日ソ中立条約の締結の背景と内容から破棄まで
現在、何かと話題にのぼる隣国ロシアとの関係。今では、海上を境に国境がありますが、日露戦争後は樺太で国境が接してた時代もありました。
ロシアの前身、共産国ソビエト連邦と日本は思想的に折り合わない面が多々ありましたが、明治時代くらいまではお互いの利害が一致し中立条約を結んでいた時代もありました。
今日は、北方領土問題によく出てくる【日ソ中立条約】について書いてきたいと思います。
日ソ中立条約とは?
日ソ中立条約とは、1941年に日本とソ連の間で結ばれた中立条約の事を言います。
その内容は、互いに攻撃しない【相互不可侵】や一方が第三国と戦争になった時に中立を守る事が盛り込まれていました。その期間は、5年で満了前の1年前にどちらかの申し出が無ければ、更に5年延長されることになっていました。
ザックリと説明したところで、今度はどうして日ソ中立条約が結ばれたのでしょうか?
日ソ中立条約が結ばれた理由
日ソ中立条約が結ばれた情勢としていくつかの理由があったようです。
条約締結前の世界情勢
1929年に世界恐慌が起きたのに対して、世界は3つのグループに分かれていました。
- アメリカ・イギリス・フランスなどの自国や植民地に豊富な資源を持っている【資本主義陣営】
- 日本・ドイツ・イタリアなどの植民地や資源に乏しく積極的に対外進出を打ち出していた【全体主義陣営】
- ソ連のような計画経済によって世界恐慌の影響を受けない【共産主義陣営】
ここで問題となるのは、日本やドイツらによる対外進出です。
すでに植民地支配で権益を持っていたイギリスやフランスから権利を奪おうと衝突し始めます。実際に、日本は満州事変や日中戦争で中国大陸に進出しており、アメリカやイギリスとの関係が悪化していました。
日本とソ連の接近
世界的孤立が表れた日本は、アメリカやイギリスと対抗するために、ドイツとの関係を深めていきます。この流れで、締結されたのが…
日独伊三国軍事同盟です。
当時の近衛内閣で外相だった松岡洋裕は、日ソ中立条約を締結後にソ連を含めた日独伊ソ四国同盟に発展させようと画策したそうです。
要するに、資本主義VS全体主義&社会主義の構図を作ろうとしたのです。
※日独伊三国同盟は、別の機会に詳しく書いていきます。
話を日ソに戻しますが、ソ連は当初、日ソ中立条約に条約締結に難色を示していましたが、ドイツがソ連に進行すると言う情報が入り、日本との中立条約を結ぶことにしました。
この時点で、日本が描いていた四国同盟計画は崩れましたが、日本とソ連の利害が一致し、1941年4月13日にモスクワで日ソ中立条約が調印され成立しました。
日ソ中立条約の内容
日ソ中立条約では日ソ両国の領土保全と相互不可侵と第三国と交戦した場合の中立の維持を取り決め、期間は5年とされていました。
軍事同盟の場合はどちらが戦争になった場合は協力する必要性がありますが、中立条約の場合は協力の義務はありません。そして、中立も解釈次第で武力行使に関わらない経済援助なら構わないなどいろいろ取れました。
日ソ中立条約では中立の定義まではされていませんでした。
条約締結後のそれぞれの国の状況
幕末から戦前にかけての日本には対外進出について2つの考え方がありました。
日本の南方進出
北方進出か南方進出の選択肢がありました。
北方進出は、ソ連と対峙することになります。南方進出は英米の東南アジアの植民地とぶつかることになります。日本国内では、陸軍は北方進出、海軍は南方進出を唱えていましたが、日ソ中立条約の締結により南方進出が決定されました。
また、南方には石油などの資源が豊富と言う事が南方進出の動機とも言われています。
こうして日本は、ベトナム南部に進出し始めるのですが、このことがアメリカとの対立を決定的なものとし、太平洋戦争に向かっていきます。
四国同盟の構想
先ほど日独伊ソ四国同盟について少し触れましたが、この構想は犬猿の仲であったドイツとソ連が仲良くいるという前提に考えられていました。この同盟が実現できれば、アメリカを抑え、東アジア圏での日本の立場を強くしようと考えたのですが、ドイツがソ連への進行を始めたので、この構想は実現することができませんでした。
実は、ドイツの侵攻作戦の時に、日ソ中立条約を破棄して北方進行に転換しようとした政治家がいました。それが、四国同盟を模索していた松岡洋佑本人でした。しかし、当時の内閣では彼に同調する政治家がおらず、松岡は孤立をしていくのでした。
日ソ中立条約でソ連はモスクワ防衛に成功
1939年にソ連とドイツは独ソ不可侵条約を締結していましたが、1941年にドイツが条約を破棄しソ連へ侵攻してきました。準部不足だったソ連は、首都・モスクワまで侵攻されましたが、日ソ中立条約のおかげでモスクワを守り切ることが出来ました。
このドイツの敗戦がきっかけとなり、ナチスドイツの崩壊が始まりました。
日ソ中立条約の破棄とソ連の対日参戦
1945年2月にソ連のヤルタで英・米・ソによる会談が持たれました。
ヤルタ会談
この会談で、アメリカの日本への本格侵攻に備えて【ソ連の対日参戦】が盛り込まれていまいした。当時、戦争状態に無かった日本とソ連でしたが、アメリカの損害を減らすために、ソ連を戦争に引きずり込もうとしました。
アメリカの誘いにソ連は、見返りに千島列島を要求しました。これが、今日まで解決しない北方領土問題の始まりでした。
ヤルタ会談後、ソ連は4月に日本に対して条約を延長しない旨を通告しました。
こうして、社会主義国であるソ連と資本主義国であるアメリカが手を組んで第二次世界大戦を終結させることになるのですが、大戦後、この二国は冷戦と言う対立構造が出来上がっていくのは、別に紹介していきましょう。
日本は講和の仲介をソ連に依頼をするも…
1945年3月10日に東京大空襲があり、日本政府も講和を模索し始めます。
しかし、交戦中の国同士は話し合いのための窓口も失われているために、どこかの国に仲介をしなければいけません。
それが、ソ連だったのです。
この時すでに、ヤルタ会談での話がまとまっていたので、ソ連は時間稼ぎのためにのらりくらりの対応を取りました。そのため、時間だけがむなしく流れていきました。
ソ連の対日参戦
1945年5月のドイツ降伏し、ソ連は8月に日ソ中立条約の破棄と日本に対して宣戦布告をし、満州や朝鮮半島北部、千島列島に侵攻しました。度重なるアメリカの本土襲撃により疲弊していた日本軍は各地で善戦しますが、敗れることになります。
ソ連軍は北海道まで侵攻するつもりでいたようで、それは日本軍の決死の戦いで防止することができたようです。
こうして、ソ連や日ソ中立条約を破棄したことによりその役目を終えることになります。
ポツダム宣言の受諾と終戦へ…
ソ連との戦いが始まって1週間後に、日本政府はポツダム宣言の受諾する旨を通知し無条件降伏し、第二次世界大戦が終結することになります。
日本が無条件降伏をした理由には広島・長崎への原爆投下もありますが、ソ連による日本への宣戦布告も大きな決め手の一つでした。