わかりやすい第二次世界大戦の簡単な流れ【背景~終わり方まで】
1939年、ドイツのポーランド侵攻をきっかけに、ヨーロッパで第二次世界大戦が始まりました。
その後、1941年にはドイツがソ連へ侵攻し、日本とアメリカも開戦。すでに続いていた日中戦争も含め、ヨーロッパとアジア・太平洋で進んでいた戦争が結びつき、世界規模へと拡大していきます。
第一次世界大戦の終結から、わずか20年ほどで再び起こった世界大戦。
なぜ国際協調を目指していた世界は再び戦争へ向かったのでしょうか。
この記事では、第二次世界大戦の背景から戦争の拡大、終結までの流れと、戦後の国際社会に与えた影響をわかりやすく解説します。
第一次世界大戦後の国際秩序
1918年に第一次世界大戦が終わると、再び戦争を起こさないための国際秩序づくりが進められました。
ヨーロッパでは、ドイツに領土の縮小や軍備制限、賠償金の支払いなどを課したヴェルサイユ条約をはじめとする講和条約によって、ヴェルサイユ体制が成立します。
一方、アジア・太平洋地域では、1921〜22年のワシントン会議を通じて海軍軍縮や中国に関する取り決めが行われ、ワシントン体制が築かれました。
また、国際紛争を話し合いによって解決するための国際連盟も発足し、1920年代にはロカルノ条約や不戦条約など、国際協調を進める動きが見られます。
ただ、国際連盟にはアメリカが参加せず、戦後の領土や軍備制限などに不満を抱く国もありました。
こうした国際秩序を大きく揺さぶったのが、1929年に始まる世界恐慌です。

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国際秩序の崩壊と戦争への道
1929年に始まった世界恐慌は、各国の経済に深刻な打撃を与えました。
アメリカでは1933年からルーズベルト大統領がニューディール政策を進め、公共事業や金融制度の改革などによって経済の立て直しを図ります。
一方、イギリスやフランスなどは自国や植民地との経済関係を重視するブロック経済を進め、国際協調は次第に後退していきました。
こうしたなか、日本・ドイツ・イタリアはそれぞれの事情から対外侵略を進め、第一次世界大戦後の国際秩序を揺るがしていきます。
- 日本
満州事変(1931年)/国際連盟脱退の通告(1933年)/日中戦争の全面化(1937年) - ドイツ
ナチス政権成立(1933年)/再軍備/オーストリア併合(1938年) - イタリア
エチオピア侵攻(1935年)
国際連盟は日本の満州事変やイタリアのエチオピア侵攻に対応しましたが、侵略を十分に阻止することはできませんでした。
一方、イギリスとフランスは新たな大戦を避けるため、ドイツの要求に一定の譲歩を行う宥和政策をとります。1938年のミュンヘン会談では、チェコスロヴァキアのズデーテン地方をドイツへ割譲することが認められました。
それでもドイツは1939年3月、チェコ地域の残余部分を占領。ヨーロッパでは戦争の危機がさらに高まっていきます。
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第二次世界大戦の勃発と世界大戦化
ヨーロッパではドイツが周辺諸国への侵攻を進める一方、アジアでは日中戦争が長期化し、日本と欧米諸国の対立も深まっていました。
こうした異なる経緯で進んでいた戦争は、1941年の独ソ戦と太平洋戦争の開戦を通じて拡大し、世界規模で結びついていきます。
ヨーロッパでの開戦(1939〜1940年)
1939年8月、ドイツとソ連は独ソ不可侵条約を結びました。両国は秘密議定書でポーランドの分割などを取り決め、ドイツはソ連との衝突を当面避けられるようになります。
同年9月、ドイツがポーランドに侵攻すると、イギリスとフランスが対独宣戦布告し、ヨーロッパで第二次世界大戦が始まりました。ソ連もポーランド東部に侵攻し、両国はポーランドを分割します。
翌1940年にはドイツがフランスを破り、西ヨーロッパの広い地域を占領しました。一方、イギリスは抵抗を続け、戦争は長期化していきます。

1941年の戦争拡大と世界大戦化
1940年9月、日本・ドイツ・イタリアは日独伊三国同盟を結び、相互の協力関係を強めました。
翌1941年6月、ドイツは独ソ不可侵条約を破ってソ連へ侵攻し、ヨーロッパの戦争はさらに拡大します。
一方、日本は1937年から続く日中戦争を終結させられず、中国への支援ルートを断ち、資源を確保するために東南アジアへの進出を進めていました。
1940年にはフランス領インドシナ北部、1941年には南部へ進駐。これに対してアメリカなどは経済制裁を強め、特にアメリカによる石油輸出停止は日本に大きな影響を与えます。
日米交渉が行き詰まるなか、1941年12月8日(日本時間)、日本はハワイの真珠湾を攻撃するとともに、イギリス領マレー半島にも侵攻し、太平洋戦争が始まりました。
アメリカが日本に宣戦布告すると、ドイツとイタリアもアメリカへ宣戦布告。こうして戦争は、世界規模で結びついていきました。

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戦局の転換と枢軸国の敗北
第二次世界大戦は、1942年ごろから各地の戦線で大きな変化を迎えます。
それまで攻勢を続けていたドイツや日本などの枢軸国は、連合国の反撃を受けて次第に後退するようになりました。
ここでは、戦局がどのように変化し、1945年のドイツと日本の降伏へつながったのかを見ていきます。
戦局の転換(1942〜1943年)
1942年6月のミッドウェー海戦では、日本海軍がアメリカ軍に敗れ、太平洋での攻勢に大きな打撃を受けました。
北アフリカでは、1942年秋のエル・アラメインの戦いでイギリス軍がドイツ・イタリア軍を破り、連合国の反攻が進みます。
さらに、1942年から翌年にかけてのスターリングラードの戦いでは、ソ連軍がドイツ軍を包囲して降伏させ、独ソ戦の大きな転換点となりました。
これらの戦いを経て、枢軸国は各地で攻勢を維持することが難しくなっていきます。
1943年にはイタリアでムッソリーニ政権が崩壊。新政府が連合国と休戦しました。とはいえ、イタリアは一部をドイツに占領され、戦闘が続けられています。
こうした枢軸国が追い詰められはじめた背景には、アメリカの高い工業生産力や連合国による物資供給、ソ連の軍事力がありました。一方、戦線を広げた枢軸国は、兵力や資源、補給の面で次第に厳しい状況に置かれていきます。
連合国の反攻と戦争の終結(1944〜1945年)
1944年になると、連合国の反攻はさらに進みます。
ヨーロッパでは、ソ連軍が東方からドイツ軍を押し戻す一方、6月にはアメリカ・イギリスなどの連合国軍がノルマンディー上陸作戦を実施。東西から追い詰められたドイツは、1945年5月に無条件降伏しました。
アジアでも日本軍は各地で後退を続けます。1944年のインパール作戦は大きな犠牲を出して失敗し、太平洋ではアメリカ軍が島々を攻略しながら日本本土へ接近しました。
1945年には沖縄で地上戦が行われ、日本各地への空襲も激しくなります。
同年8月、アメリカは広島と長崎に原子爆弾を投下し、ソ連も日本に宣戦布告して満州などへ侵攻しました。
日本は8月15日に降伏受諾を国民に公表し、9月2日に降伏文書へ調印。こうして第二次世界大戦は終結しました。
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第二次世界大戦の特徴と被害
第二次世界大戦では、戦場で戦う兵士だけでなく、第一次世界大戦以上に民間人の暮らしにも戦争の影響が拡大しました。
各国は兵器の生産や物資の確保を優先し、女性を含む多くの人々が軍需工場などで働く総力戦の体制を整えます。また、植民地の人々も兵士や労働力として動員されました。
占領地では住民への弾圧や強制労働が行われ、日本軍の占領下に置かれたアジア各地でも多くの人々が被害を受けています。なかでもナチス・ドイツは、人種主義に基づいてユダヤ人を組織的に迫害・殺害するホロコーストを実行しました。
さらに、都市への大規模な空襲や広島・長崎への原爆投下によって、多数の民間人が命を失いました。
第二次世界大戦では、軍人と民間人を合わせて世界全体で数千万人が犠牲になったと推計されています。
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第二次世界大戦後の国際秩序
第二次世界大戦が終わると、敗戦国の占領と戦後処理が進められました。
ドイツはアメリカ・イギリス・フランス・ソ連によって分割占領され、日本もアメリカを中心とする連合国の占領下に置かれます。また、ニュルンベルク裁判や東京裁判では、戦争指導者らの責任が追及されました。
一方、1945年には、戦争を防ぎ国際平和を維持するための組織として国際連合が発足します。
しかし、戦後の国際社会では、アメリカとソ連が大きな影響力を持つようになり、両国の政治体制や安全保障政策をめぐる対立が深まっていきました。こうして、世界は冷戦と呼ばれる東西対立の時代へ向かいます。
さらに、戦争によってヨーロッパの植民地支配が弱まると、アジアやアフリカでは独立運動が拡大しました。インドやインドネシアなどが独立し、その後も各地で植民地からの独立が進んでいきます。
第二次世界大戦は、国際秩序だけでなく、世界の国々の関係も大きく変えることになりました。