近代史

ワシントン体制と日本の影響

第一次世界大戦後の1921年~22年にワシントン会議で決められた、ベルサイユ条約やその決議によって繰り出された、戦後の東アジアと太平洋における国際秩序体制の事をワシントン体制と呼ばれています。

アメリカ主導のもとに、ヨーロッパ各国が共同戦線を張り、台頭してきた日本が外交的に孤立化する図式が生まれ、日本が後に日中戦争や太平洋戦争へと向かっていくことになります。

パリ講和会議と国際連盟

1918年11月、アメリカ大統領ウィルソンが提唱した14か条をドイツが講和の基礎として受け入れたころにより、4年間続いた第一次世界大戦が休戦しました。

講和会議の場は、パリで1919年1月より行われ、郊外のベルサイユ宮殿で講和条約が結ばれました。このベルサイユ条約によってドイツは、領土の一部と植民地をすべて失い多額の賠償金を支払うことになりました。

講和会議の場では、アメリカが国際平和と民族自決を唱え、国際平和を維持する機関が必要を主張し、全世界に影響力を与えました。

第一次大戦では、多くの命が犠牲となり、建物や文化財なども破壊されました。こうした悲惨な戦争を二度と起こってはならないという風潮がアメリカの訴えを一気に進展させ、国際協調を重視する時代に入ります。

 

こうして1920年(大正9)に、国際連盟が誕生しました。

この時、日本・イギリス・フランス・イタリアの4か国が常任理事国で発案国のアメリカは、国内の反対により国際連盟に参加できませんでした。

国際連盟は、各国間の行動を律するための国際法を確立し、戦争に訴えることなく各国の協調を促す機関ですが、戦勝国に有利な状況を維持するという側面がありました。

こうした、ベルサイユ条約によって構築されたヨーロッパにおける新しい国際秩序をベルサイユ体制と呼ばれています。

 

権益強化を狙い日本も参戦した第一次世界大戦 第一次世界大戦を始める前に、1914年のサラエボ事件から1919年のベルサイユ条約までの年表を書いておきますので、こちらを参考しなが...

 

ワシントン会議と国際条約

敗戦国ドイツの賠償金は1320億マルク。現在の日本円で200兆円以上するそうで、とてもではありませんが支払える金額ではありませんでした。また、戦勝国のイギリス・フランス・イタリアもアメリカにお金を借りていたので、その返済で苦しむことになります。

そのアメリカは、戦後のドイツに援助を与えて産業を復興させ、賠償金を円滑に支払わせ、支払いを受けたイギリス・フランス・イタリアは、アメリカに借金を返すと言う経済の構図が確立します。

こうした構図でも、ベルサイユ体制によりヨーロッパに平和が訪れたのですが、東アジアと太平洋地域ではそうはいきませんでした。

 

ロシア帝国が倒れ生まれたソビエト連邦が、独自の外交展開をはじめ、日本も東アジアの権益を確保しようと中国と対立していました。中国国内も、統一政府が確立していないく混沌とした状況が続いていました。

一方太平洋では、制海権を争い日・英・米の3か国が海軍拡張競争が繰り広げられていました。

 

このような状況に、国際的主導権を握ったアメリカは、【日・英・米・仏・伊・ベルギー・ポルトガル・蘭・中国】を招き、海軍の軍縮を目的とした【ワシントン会議】を開きました。

この会議の目的は、国際平和だけではなく、日本の東アジアの台頭を抑制するとともに、自国の財政負担を軽くするための軍部拡張競争に終わりを告げるためでした。

 

ワシントン会議は、1921年11月~1922年2月まで続きました。

会議冒頭でアメリカの国防長官・ヒューズは、【世界の軍部縮小のためにアメリカは、戦艦15隻61トンの廃棄の用意がある】と宣言し、各国に軍縮を求めました。

この発言に人々は賛同し、イギリスと日本加藤友三郎海軍大臣も【ヒューズの案を受け入れ、わが国でも廃棄の用意はある】と発言しました。こうした、協調ムードでスタートしたワシントン会議は、1921年12月の四か国条約・1922年2月の九か国条約・ワシントン海軍軍縮条約と言った重要な条約が結ばれることとなります。

四か国条約

この条約は、米・英・日・仏が結んだ【太平洋の平和に関する条約】です。

各国が太平洋上に持つ島の権益を互いに尊重し、現状維持を図ります。紛争が起こった場合には、話し合いで平和的に解決するといった事が取り決められました。期限は10年で、条約違反国は残り3か国による制裁を協議できるとしました。

四か国条約締結に伴い、1902年(明治35)に締結した【日英同盟協約】の終了が合意さました。日英同盟は、互いの中国の利権を認め合う同盟で、これが続く限り他国が日本を攻撃する事ができませんでした。この同盟のおかげで日本は積極的に大陸政策を展開できていたのです。

日英同盟の終わりは、中国進出を非難するアメリカと戦争が起こっても、イギリスから支援を受けられません。このように、四か国条約は日本に得はなかったのですが、あえて妥協し協調路線をとったとされています。

九か国条約

ワシントン会議に参加した九か国によって結ばれた条約で、中国問題に関して取り決めた条約です。

その内容は、中国主権と領土保全を尊重し、中国が自力で安定した政権を作れるように協力するというもので、条約締結後は、中国の門戸開放・機会均等を原則として行動することになりました。

そのために、これまでのように日本が勝手に中国へ進出できなくなりました。

それと同時に、日本の中国においての権利を認めた1917年(大正6)に結ばれた石井・ランシング協定は破棄されました。こうして日本は、大戦中に獲得した中国の権益を一部手放すことになりましたが、すでに確立された権益に関してはそのままでした。

山東懸案解決条約

1922年(大正11)のワシントン会議の場を借りて、第1次世界大戦で日本が膠州湾租借地を占領し、山東省におけるドイツの権益を継承しようとして起った山東問題について、英・米の仲介で日中間の直接交渉が行われました。

中国は、山東問題を多国間で取り上げてほしいと主張しますが、日本は強く拒否したために、日中間の直接交渉となりました。

中国の主張は、ドイツの利権の返還を日本に求めました。日本は、要求に応じるとして膠州湾の粗借地を返還する事に同意したものの、膠済(山東)鉄道は中国が買い取り、鉱山についても日中合弁として共同経営することを認めさせました。

 

また、中国は二十一か条の要求に関しても廃止を求めますが、英・米などの他国の支持が得られず、日本の多少の譲歩を受けただけで、中国側が二十一か条の要求を受け入れる形となりました。

この時の日中間の取り決めを山東懸案解決条約と呼ばれています。

ワシントン海軍軍縮条約

この条約は、ワシントン会議の目玉で、米・英・日・仏・伊と言った5大海軍大国の間で、主力艦保有量の制限が取り決められました。主力艦の総トン数の比率は、米5・英5・日3・仏1.67・伊1.67と決められました。

日本の海軍軍令部や野党などからは、米・英に対して7割の主力艦確保の要求がありましたが、当時の海軍大臣・加藤友三は、その声を抑え対英・米6割で妥協し条約に調印しました。

そのかわり、太平洋に散在する軍事基地、軍備の現状を維持する事を要求し、受け入れられました。これによって、太平洋地域でアメリカが太平洋地域で軍事力増強が出来なくなるため、日本にとっては悪い話ではありませんでした。

こうして、ワシントン海軍軍縮条約で、作っている戦艦も合わせて65隻(180万トン)を廃棄処分し、以降10年間は主力艦が老朽化しても変わりは作らないことも条約に盛り込まれました。

 

ワシントン体制

ワシントン会議における一連の国際協定は、戦争再発防止と列強間の協調を目指したもので、それらに基づくアジア・太平洋地域に秩序が作られ、各国の海軍の軍事力が大幅に削減され、日本の大陸進出政策にもストップがかかりました。

 

こうした、国際協調によりアジア・太平洋などに平和と安定がもたらされた、各国の協調体制をワシントン体制と呼ばれます。

 

ワシントン体制後の日本の政治的影響

日本では、原首相の暗殺を受け高橋是清内閣が発足し、ワシントン体制を積極的に受け入れ協調外交をとっていました。

高橋内閣を引き継いだのが、ワシントン会議の全権を持っていた加藤友三郎でした。加藤も1922年にシベリアから撤兵をするなどの協調外交を展開し、ワシントン海軍軍縮条約にしたがい、海軍の軍縮を断行し陸軍の兵力削減も行いました。

この陸軍軍縮は、4000万円以上の経費節減になり、当時の陸軍大臣・山梨半造が行ったことから山梨軍縮と呼ばれています。また、1925年(大正14年)にも、宇垣一成陸軍大臣による大規模な軍縮の結果、1920年(大正10年)の国家歳出の49%以上を占めていた軍事費が、1926年(昭和元年)には27%まで抑えられました。

また、兵員も合わせて9万3000人削減され、行き場を失った将校達は中学校に配属され、軍事教練を実施するようになりました。

こうした、協調外交・軍備縮少政策は、第二次山本権兵衛内閣にも引き継がれ、強硬外交派だった加藤高明首相も、1924年(大正13年)からの政権でも、正義と平和を基調とする協調外交に転換しています。

 

中国をめぐる米・英の対立も極力避け、中国に対しても主権を尊重し、内政に干渉しない【不干渉主義】を掲げますが、経済的なことになると日本も妥協はしなかったので、反日運動も起こり、決して安定した日中関係とはいきませんでした。

1925年には、上海で日本人経営者の紡績工場の解雇問題から、中国人労働者の待遇改善を求めるストライキが起こり、それが中国全土に発展し反帝国主義運動の【五・三〇事件】が広がっています。

 

一方で、シベリア出兵以降、険悪になっていたソ連との関係は、1925年(大正14)日ソ基本条約を結び正式に国交を樹立しました。この条約締結後に、北樺太から撤収した後も、撤兵の条件として北樺太の油田の半分の権利を取得しています。

これらの高橋是清内閣以降の数年間の協調外交を当時の外務大臣幣原喜重郎にちなんで【幣原外交】と呼ばれています。

 

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