大正時代

壊された戦前の豊かな暮らしと戦時下の日本国民生活

歴ブロ

戦前の日本は貧しい生活が営まれた軍事国家のイメージが強いが、昭和初期まではファッションリーダー的なモボ・モガが闊歩し、さまざまな飲食店が軒を連ね、デパートには多彩な日用品が並んでいました。

こうした生活に景が見えたのが、1930年昭和恐慌以降の事。

1937年盧溝橋事件によって勃発した日中戦争の長期化の兆しが見えると、1938年国家総動員法が制定され国民の生活が一変し始めます。

 

世界恐慌をキッカケに起こる日本の不況・昭和恐慌の原因 世界恐慌による影響で日本国内で起きた不況を昭和恐慌と言います。 為替相場の安定と貿易復興のために金本位制を復活させたり、昔...

 

スポンサーリンク

国家総動員法制定の背景

国家総動員法の歌い文句は【戦争目的達成のために国力を動員する】でした。

国民挙げて戦争目的を達成すると言う、聞こえがいい文言ですが、実態は【国民の私有財産を国が好き放題する法律】で、これにより食料や生活必需品の売り買いが制限されるようになり、鉄や革、布などの物資が接収され、国民は戦場や工場に駆り出されることになります。

この法律こそが日本を貧しい生活が営まれた軍事国家に追いやった元凶だったのです。

 

日中戦争が始まった直後から、第1次近衛文麿内閣は臨時資金調整法輸出入品等臨時措置法を制定し、国内の経済統制を強めてはいたのですが、戦争が長期化したため、国内の統制をさらに強めなければならなくなりました。

そこで首相・近衛文麿は、国民全員に戦時意識を植え付けるキャンペーンとして国民精神総動員運動を提唱し、貯蓄や国債応募、国防献金、物資節約などを呼びかけ始めます。

これが後に【ぜいたくは敵だ!】や【欲しがりません勝つまでは】と言った戦時中の有名なスローガンにまで発展します。

 

また、同時に内閣直属の企画院が設置されると、実際に戦時経済の計画や調整を行う事になります。この国家総動員法も企画院が中心となって立案したものでした。

 

国家総動員法とは??

戦時において国防のために、国内のすべての人的資源・物的資源を統制・運用する権限を政府に与える法律であるのが国家総動員法です。

第一条には国家総動員法の概要が書かれています。

本法律において国家総動員とは、戦争時(戦争に準ずる事変も含む)に際して、国防目的の達成のため国の全力を最も有効に発揮できるよう人的、物的資源を統制し運用することをいう。

 

国家総動員法第2条によれば、【すべての人的資源・物的資源】とは、具体的には次のものを指します。

  1. 兵器、艦艇、弾薬などの軍用物資
  2. 衣服、食糧、飲料、飼料
  3. 医薬品、医療機器、医療器具、その他の衛生用物資、家畜衛生用物資
  4. 船舶、航空機、車両、馬、その他の輸送用物資
  5. 通信用物資
  6. 土木建築用物資、照明用物資
  7. 燃料、電力
  8. 上に挙げたものを生産・修理・配給・保存するのに必要な原料、材料、機械、器具、装置、その他の物資
  9. 上に挙げたもの以外で勅令で指定する物資

と政府が統制運用できるものが細やかに書かれています。

しかも9つ目の項目が、政府の勅令が定めれば、統制・運用できるものを後から拡大できるとされています。これが、白紙委任状と呼ばれている所以です。

 

政府は戦争時には、国家総動員上必要な時は、勅令(ちょくれい)によって国民を徴用して、国家総動員業務に尽かせることができる。ただし、兵役法とかち合うときは兵役法が優先する。

また、第8条には勅令によって物資の生産・修理・配給・譲渡などの使用・消費命令が出せると定められました。

ポイントは、勅令によってです。

勅令とは【天皇による直接の命令】という意味で、国家総動員法に書かれた内容は実行するには、天皇からの命令があればOKであって、帝国議会での民主的なプロセスを踏む必要がないってことになります。

 

実際にさまざまな勅令が定められました。

例えば、国民徴用令

軍需工場の労働力確保のために強制的に国民を徴用できる権限を与える勅令です。当初は、850人の建築技術者が徴用される予定でしたが、1941年以降は大規模になりました。

さらに1945年には他の法令と統合され、国民勤労動員令となり敗戦時に徴用された国民は616万人を上っていました。

 

また、生活必需物資統制令では、米や燃料の生活必需品の生産・配給・消費・価格が全面的に統制されました。これによって国民は配給割り当ての切符で生活必需品を入手しなければならなくなりました。

太平洋戦争がはじまると、物資統制令に引き継がれています。

このほかにも、価格統制令、新聞掲載制限令、国民職業能力申告令など様々な勅令が定められました。

こうして、国家総動員法は国民生活の隅々まで統制されていくことになりました。

 

壊れ始める豊かな国民生活

戦時下の生活は、戦争が長引くにつれて徐々に悲惨なものとなってきました。

まず、1938年の初夏に物資統制が始まると、さまざまな日用品が姿を消していきますが、モノがなければ生活できない国民は世にも奇妙な珍品を誕生させていきます。

カエルや鮭、ウツボの革で作られた靴や鮫革のグローブ、紙やセロハンなどを材料にしたハンドバッグなどが登場しました。

さらに繊維製品の代用として、岩が使われていたのが驚きを隠せません。金属部を取り除いた岩を1300度以上に熱して溶かし、高圧の空気で飛ばすことで出来た糸を編んで衣服を作りました。また、海藻で作った着物なども登場しています。

金属製品の代替品として、バケツや洗面器などは木製なのは想像できますが、セメント製のポストや陶磁の包丁、アイロンなどの珍品も登場しました。

こうした代替品は、戦時と言う非常事態を何とか切り抜けようと言う創意工夫だったのですが、戦争の長期化と共に物資はさらに深刻となりやがて食料すら事欠くようになりました。

 

こうした状況で始まったのが配給制度です。

これは生活必需品の自由販売を禁止して、配布された切符と交換で売り買いを行うもので、米ならば一日大人2~3合までと購入できる量が限定されました。しかし、実際はコメが不足しさつまいもやジャガイモ、大豆などが配給の70%以上を占めました。

そのうえ、遅配や欠配は日を追うごとに常態化していったのです。

食糧不足が深刻化すると、代用品に続き代用食が誕生します。

1941年6月7日の朝日新聞には、食べられる動植物の一覧と調理法が掲載されています。

食用に出来る植物は1000種類、動物は100種類に及び中には驚くようなものもありました。

トカゲは頭を取って焼いて食べる、ゲンゴロウの幼虫は羽を取って焼き、成虫はてんぷらにする。マムシは、皮と内臓を取り照り焼きか塩焼きにすると精が付くとされた。

こうした献立が一般的だったかどうかわかりませんが、代用食はお世辞にもおいしいとはいえるものではなかったようです。

 

資本主義を真っ向から否定する法律の制定

国家総動員法は、1938年1月に法案の議論が始まり、4月には法案が完成。5月から法律が適用となりましたが、同じタイミングでもう一つ重要な法案が成立していました。

それが電力国家管理法

この法律は、各電力会社を統合し一つにまとめ、その会社の経営を政府の支配下に置く法律でした。まさに【民間企業の経営権を政府が奪う】と言う資本主義を真っ向から否定する法律に多く経営者が絶望した様です。

国家総動員法が有名すぎて、影がうすい法律ですが民間企業の露骨な政府介入を認めたこの法律は当時としてもぶっ飛んだ法律だった事は間違いはありません。

 

こうした国民統制で日本(大日本帝国)は、戦争へと突き進んでいくことになりますが、1945年8月15日に敗戦が決まると、国家総動員法は1946年に廃止されます。

しかし、膨大な勅令を出しすぎた事ですぐに廃止する事が出来ずに戦後1950年まで残っていた勅令もあったようです。

 

原爆投下と太平洋戦争の終結 2回に分けて、第二次世界大戦と太平洋戦争までの経緯を書いてきましたが、今回は、太平洋戦争で日本が敗戦したプロセスを書いて行きたいと思...

 

スポンサーリンク
ABOUT ME
歴ブロ・歴ぴよ
歴ブロ・歴ぴよ
歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
記事URLをコピーしました