近代史

ヒトラーの野望・ファシズムの台頭と第二次世界大戦前夜

歴ブロ

アドルフ・ヒトラーは、1933年にドイツの首相に任命されると、指導者原理主義に基づく一極集中独裁の政治体制を築いたナチスの指導者です。驚くような外交政策と人種主義政策は、世界を第二次世界大戦を導き、ユダヤ人などに対する迫害を引き起こすことになりました。

今回は、そのヒトラーがどのように第二次世界大戦へ進んでいったのかを紹介します。

この頃のドイツとイタリア関係は切っても切れない関係なので、それも踏まえて紹介できればと思います。

 

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ファシズムの台頭

第一次世界大戦後のイタリアでは、ムッソリーニ率いるファシスト党が、国民の団結を訴えていました。1922年にはファシスト党が政権を取り、ムッソリーニがイタリアでの政権の座に付きました。

 

一方ドイツでは、第一次世界大戦処理の1919年ベルサイユ条約で、多額の賠償金を支払う事になり、国内が困窮し経済復興の足かせとなりました。その国内情勢の中で世界恐慌が起こり、ますますドイツ経済が混乱し600万に以上の失業者を出すまでになりました。

ワイマール憲法の下、共和国を支えていた社会民主党政権が揺らぎ始めていました。

 

ヒトラー政権誕生

ドイツでは、社会民主党に代わりドイツ民族の復興を掲げたアドルフ・ヒトラー率いる国会社会主義ドイツ労働者党(以下ナチス)が民衆の心をひきつけていました。

ヒトラーは、民主主義に反対しドイツ民族の優秀さを誇り、感情的宣伝によって多くの国民の支持を集めていきました。

 

1933年1月には、国内の資本家や軍部の支持も獲得し首相に任命されヒトラー政権が誕生します。3月の総選挙前にドイツの国会議事堂放火事件が起き、ナチスは抵抗勢力の共産党の犯行と決め付け、総選挙の結果ナチスは一党独裁政権を獲得しました。

この崩壊事件は、抵抗勢力を叩き落すナチスの計画的犯行だったとも言われています。

ナチスはまず、『全権委任法』【政府が国会や大統領の承認なしで立法権を行使】できる法律を作り、国会の立法権を政府に移し、ナチス以外の政党や労働組合を解散させました。

1934年ヒデンブルク大統領が死去すると、ヒトラーは大統領の権限も合わせて【総統】の地位に付きドイツ国内での独裁者となりました。

 

ドイツ国内のヒトラーの政策

まずは国内の自動車専用道路アウトバーン建設の公共事業と軍事事業失業者対策を行いました。しかし、一方で民主的なワイマール憲法を停止し、民主主義を否定し、言論・出版を厳しく規制し個人の自由を奪い、ユダヤ人を迫害しました。

ユダヤ人だけではなく、政敵の弾圧も行い、国会秘密警察・突撃隊・親衛隊によるイタリアより徹底したファシズム国家を作り上げました。

1933年の秋には、軍備平等権が認められない事を理由に、ドイツは国際連盟を脱退します。

1935年1月、ドイツのザール地方を併合すると、3月にはベルサイユ条約を破棄し軍備強化宣言をします。

1936年イギリス・フランス・ドイツ・イタリア・ベルギーなどの国境の安全保障するロカルノ条約を破棄しラインラントに進駐します。ロカルノ条約の内容に、ラインラントの非武装化も盛り込まれていたそうです。

 

ファシズムとは何?

国家主義的【軍事主義的】独裁政治の事で全体主義と訳されます。

民主主義を否定し…

  • 基本的人権や言論・出版・思想の自由は認められない
  • 対外的には植民地獲得を目指し侵略的政策を行う=軍国主義
  • 中産階級・失業者の不満や社会主義運動に脅威を感じ始めた資本家の危機を背景に社会主義勢力や労働運動に対する抑圧、民族の優越性を掲げる
  • 社会主義・共産主義とは敵対する

イタリアのムッソリーニの動き

イタリアでは、1929年に起きた世界恐慌を対外侵略で乗り越えようと考えたムッソリーニは、1935年エチオピアに侵略し併合します。これに対し国際連盟は、イタリアに経済制裁を行いますが、内容が不十分で効果が得られませんでした。

1937年には、イタリアが国際連盟を脱退します。同時に、バルカン半島の南西部にあるアルバニアは、イタリアとの関係を深め、恐慌後は財政援助を受け、次第に従属化していくのでした。

1939年、イタリアはそのアルバニアに侵攻し1943年にはアルバニアを併合します。

こうして、イタリアも世界恐慌による経済不況を対外侵略で乗り越えるために周辺の国を併合していきました。

 

ナチスドイツの侵略とスペイン内戦

ドイツを中心としたファシズムの動きに対抗し、民主主義を唱える人々が選挙協力を行いまいた。また、共産主義者も革命戦略を変更し、国内の民主主義勢力と手を結びファシズムに抵抗する方針を出しました。

こうした民主主義者と共産主義者の統一戦線を人民戦線と呼びます。

【大戦の前哨戦・スペイン内乱】

こうした人民戦線運動が、フランスやスペインで起きました。

1936年、共産党を含む左翼勢力によって、人民戦線内閣がスペインで作られます。

モロッコでは、フランコ将軍を中心とする軍部勢力が旧王党派や地主層など保守派の支持を得て反乱を起こしました。この内乱では、政府軍をソ連が、フランコ将軍をドイツとイタリアが援助しました。

イギリスとフランスは内乱がヨーロッパ各地に拡大する事を恐れ、不干渉政策をとる事に…

このスペインの内乱後の1939年9月1日のわずか5か月後にドイツによるポーランド侵攻による第二次大戦が勃発したことで、このスペイン内戦が【第二次世界大戦の前哨戦】と言われるようになりました。

このフランコ将軍を支援したドイツ軍は、ドイツ新兵器の実験のために参戦したとも言われており、その新兵器がスペインの街ゲルニカが破壊されました。

※破壊されたスペイン・ゲルニカの街

 

1939年、フランコ軍がマドリードを陥落させスペイン統一をさせました。その後は、国際連盟も脱退し、ドイツや日本と同じ道を歩むかと思われましたが、第二次大戦が勃発すると一転、中立を宣言し戦争よりも国内の立て直し優先させることに…

1940年には、ドイツ・イタリア・日本日独伊三国軍事同盟が締結され三国の結束が強化されました。

 

第二次世界大戦勃発

話が少し戻りますが、1930年代、イギリスとフランスは強国ソ連と対抗するためとドイツの不満を和らげるために、再軍備や旧領土の回復を認める宥和措置を取りました。この宥和策に乗じてドイツは次々と領土拡大に果たしていくのですが、イギリスとフランスは国益を優先し、ドイツを放置していました。

 

1938年、ドイツは東ヨーロッパへの侵攻を行いました。

3月には、ドイツ人が多く住んでいたオーストリアを併合。同じく、ドイツ人が多く住んでいた、ェコスロバキアのズデーテン地方の分割を要求しました。

1938年9月ミュンヘン会議では、イギリス・フランス・ドイツ・イタリアの首脳が集まり、チェコスロバキアを参加させずにズデーテン地方のドイツへの割譲を認めました。

この会議で、イギリスの宥和政策による解決を図り、戦争回避を優先したが、ドイツの侵略を阻止するまでには至りませんでした。

さらにドイツは、1939年チェコスロバキアの解体を強行し、西半分を保護領に、東半分のスロバキアを保護国とし、戦争に協力させポーランドへの侵略をねらいます。

一方でイギリスやフランスドイツの侵攻を阻止するために、ソ連と結ぼうとしますが、ソ連はドイツとの戦争を避けようと考えていたので、より良い返事がありませんでした。

1939年8月に、 独ソ不可侵条約が結ばれ、後顧の憂いを絶ち準備を整えたドイツは、ポーランドへの進撃を開始するのでした。この侵攻にイギリスとフランスはただちにドイツに宣戦布告し、ここに連合国と枢軸国との間で第二次世界大戦が始まるのでした。

 

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歴ブロ・歴ぴよ
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歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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