日本史

台湾出兵とは?なぜ明治政府は台湾へ軍隊を送ったのか

歴ブロ

1874(明治7)年、明治政府は西郷従道を中心とする軍隊を台湾南部へ派遣しました。これを台湾出兵といいます。

きっかけとなったのは、その3年前に琉球の人々が台湾へ漂着し、多数が殺害された事件です。

  • 琉球王国が日本と清の双方に関係を持つ複雑な立場にあったこと
  • 台湾は清の領域とされていたものの、事件が起きた地域には清朝の統治が十分に及んでいなかったこと

さらに当時の日本国内の政治状況など、さまざまな事情も背景にありました。

今回は、台湾出兵が起きた背景から、その後の琉球をめぐる動きまで詳しく見ていきます。

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台湾出兵のきっかけとなった宮古島島民遭難事件

1871年、琉球王国の宮古島などの人々を乗せた船が遭難しました。

船は台湾南部へ漂着しましたが、漂流民のうち54人が現地住民によって殺害されます。生き残った人々は清側の保護を受け、のちに琉球へ帰還しました。

これが宮古島島民遭難事件です。

漂流民が殺害された事件だけを見ると、琉球王国と台湾の現地住民との問題にも見えます。

それでは、なぜこの事件に明治政府が関わることになったのでしょうか。

その理由を理解するには、当時の琉球王国と日本・清との関係を見ておく必要があります。

当時の琉球王国は日本と清のどちらに属していたのか

琉球王国はもともと冊封・朝貢関係を結んでいました。

ところが1609年、薩摩藩が琉球へ侵攻します。これ以降、琉球王国は薩摩藩の支配を受ける一方、清との冊封・朝貢関係も維持しました。

そのため、琉球王国は日本と清の双方と関係を持つ複雑な立場に置かれていました。

この関係が大きく動き始めたのが、明治政府の成立後です。

宮古島島民遭難事件が起きた翌年の1872年、明治政府は琉球国王の尚泰を琉球藩王とし、琉球藩を設置しました。こうして琉球を日本の国家体制へ組み込む動きが進められていきます。

そして明治政府は、1871年に殺害された琉球人を日本の側に属する人々として扱い、清政府に事件への対応を求めていきました。

つまり台湾出兵へ向かう過程では、漂流民殺害事件への対応とともに、琉球が日本と清のどちらに属するのかという帰属問題も関係していたのです。

なぜ明治政府は台湾へ出兵したのか

宮古島島民遭難事件が起きたのは1871年ですが、実際に明治政府が台湾へ軍隊を送ったのは1874年です。

事件の発生から出兵までの間に、明治政府はどのような経緯をたどったのでしょうか。

まずは、清との交渉から見ていきましょう。

清との交渉と「化外」

1873年、明治政府は外務卿の副島種臣を清へ派遣し、台湾で起きた事件について清政府と交渉しました。

ところが清側は、事件を起こした住民が暮らす地域について、清朝の教化や統治が及ばない「化外」であるという趣旨の説明をします。

当時の清は台湾を領域としていましたが、台湾各地を同じように統治していたわけではありません。とくに山地などには、清朝の統治が十分に及んでいない地域もありました。

日本政府は、こうした清側の説明を台湾への出兵を正当化する論拠として利用していきます。一方の清側も、台湾出兵後の交渉では徴税記録などを示し、台湾に対する領有権を主張しました。

清の領域とされながら、実際には統治が十分に及んでいない地域があったことが、台湾出兵をめぐる問題を複雑にしていたのです。

日本は「化外」という言葉をどう利用したの?

清を中心とする従来の国際秩序では、皇帝の教化や統治がどこまで及んでいるかという考え方が重視されていました。そのため清側が使った「化外」は、必ずしも「清の領土ではない」という意味ではありませんでした。

これに対して、19世紀には西洋諸国を中心に発達した国際法が世界へ広がります。日本も明治維新後、その考え方を積極的に取り入れていました。

明治政府の外交顧問だった李仙得(リゼンドル)は台湾事情にも詳しく、清の統治が及んでいないという説明を「統治されていない土地なら取得できる」という西洋国際法の考え方と結びつけます。

つまり日本側は、清側が従来の考え方から使った「化外」という言葉を西洋国際法の論理から捉え直し、台湾出兵を正当化する材料として利用したのです。

明治六年の政変後の国内政治

1873年、日本政府では朝鮮への対応をめぐって征韓論争が起こった結果、西郷隆盛や板垣退助、副島種臣らが政府を去りました。これを明治六年の政変といいます。

翌1874年には江藤新平らによる佐賀の乱が発生するなど、政府に不満を持つ士族の動きも問題となっていました。

こうしたなかで、台湾への出兵には不平士族の対外的なエネルギーを外へ向けるという国内政治上の意味もありました。

さらに、琉球の帰属問題や漂流民殺害事件への対応、清との外交関係など、複数の問題が重なっていました。

1874年、明治政府は台湾への出兵方針を決定し、その後、西郷隆盛の弟である西郷従道を台湾蕃地事務都督に任命しました。

こうして台湾出兵が具体的に動き始めます。

台湾出兵はどのように行われたのか

1874年5月、西郷従道率いる日本軍は台湾南部へ上陸しました。

日本軍は宮古島島民遭難事件に関係した牡丹社などの現地住民と戦い、その拠点を攻撃していきます。

戦闘そのものは比較的短期間で終わりましたが、それよりも日本軍を苦しめたのが現地で流行した病気です。日本軍ではマラリアなどの感染症が広がり、戦闘による死者を大きく上回る病死者が出ました。

さらに、日本の出兵に対して清も反発します。台湾を自国の領域とする清にとって、日本軍が台湾へ上陸して駐留することは看過できない問題でした。

こうして日本と清の間では、日本軍の撤退をめぐる外交交渉が始まります。

台湾出兵はどのように終わったのか

日本政府は清との交渉を進めるため、大久保利通を北京へ派遣しました。

大久保と清政府との交渉は難航しましたが、イギリス公使トーマス・ウェードによる仲介もあり、1874年10月に日清両国互換条款が結ばれます。

この取り決めでは、日本側の行動が「保民ノ義挙」と表現され、清は遭難者の遺族への見舞金などを支払い、日本側は台湾から軍隊を撤退させることになりました。

こうして台湾出兵は終結します。

琉球の帰属問題は、この交渉の後も日清間の外交問題として残りました。

明治政府は、この交渉の結果をその後の琉球政策を進めるうえで利用し、琉球への統制をさらに強めていくことになります。

台湾出兵の後、琉球はどうなったのか

台湾出兵後、明治政府は琉球と清との関係を断ち切ることなどを求め、琉球を日本の国家体制へ組み込む政策を進めていきます。

こうした一連の政策は琉球処分と呼ばれています。

そして1879年、明治政府は琉球藩を廃止して沖縄県を設置。その後も清との間では琉球の帰属をめぐる交渉が続いています。

このように琉球の帰属をめぐる問題は長期にわたって続き、台湾出兵もその過程における重要な出来事の一つとして位置づけられます。

明治政府が近代国家をつくっていくなかで、「どこまでを日本の領域とし、誰を日本に属する人々として扱うのか」という問題が表面化した出来事の一つが、台湾出兵だったのです。

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歴ブロ・歴ぴよ
歴ブロ・歴ぴよ
歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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