。
この戦いはオスマン帝国の支配下にあったギリシア人が独立を求めて起こした民族独立運動ですが、ギリシア人だけの問題として見られていたわけではありませんでした。
なぜ列強はギリシア独立に関わったのか
ギリシア独立戦争には、ロシア・イギリス・フランスなどの列強も大きくかかわっていました。もちろん、列強が単純に「ギリシアを助けたい」「オスマン帝国を守りたい」と考えていたわけではありません。
民族独立運動であると同時に、列強が「どの国がどれだけ影響力を持つのか」をめぐって互いに警戒しあう国際問題でもありました。具体的にどんな問題があったのかを見ていきましょう。
ロシアの思惑
そもそもロシアは広大な領土を持ちながら、冬になると港が凍りつき、軍事行動や貿易に使える海への出口が限られていました。そのため、黒海や地中海へつながる「凍らない港」の確保は、ロシアにとって長年の重要課題でした(南下政策)。
その黒海から地中海に出るには、オスマン帝国が支配するボスポラス海峡・ダーダネルス海峡を通る必要があります。

しかも、ギリシアはロシアと同じく正教徒が多い国。オスマン帝国はイスラーム教を信仰する国だったことから「オスマン帝国支配下の正教徒を保護する」という名目を掲げやすい立場でもありました。
実際にオスマン帝国から総主教が処刑されたり教会が破壊されたために戦争開始直後の皇帝アレクサンドル1世は態度を硬化させたと言います。それでもウィーン体制を守ろうとする立場だったので直接介入はしていませんでした。
アレクサンドル1世は、ウィーン体制の維持を目的とした同盟・神聖同盟の提唱者です。
ピョートル1世以降の混乱~ナポレオン戦争【ロシア史】では、アレクサンドル1世についても触れているので、よかったらご覧ください。
ロシアの状況が変わったのは1825年にアレクサンドル1世が亡くなってからです。
ニコライ1世は、ギリシア問題ではメッテルニヒの現状維持路線よりも、イギリス外相カニングの共同介入路線に近い立場を取りました。こうしてロシアは、イギリス・フランスとともにギリシア問題へ関与を深めていきます。
他のヨーロッパ諸国の思惑
イギリスやフランスはロシアの南下を警戒していましたが、それがギリシア独立戦争でオスマン帝国側につくという話になったわけではありませんでした。
ロシアが単独でギリシア問題に介入して影響力を強めることを防ぐために、英仏露の共同介入という形に持ち込もうとしています。そのうえで、あわよくば東地中海の影響力を確保しようとしていました。

ヨーロッパ全体にあった空気感/ギリシア愛護主義・親ギリシア主義
当時は新聞や雑誌を読む都市の知識人や中産層が増えていた時代です。サロンや結社に集まるような人々も多くいたため、政府側は政治に関心を持つような市民層の声を完全に無視することはできなくなってきていました。
ギリシアの場合は「古代ギリシア文明」がヨーロッパの礎であり、宗教的にもキリスト教世界につながる存在だったため、オスマン帝国に支配されるギリシア人を「自分たちに近い存在」と感じる人も多かったようです。ギリシア独立を支持する世論が広がっていました。
知識人や芸術家からも注目されており、実際に独立を支援しようとする人々も現れます(=フィルヘレニズム)。
ロマン主義を代表するイギリスの詩人バイロンは、ギリシア独立を支援した人物として知られ、実際にギリシアへ渡って独立運動に関わる中で亡くなりました。また、フランスの画家ドラクロワが1822年に起きたギリシア独立戦争の一部を題材にした『キオス島の虐殺』などを描いています。

イギリスの場合
イギリスでも、ギリシア独立を支持する世論は広がっていました。バイロンのように実際にギリシア独立を支援しようとする人々も現れ、新聞や出版を通じてギリシア問題への関心も高まっていきます。
ただし、イギリス政府は世論だけで動いたわけではありません。
重要だったのはロシアが単独でギリシア問題に介入し、東地中海で影響力を強めることを防ぐことでした。そのため、イギリスはオスマン帝国を一方的に助けるのではなく、ギリシア問題を列強共同の枠組みで処理しようとします。
とくに外相カニングは、ロシアを完全に敵に回すよりも、英露の協調によってギリシア問題を調停しようとしました。これによって、ロシアの単独行動を抑えつつ、イギリスも東地中海の勢力均衡に関与できるようになります。
イギリスはロシアの南下を警戒しながら、ギリシア独立をめぐる国際交渉の主導権を握ろうとしたのです。ロシアの皇帝がニコライ1世に代わり、ギリシアに対する援助を行うようになるとイギリスも行動を起こし始めています。
フランスならではの事情
フランスでもギリシア独立を支持する世論は広がっていました。
フランスでは、ギリシア独立支援が復古王政下の国内政治とも結びつきました。自由主義者にとっては、ギリシア独立は民族の自由を求める運動として受け止められた一方、王党派や保守派の一部にとっても、オスマン帝国支配下のキリスト教徒を救うという形で支持しやすい問題でした。
そのため、ギリシア問題は、立場の違う人々がそれぞれの理由で関心を寄せる政治的なテーマになっていきます。
また、フランス政府にとっても、地中海方面での影響力を保つことは重要でした。内部にはフランス関係者を将来のギリシア王位に結びつけようとする構想もあったようです。
ナポレオン戦争後に国際的な立場を立て直したいフランスにとって、ギリシア問題は無関係な出来事ではなかったのです。
オーストリアの場合
これまで紹介してきた三国と違う立場をとったのがオーストリアでした。
オーストリアはウィーン体制を築いていたメッテルニヒが健在だったこともあり、ギリシア独立運動を歓迎しませんでした。
多民族国家であるオーストリア帝国にとって、すぐ近くのバルカン半島で民族運動が広がることは自国の支配秩序にも影響しかねない問題だったためです。そのため、オーストリア帝国はギリシア独立を積極的に支援するよりも現状維持を重視しました。
ギリシア独立の実現
ギリシア独立戦争の流れの中で大きな転機となったのが、1827年のナヴァリノの海戦です。
この戦いでイギリス・フランス・ロシアの連合艦隊が、オスマン帝国・エジプト側の艦隊を破ると、戦局は一気にギリシア側有利に傾きました。
ちなみに、当時のエジプトは、オスマン帝国の支配下にありながら独自に力をつけ、ほぼ自立状態の地域となっていました。この地の要となる人物がエジプト総督のムハンマド=アリーです。
オスマン帝国のスルタンはギリシア独立運動を抑えるため、このムハンマド=アリーに支援を求めていました。ムハンマド=アリーも出兵の見返りとして領土や行政権を得ることを期待し、息子イブラーヒームをギリシア方面へ派遣します。エジプト軍はギリシア方面で大きな役割を果たしました。
ところが、そのエジプト艦隊も加わったオスマン帝国側の艦隊が、ナヴァリノで列強連合艦隊に敗れます。彼はオスマン帝国側に協力した見返りを期待していましたが、艦隊を失い、十分な利益を得ることができませんでした。
列強諸国にいいようにやられているオスマン帝国に対しても思うところがあったようで、完全な独立を決意したとも言われています。
露土戦争(1828~29年)
だんだんとオスマン帝国の雲行きが怪しくなってきた頃。ギリシア独立戦争に起因して、1828年から1829年にかけてロシアとオスマン帝国の間で露土戦争が勃発しました。
1828~29年にかけての戦争だけでなく、ロシアの南下政策が始まってから何度も露土戦争が行われています。
結果、ロシア帝国側が勝利し、1829年にアドリアノープル条約が結ばれました。
この条約によって、オスマン帝国はロシアに対して大きく譲歩し、ギリシア問題でも列強の意向を受け入れざるを得なくなっていきます。
なお、露土戦争が終わった頃には既にギリシア独立の流れを止めることも困難になり、ギリシア独立の方向性はほぼ固まります。そんな中で、1830年にロンドンで開かれた列強の会議によって、ギリシアは独立国家として国際的に承認されました。
ギリシア独立は、ナショナリズムの成果であると同時に、列強外交の結果でもあったのです。
ギリシア独立戦争から東方問題へ
ギリシア独立戦争は、オスマン帝国支配下のギリシア人が独立を求めた民族運動でると同時に、他国の利害もかかわる国際問題でもありました。
ロシアは正教徒保護や南下政策の観点からギリシア問題に関心を持ち、イギリスやフランスはロシアが単独で東地中海へ影響力を広げることを警戒。三者はギリシア独立をめぐる国際交渉に関わっていきます。一方で、オーストリア帝国はバルカン半島で民族運動が広がることを警戒し、現状維持を重視しました。
このように、オスマン帝国が衰退していく中で、その領土や支配下の民族をめぐってヨーロッパ列強が利害をぶつけるようになった問題を東方問題といいます。
ここでいう「東方」とはヨーロッパから見たオスマン帝国領、バルカン半島、黒海、東地中海方面を指します。独立戦争も、この東方問題の一つでした。
ギリシア独立後も、オスマン帝国の衰退をめぐる問題は終わりません。
ムハンマド=アリーのエジプトとオスマン帝国の対立は、のちのエジプト=トルコ戦争へとつながりました。また、ロシアの南下政策とイギリス・フランスの警戒は、1853年に始まるクリミア戦争でよりはっきりと表面化します。
つまり、ギリシア独立戦争は、19世紀ヨーロッパでナショナリズムと列強外交が交差した出来事であり、同時に東方問題の始まりを理解するうえでも重要な出来事だったとも言えるのです。



