大正時代

日ソ基本条約の背景やその後の日ソ関係

 

以前、日ソ中立条約について取り上げてきましたが、日本とソ連はその他に、日ソ基本条約や日ソ共同宣言などを取り交わしています。

近代史における、日本とソ連の関係性を知るのは現代の関係にも通じます。

今回は、日本とソ連の基本的な関係を定めた条約である、日ソ基本条約について書いてみたいと思います。

日ソ基本条約とは何?

1925年10月(大正14年)に、日本とソ連の基本的な関係を定めた条約の事を日ソ基本条約と言います。日本の加藤高明総理とソ連の最高指導者・スターリンにより締結されました。

実際の実務には、外務大臣の幣原喜重郎とソ連側の外交担当者はカラハンとで条約締結を進めていきました。

日ソ基本条約の内容

  1. 互いの相手国に外交官を置き外交関係を結ぶ
  2. お互いの内政を干渉しない
  3. ポーツマス条約はソ連との間でも有効
  4. 日本が北樺太の石油・石炭開発権を得る事

が盛り込まれ、条約締結後に日本は北樺太から兵を引き上げました。

日本とロシアの関係

日露戦争後は、互いに遺恨が残りすぐには協定を結ぶ気にはなれませんでしたが、時間が経つにつれて、日露共に歩み寄り何度か協定を結び、互いの勢力圏を定めて有効な関係を築いていました。

 

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しかし、その関係も崩れることになります。

1917年ロシア革命が起きたのです。

この時、日英同盟を理由に連合国に参加していた日本にとって、ロシア革命は都合が悪い出来事でした。連合国は、ロシア革命の干渉戦争のためにシベリアへ出兵します。

日本はロシアとの協定を結んでいましたが、日英同盟の絡みもありましたが、領土欲の野心と日露戦争後に失った利権の回復のために、シべリア出兵に参加しました。

しかし、戦いは5年に渡り長引き日本は巨額の戦費と人間を投入しましたが得る物がほとんどなく最悪な結果となりました。

日ソ基本条約の締結

時の外交官・幣原 喜重郎は、協調外交を行い日本とソ連との間で基本条約を締結するために動き出します。協調外交とは、他の国と話し合いを重ねて歩み寄り協力して行う外交のことを言います。

話し合いをすると言う事は、お互いに妥協点を探りあわなければいけません。

しかし、この時代の日本は調子に乗っていたので、そんな弱腰外交に反対する者も多く、五・一五事件以後は、軍部による強硬外交が行われました。

日ソ基本条約締結の理由

この時、日本はどうしてもソ連と条約を結ばなければいけなかった理由がありました。

経済的理由

日本側の一番大きな理由は経済的なもので、日本海側の町はソ連の沿海州と貿易を行っていましたがソ連との関係が悪化しており、それができなくなっていました。また、北海道のオホーツク海沿岸で漁業をいたのですが、度々ソ連側から妨害をされていて漁師からの訴えが多発していました。

民間レベルでソ連との関係悪化の影響が出始め、こうした状況を何とかしてくれと国内の世論が生まれ始めて政府としても無視できない状況になっていました。

ソ連の中国進出

この頃になると、ソ連の国内は徐々に安定を見せ始め、徐々に中から外を見るようになります。その中で、ソ連は中国との連携を模索し始めます。

そうなると、せっかく日露戦争で獲得した満州での権利が脅かされかねませんでした。

 

こうした流れの中で、条約を結ぶべきだと言う意見が出始めて日ソ基本条約の締結に向けて動きだしたのです。

資本主義と社会主義の対立

世界では、社会や経済の仕組みをめぐり二つの考え方が対立していました。

ヨーロッパやアメリカで出来上がった資本主義で、個人や企業の財産を保証し利益を追求する事で経済を発展させる仕組みでした。しかし、一方で資本家の力が強く、給料をもらって働く労働者の力は弱いものでした。

雇い主である資本家の一言で労働者は良くも悪くもなることから、安い賃金でも我慢して働くしかありませんでした。

 

そんな労働者たちを集めて皇帝や貴族、資本家などを倒したのがロシア革命だったのです。

その指導者のレーニンは、社会主義の考えを国作りに活かします。

以前の記事で書きましたが、社会主義は土地や工場などの生産手段を社会全体が共有し、誰かが独占しないようにすることで、みんなが平等に財産を得られる社会を目指します。

実際にレーニンは、貴族や大地主から土地を取り上げています。

 

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このロシア革命の成功とソ連の建立で、世界の資本主義の考え方を批判する人々に大きな影響を与え、その活動が活発化しました。世界の資本主義国家は、自分たちの国も革命を起こされるのではないかと恐れました。

そのため、ソ連と友好を示す国が中々現れなかったのです。

治安維持法の制定

日本もその国の一つでしたが、上記の理由で日ソ基本条約を結びました。

日本が社会主義思想にならないために、日ソ基本条約を結んだ後で、治安維持法を制定しました。

内容は、国の制度を変えることや私有財産を否定することを目的とする団体をつくることを禁じるものです。国の制度を変えることを認めてしまえば、日本でもロシア革命のようなことが起きるかもしれません。

そんな革命が起きれば、天皇を倒し、大日本帝国憲法のもとで作られた日本社会が崩壊してしまうと政府は心配したのです。

治安維持法を制定する事で、日ソ基本条約を結んだ後にソ連の影響を受けた人が日本国内に入ってきても、革命を起こすような活動を防ぐことができると政府は考えたのです。

日ソ基本条約後の日ソ関係

1931年に日本が満州国を作った時に、ソ連はそれを認めませんでした。

中国へ進出したいソ連と満州の利権を守りたい日本が、条約締結後も緊張状態にありました。実際に、満州国の関東軍とソ連軍の間でいくつもの戦闘が起きています。

その最大の争いがノモンハン事件です。

この戦いで、不利になった日本はソ連領土への侵攻を自重するようになりました。

この事件以降、日ソ共に極限状態になりドイツがソ連への侵攻を始めていくのですが…

これ以降は日ソ中立条約の記事で書いていますので参考にして見てください。

 

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歴史好きが高じて、日本史・世界史を社会人になってから始めました。史実を調べるのも好きですが、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。いずれ歴史能力検定を受ける予定。どうぞよろしくお願いします。