イタリア史
イタリア半島は、古代にはローマ帝国の中心地でした。古代ローマについては別ページで詳しく扱っているため、ここでは西ローマ帝国が滅亡した後のイタリアから見ていきます。
西ローマ帝国の滅亡後、イタリア半島には東ゴート王国やランゴバルド王国など複数の勢力が登場しました。その後も、北部の都市国家、中部の教皇領、南部の王国などが並び立ち、19世紀まで長期間にわたって政治的な分裂状態が続きます。
その一方で、中世から近世のイタリアでは、ヴェネツィアやジェノヴァなどの商業都市が繁栄し、フィレンツェやローマを中心にルネサンス文化が発展しました。
やがてフランスやスペイン、オーストリアなど周辺の大国がイタリア半島へ介入するようになり、近世のイタリアはヨーロッパ列強の争いとも深く関わるようになります。
18世紀末から19世紀に入ると、フランス革命やナポレオン支配の影響を受け、自由主義やナショナリズムが広がりました。そして19世紀半ば、サルデーニャ王国を中心とする統一運動が進み、1861年にイタリア王国が成立します。
統一後も、南北格差や教皇との対立、「未回収のイタリア」など多くの課題を抱えました。20世紀には第一次世界大戦への参戦、ファシズム政権の成立、第二次世界大戦を経て、1946年に王政が廃止され、現在につながるイタリア共和国が成立しています。
このページでは、西ローマ帝国滅亡後から現代までのイタリア史を、各時代のつながりを意識しながら順番に見ていきます。
| 時代 | 大まかな流れ |
|---|---|
| 西ローマ滅亡~中世前期 (5~8世紀) | 西ローマ帝国滅亡後、東ゴート・東ローマ・ランゴバルドなどが支配 半島の分裂が進む |
| 中世 | 北部都市国家・教皇領・南部王国などに分かれる |
| ルネサンス期 (14~16世紀) | フィレンツェなどで文化が発展 |
| 15~18世紀 | フランス・スペイン・オーストリアなどの影響を受ける |
| 1790年代~1815年 | ナポレオン支配で政治秩序が再編される |
| 19世紀 | イタリア統一運動が進む |
| 20世紀 | ファシズム、第二次世界大戦、共和国へ |
西ローマ帝国滅亡後のイタリア(5~8世紀)
476年に西ローマ帝国が滅亡すると、イタリア半島では支配勢力が次々と入れ替わりました。
オドアケルの支配を経て、東ゴート族のテオドリックが東ゴート王国を築きます。その後、6世紀にはビザンツ帝国(東ローマ帝国)がイタリアを再征服しましたが、568年にはランゴバルド族が北イタリアへ侵入しました。
以後、ビザンツ帝国やランゴバルド勢力などが各地に並立し、8世紀にはフランク王国の介入や教皇領の形成も進みます。
こうしてイタリア半島では、北部・中部・南部で異なる勢力が支配する政治構造が形づくられていきました。
ゲルマン人の傭兵隊長オドアケルがイタリアを支配
東ゴート族を率いたテオドリックがイタリア支配を確立
ユスティニアヌス1世が旧西ローマ領回復を進める
半島各地で東ローマ帝国とランゴバルド勢力が並立する
教皇領形成の基礎となる
北イタリアへのフランク勢力の影響が強まる
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中世イタリアと都市国家(11~15世紀ごろ)
中世のイタリア半島では、北部・中部・南部で異なる政治の形が発達しました。
北部では、ミラノやフィレンツェ、ヴェネツィア、ジェノヴァなどの都市が商業や交易によって成長し、しだいに強い自治権を持つようになります。神聖ローマ皇帝の支配を受けながらも、都市同士の同盟や対立を繰り返し、独自の政治を進める都市も増えていきました。
一方、中部では教皇領が広がり、ローマ教皇が世俗君主として領土を支配します。南部ではノルマン人の進出を経て、シチリア王国などの王国が成立しました。
こうして中世イタリアでは、半島全体を一つの国家が支配するのではなく、都市国家・教皇領・南部王国が並び立つ状態が続きます。この地域差が、後のルネサンスやイタリア統一まで続く重要な特徴となりました。
商業の発展とともに自治を強める
ノルマン人による南イタリア・シチリア支配がまとまる
北イタリア諸都市が神聖ローマ皇帝に対抗する
ミラノ・フィレンツェ・ヴェネツィアなどが有力都市として成長する
北・中・南で異なる政治構造が定着する
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└ 神聖ローマ帝国とロンバルディア同盟
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ルネサンスとイタリア(14~16世紀)
中世後期のイタリアでは、商業や金融によって発展した都市が大きな富を蓄えるようになりました。
特にフィレンツェでは、メディチ家のような有力者が芸術家や学者を支援し、古代ギリシア・ローマの文化を見直そうとする動きが広がります。こうした動きは、やがてルネサンスと呼ばれる文化運動へ発展しました。
また、ヴェネツィアは地中海交易によって繁栄し、ローマでは教皇が芸術や建築を保護します。イタリア各地の都市や君主が競い合うように文化を支援したことも、ルネサンスの発展を後押ししました。
こうしてイタリアは、14~16世紀にかけてヨーロッパ文化の中心地の一つとなっていきます。
古代ギリシア・ローマの文化を見直す動きが広がる
芸術家や学者への保護が進み、フィレンツェがルネサンス文化の中心地となる
ヴェネツィアやミラノなどでも芸術・学問が発展する
教皇による芸術保護が進み、建築・絵画などが大きく発展する
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イタリア戦争と外国勢力の介入(15世紀末~16世紀)
ルネサンス期のイタリアでは、ミラノ・ヴェネツィア・フィレンツェ・教皇領・ナポリ王国など複数の国が並び立ち、互いに勢力を争っていました。
1494年、フランス王シャルル8世がナポリ王国の王位継承権を主張してイタリアへ侵攻すると、これをきっかけにイタリア戦争が始まります。その後はフランスと、スペインや神聖ローマ皇帝を擁するハプスブルク家が、ミラノやナポリなどをめぐって長く争いました。
イタリア諸国もそれぞれ外国勢力と同盟を結びながら戦いましたが、争いが長期化するにつれて、半島の政治にフランスやスペインなどが強く関与するようになります。
1559年のカトー=カンブレジ条約によって戦争が終結すると、ミラノ公国やナポリ王国などではスペイン=ハプスブルク家の影響が強まりました。こうして近世のイタリアは、都市国家や教皇領などの分立を保ちながら、ヨーロッパ列強の国際政治とも深く結びついていきます。
ナポリ王国をめぐる争いからイタリア戦争が始まる
ミラノやナポリなどをめぐって争いが続く
神聖ローマ皇帝カール5世の軍勢によってローマが大きな被害を受ける
イタリア戦争が終結し、スペインの影響力が強まる
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スペイン・オーストリア支配下のイタリア(16~18世紀)
1559年にイタリア戦争が終結すると、フランスに対して優位に立ったハプスブルク家のうち、スペイン系ハプスブルク家がミラノ公国やナポリ王国、シチリア王国などを支配し、イタリア半島で強い影響力を持つようになりました。
一方でヴェネツィア共和国や教皇領、サヴォイア公国などは独自の政治を続けます。イタリア半島全体が一つにまとまることはなく、複数の国家や領域が並立する状態が続きました。
18世紀になると、スペイン継承戦争やオーストリア継承戦争などを通じて支配関係が変化し、北イタリアではオーストリア系ハプスブルク家の影響が強まります。
こうして近世のイタリアは、スペインやオーストリアなど周辺大国の勢力争いに組み込まれながらも、地域ごとに異なる政治体制を保ったまま18世紀末を迎えました。この分裂状態は、のちのナポレオンによる再編やイタリア統一運動の前提となっていきます。
イタリア半島の各地がスペインの勢力圏に組み込まれる
カルロス2世の死後、王位継承をめぐる対立が表面化する
イタリア半島の支配関係が大きく組み替えられる
ミラノなどでオーストリア系ハプスブルク家の影響が強まる
教皇領・ヴェネツィア・サヴォイアなども存続する
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ナポレオン支配とウィーン体制(18世紀末~19世紀前半)
18世紀末に起きたフランス革命は、フランス国内だけでなく、ヨーロッパ各地の政治や社会にも大きな影響を与えました。身分制や旧来の政治秩序を揺さぶり、自由主義や国民主権といった考えが広がっていきます。
その影響はイタリア半島にも及び、1796年にはフランス軍を率いたナポレオンが北イタリアへ進出しました。
各地の旧政権が倒され、フランスの影響下にある共和国や国家がつくられます。その後、ナポレオンが皇帝となると、イタリア半島の一部はイタリア王国やフランス帝国の支配下に組み込まれました。
1815年にナポレオンが失脚すると、ウィーン会議によって旧来の王朝や国家の多くが復活し、北イタリアではオーストリアの影響力が再び強まります。
しかし、フランス革命やナポレオン支配を通じて広がった自由主義やナショナリズムは残り、19世紀前半にはイタリア各地で統一や立憲政治を求める動きが強まっていきました。
フランス革命の影響がイタリア半島に広がる
旧来の政治秩序が大きく再編される
北イタリアの一部がナポレオン体制に組み込まれる
旧王朝の復活とオーストリアの影響力回復が進む
ヨーロッパ各地で革命が広がり、イタリアでも自由主義・ナショナリズムを背景とする蜂起や統一を求める動きが活発化する
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└ フランス革命はなぜ王政を倒したのか?
└ ウィーン体制とは?ナポレオン戦争後のヨーロッパ秩序
└ 1848年革命とは諸国民の春
イタリア統一運動(リソルジメント)(19世紀前半~1861年)
イタリア統一を目指す動きの中で、1831年にマッツィーニは「青年イタリア」を結成し、共和政による統一を目指します。
1848年革命ではイタリア各地でも蜂起が起こりましたが、統一には至りませんでした。その後、統一運動の中心となったのがサルデーニャ王国です。
首相カヴールはフランスの支援を得てオーストリアと戦い、北イタリアの統合を進めました。一方、南部ではガリバルディが義勇軍を率いて両シチリア王国を征服し、その領土をサルデーニャ王ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世に引き渡します。
こうして1861年、サルデーニャ王国を中心にイタリア王国が成立しました。
共和政とイタリア統一を目指す運動が広がる
統一には至らず、その後はサルデーニャ王国を中心とする統一運動へ比重が移る
フランスの支援を受け、北イタリアの統合が進む
両シチリア王国を制圧し、領土を国王に引き渡す
ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世が初代国王となる
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統一後のイタリア王国(1861~20世紀初頭)
1861年にイタリア王国が成立しましたが、この時点では半島統一はまだ完成していませんでした。1866年には普墺戦争をきっかけにヴェネツィアを獲得し、1870年にはフランス軍の撤退を機にローマを占領。翌年にはローマが首都となります。
一方、統一後の国内には大きな課題が残りました。工業化が進んだ北部に対し、南部では農業中心の地域が多く、南北格差が深刻になります。また、ローマ併合によって教皇領を失ったローマ教皇と政府の対立も続きました。
政治面では議会政治が行われましたが、有力政治家同士の結びつきによって政権を維持する傾向も強く、社会の幅広い層が政治に参加するまでには時間を要します。
さらに19世紀末には植民地獲得にも乗り出し、統一国家として列強の一角を目指すようになりました。こうしてイタリア王国は、国内の統合を進めながら、次第にヨーロッパの国際政治にも深く関わっていきます。
サルデーニャ王国を中心に統一国家が成立する
普墺戦争を通じて領土統一が進む
教皇領の大部分を併合し、翌年ローマを首都とする
統一後も地域ごとの経済・社会差が残る
ドイツ・オーストリア=ハンガリーと同盟を結ぶ
列強の一角を目指してアフリカへの進出を進める
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未回収のイタリアと第一次世界大戦(19世紀末~1918年)
イタリア王国は1882年、ドイツ・オーストリア=ハンガリーと三国同盟を結びます。
ところが、イタリアとオーストリア=ハンガリーの間には領土問題が残っていました。オーストリア=ハンガリー領内には、トレンティーノやトリエステなど、イタリア系住民が多く住む地域、いわゆる「未回収のイタリア」と呼ばれる場所がありました。
イタリア国内では、こうした地域を統合すべきだという主張が広がります。
1914年に第一次世界大戦が始まると、イタリアは三国同盟の一員でありながら、当初は中立を選んだ背景には、この未回収のイタリア問題がありました。
その後、協商国側から領土獲得を約束されると、1915年にロンドン秘密条約を結び、オーストリア=ハンガリーへ宣戦。イタリアは協商国側で第一次世界大戦に参戦します。
戦争後には一部の領土を獲得しましたが、期待した領土をすべて得られなかったことへの不満が国内に残り、のちの政治不安やファシズム台頭の背景の一つとなっていきます。
イタリア・ドイツ・オーストリア=ハンガリーが同盟を結ぶ
トレンティーノやトリエステなどの帰属が国内政治の争点となる
イタリアは当初中立を選ぶ
協商国側から領土獲得を約束される
オーストリア=ハンガリーに宣戦し、協商国側で参戦する
戦後の領土処理をめぐる不満が国内に残る
この時代の記事一覧
└ 未回収のイタリアとは?なぜイタリアはオーストリアと対立したのか
└ 三国同盟(1882年)と三国協商(1907年)の成立
ファシズムとムッソリーニ(1919~1943年)
第一次世界大戦による社会不安は各国で政治を揺さぶり、ロシアでは1917年に革命が起こりました。その影響はヨーロッパ各地にも広がり、イタリアでも社会主義運動や労働争議が活発化します。
1919~20年にはストライキや工場占拠が相次ぐ「赤い二年間」と呼ばれる時期を迎えました。こうした動きへの不安や反発は、その後ファシスト勢力が支持を広げる背景の一つとなります。
こうした中で、ムッソリーニが率いるファシスト勢力は勢力を拡大しました。彼らは反社会主義や強い国家を掲げ、保守層や一部の経済界からも支持を集めていきます。
1922年のローマ進軍をきっかけにムッソリーニは首相に任命され、その後、反対勢力を抑えながら独裁体制を築いていきました。
こうしてイタリアでは、議会政治のもとで成立した政権が、しだいにファシズム独裁へと変化していきます。
ムッソリーニが戦闘者ファッシを結成する
ストライキや工場占拠が相次ぎ、政治的対立が激しくなる
国王がムッソリーニを首相に任命する
反対勢力を抑え、ファシスト党による一党支配が進む
イタリア政府とローマ教皇の対立が大きく解消される
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第二次世界大戦とイタリア共和国成立(1940~1946年)
ムッソリーニ政権下のイタリアはドイツとの関係を強め、1939年には鋼鉄協約を締結。1940年には日本・ドイツと日独伊三国同盟を結び、枢軸国の一員として第二次世界大戦を戦いました。しかし、戦況はしだいに悪化し、1943年には連合軍がシチリアへ上陸します。
その後、ムッソリーニは失脚し、イタリア政府は連合国と休戦しました。ただし、ドイツ軍は北部・中部イタリアを占領し、救出されたムッソリーニを首班とする政権を樹立します。これに対し、南部では国王と政府が連合国側に立ち、各地ではパルティザンによる抵抗運動も広がりました。
1945年に戦争が終わると、イタリアでは王政の存続をめぐる議論が進みます。そして1946年の国民投票で王政廃止が選ばれ、イタリア共和国が成立しました。
こうして、1861年に成立したイタリア王国は約85年で終わり、現在につながる共和政の時代が始まります。
ドイツとの軍事的・政治的な結びつきが強まる
イギリス・フランスに宣戦し、枢軸国側として戦争に加わる
日本・ドイツ・イタリアの軍事的・政治的な結びつきが強まる
戦況悪化の中でムッソリーニが失脚する
ドイツ軍が北部・中部を占領し、国内が分裂する
ドイツ軍やファシスト勢力への抵抗が続く
ムッソリーニ政権も崩壊する
イタリア共和国が成立する