イタリア統一とは?カヴール・ガリバルディ・サルデーニャ王国の役割
19世紀のヨーロッパは、自由主義やナショナリズムの動きが広がっていました。
フランスでは七月革命や二月革命が起こり、オーストリア帝国では多民族問題が表面化し、いくつもの国や地域が分かれていたドイツやイタリアでは「一つの国家としてまとまりたい」という動きが強まっていきます。
今回は、サルデーニャ王国に加えて、イタリア統一を実現させる大きな功績を残した「三英傑」として知られるマッツィーニ、カヴール、ガリバルディの動きを中心に、イタリア統一の流れを見ていきます。
- 簡単なイタリア統一の流れ
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19世紀初めカルボナリが成立
カルボナリは、イタリアで自由主義や立憲政治を求めた秘密結社。ウィーン体制後の保守的な秩序に反発する人々の間に広がり、後のナポリ革命やピエモンテ革命にも関わっていく。
※自由主義思想は18世紀末のフランス革命でヨーロッパに拡大した
1815年ウィーン会議後、イタリアの分裂状態が続くナポレオン戦争後のウィーン会議によってイタリア半島は一つの国にはならず、複数の国や地域に分かれた状態が続いた。北イタリアでは、オーストリアの影響力が強く残ることに。
1820年ナポリ革命カルボナリの影響を受けた立憲革命が起こり、両シチリア王国の国王に憲法を認めさせたが、オーストリアの介入によって革命は失敗。
1821年ピエモンテ革命サルデーニャ王国のピエモンテ地方でも、立憲政治を求める革命が発生するが、この動きも成功せず、初期の統一運動は挫折した。
1831年マッツィーニが青年イタリアを結成マッツィーニは共和主義の立場からイタリア統一を目指し、青年イタリアを結成。すぐに統一が実現したわけではないが、イタリア統一運動の思想的な流れが広がった。
1848年ミラノ・ヴェネツィアで反オーストリア運動1848年革命が広がる中で、北イタリアのミラノやヴェネツィアでも反オーストリア運動が発生。イタリア統一を目指す動きがヨーロッパ各地の革命と結びついて表面化した。
1848〜49年サルデーニャ王国がオーストリアと戦うサルデーニャ王国が北イタリアの反オーストリア運動に呼応してオーストリアと戦うが、オーストリア軍に敗れ、統一運動に失敗。
1852年カヴールがサルデーニャ王国の首相となるカヴールは、サルデーニャ王国を中心にイタリア統一を進めようとした政治家。国内の近代化を進めるとともに、外交によってオーストリアに対抗する道を探っていくことに。
1855年サルデーニャ王国がクリミア戦争に参加サルデーニャ王国はクリミア戦争に参加。ヨーロッパ外交の場に出るきっかけに。カヴールは、イタリア問題を国際的な問題として訴えた。
1858年プロンビエール密約カヴールがフランス皇帝ナポレオン3世と密約を結び、オーストリアとの戦争になった場合にフランスの支援を得る約束。その見返りとして、ニースとサヴォイアをフランスへ渡すことに。
1859年フランス・サルデーニャ連合軍がオーストリアと戦うフランスの支援を受けたサルデーニャ王国がオーストリアと戦う。マジェンタの戦い、ソルフェリーノの戦いで連合軍が勝利し、北イタリアの情勢が大きく動いた。
1859年サルデーニャ王国がロンバルディアを獲得戦争の結果、サルデーニャ王国はロンバルディアを獲得。ただし、ナポレオン3世が途中でオーストリアと講和したため、ヴェネツィアの獲得までは進まず。
1860年ニース・サヴォイアがフランスへフランスの支援を受けた見返りとして、サルデーニャ王国がニースとサヴォイアをフランスへ割譲。ガリバルディの出身地ニースもフランス領となったため、この点はガリバルディにとって不満の残る出来事だった。
1860年ガリバルディの南イタリア遠征ガリバルディが赤シャツ隊と呼ばれる義勇軍を率いてシチリアへ上陸。その後、南イタリア本土へ進み、両シチリア王国を攻略していくことに。
1861年イタリア王国成立サルデーニャ王国を中心に、イタリア王国が成立。国王にはヴィットーリオ=エマヌエーレ2世が即位するが、この時点ではヴェネツィアとローマはまだ加わっていない。
1866年普墺戦争の結果、ヴェネツィアを獲得プロイセンとオーストリアの間で普墺戦争が起こると、イタリアはプロイセン側について参戦。戦争の結果、オーストリアの影響力が後退し、イタリアはヴェネツィアを獲得した。
1870年普仏戦争の中でローマを併合普仏戦争が起こってフランス軍がローマから撤退したことにより、イタリア王国がローマを併合。教皇領として残っていたローマもイタリア王国に加わった。
1871年ローマがイタリア王国の首都となるローマがイタリア王国の首都となる。これにより、イタリア統一は大きく完成に近づくが、教皇との対立など、統一後の課題も残った。
イタリア統一とは?
イタリア統一とは、19世紀に分裂していたイタリア各地が、サルデーニャ王国を中心にまとまり、イタリア王国が成立していく動きのことです。
このイタリア統一運動は、イタリア語で「リソルジメント」と呼ばれます。リソルジメントは、直訳すると「再興」や「復興」といった意味を持ちます。
では、なぜ「統一」や「再興」が必要だったのでしょうか。
その理由は、19世紀前半のイタリアが、まだ一つの国家ではなかったからです。下の地図を見ると分かるように、当時のイタリア半島には多くの国や地域が存在していました。

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北西部にはサルデーニャ王国、北東部にはロンバルディア=ヴェネツィア王国、中央部には教皇領、南部には両シチリア王国があったほか、トスカーナ大公国、パルマ公国、モデナ公国などの小国も存在しています。
このうち、北イタリアのロンバルディア=ヴェネツィア王国は、ウィーン体制後にオーストリア帝国の支配下に置かれていました。そのため、イタリア統一を進めるには、オーストリアの影響力を弱める必要がありました。
また、中央イタリアにはローマ教皇が支配する教皇領が広がっていました。教皇領は中世以来の歴史を持つ地域で、19世紀のイタリア統一でも大きな問題になります。
一方、南イタリアを支配していたのが両シチリア王国です。ナポリとシチリアを含むこの王国は、のちにガリバルディが遠征し、イタリア統一の流れに組み込まれていきます。
南イタリアのナポリ王国とシチリア王国は、中世以来、フランス系・アラゴン系の王家や神聖ローマ帝国とも関係しながら複雑な歴史を持っていました。
19世紀、ナポレオン戦争時のごたごたをきっかけに両者が統合され、両シチリア王国として南イタリアを支配することになっています。
つまり、19世紀前半のイタリアは、オーストリアの影響、教皇領の存在、南イタリアの王国など、いくつもの問題を抱えていたのです。
マッツィーニと青年イタリアの結成
イタリア統一運動の先駆けとして重要なのが、マッツィーニです。
マッツィーニも、若いころにはカルボナリの影響を受けていました。
しかし、カルボナリによる初期の革命運動は、オーストリアの介入や各国政府の弾圧によって失敗していきます。ナポリ革命やピエモンテ革命は起こったものの、イタリアを一つの国家にまとめるところまでは進みませんでした。
そのような中でマッツィーニはカルボナリの組織としての限界を感じ、1831年に青年イタリアを結成します。
青年イタリアは、統一された共和政イタリアを目指す運動でした。カルボナリの流れを受けつぎながらも、「イタリアを一つの国にする」という目標をよりはっきり掲げています。
1848年革命とイタリア統一運動の失敗
1848年、ヨーロッパ各地で革命が起こりました。
フランスでは二月革命によって七月王政が倒れ、第二共和政が成立。オーストリア帝国ではメッテルニヒが失脚し、ドイツでも自由主義やナショナリズムの動きが強まります。
この流れはイタリアでも同様で、1848年革命は大きな転機となりました。
北イタリアのミラノやヴェネツィアでは、オーストリアに対する反乱が起こります。これに呼応して、サルデーニャ王国もオーストリアに宣戦しました。
サルデーニャ王国は、イタリア統一を目指す人々から期待されましたが、この時点での統一運動は成功しません。オーストリア軍が巻き返し、サルデーニャ王国は敗北します。1849年のノヴァラの戦いで敗れた国王カルロ=アルベルトは退位し、王位はヴィットーリオ=エマヌエーレ2世へと移りました。
この1848年の失敗後、イタリア統一運動は新しい段階に入っていきます。
マッツィーニのような共和主義者による蜂起だけでは、オーストリアに対抗することは困難でした。そこで、正規軍と外交力を持つサルデーニャ王国が、統一運動の中心としてより重要な存在になっていきます。
サルデーニャ王国とカヴール
サルデーニャ王国のうち統一運動の中心になったのは、現在の北西イタリアにあるピエモンテ地方でした。都はトリノです。
かつてイタリアで起きた自由主義運動・ピエモンテ革命の発生した地域でもあります。
ピエモンテ革命はカルボナリの影響を受けていた自由主義者や軍人、知識層が中心です。
1848年以降、サルデーニャ王国が統一に向けて動いている中でも、彼らの動きが完全になくなっていたわけではありませんでした。
国王は1848年革命の失敗で代替わりしていたヴィットーリオ=エマヌエーレ2世。そして、統一運動を外交面から進めたのが、首相カヴールです。
カヴールは、マッツィーニのような共和主義者ではありません。サルデーニャ王国を中心に王国が主導してイタリアをまとめようとしていきました。
サルデーニャ王国の近代化を進めるために、鉄道の建設、産業の育成、財政や経済を整備。サルデーニャ王国を「統一の中心になれる国」へと育てようと現実的な施策を行っていきます。
もちろん国内改革だけではオーストリアを追い払うことはできないため、内政と同時にカヴールは外交も精力的に行います。
カヴールは、サルデーニャ王国をヨーロッパ外交の場に出すため、クリミア戦争に参加しました。
クリミア戦争はイタリア統一と直接関係のある戦争ではありませんが、サルデーニャ王国はこの戦争に参加することで、パリ講和会議に出席するきっかけを獲得。そこで、イタリア問題をヨーロッパの国際問題として訴えました。
カヴールは、ヨーロッパ外交の中でイタリア統一を進めようとしたのです。
フランスの支援とオーストリアとの戦争
カヴールが接近した相手が、フランス皇帝ナポレオン3世でした。
ナポレオン3世は、フランス第二帝政の皇帝です。彼はイタリア統一に一定の関心を持っていました。
第二帝政期のナポレオン3世は、国内では強い権限を持ちながら、経済発展や対外政策によってフランスの威信を高めようとしていたため、クリミア戦争やイタリア統一への関与も積極的に行っていたのです。
フランスとの共闘
1858年、カヴールはナポレオン3世とプロンビエール密約を結びます。
この密約では、オーストリアとの戦争になった場合にフランスがサルデーニャ王国を支援することが約束されました。その見返りとして、サルデーニャ王国はニースとサヴォイアをフランスへ渡すことになります。
そして1859年、サルデーニャ王国はフランスの支援を得てオーストリアと戦いました。
ロンバルディアの獲得
フランス・サルデーニャ連合軍は、マジェンタの戦い、ソルフェリーノの戦いでオーストリア軍に勝利します。
その結果、サルデーニャ王国はロンバルディアを獲得しました。これはイタリア統一にとって大きな前進となります。
ところが、ナポレオン3世は途中でオーストリアと講和してしまいます。
フランス国内に戦争の犠牲に対する不満や戦争の長期化でオーストリア側に立つドイツ諸国やプロイセンが動き始める可能性が高まっていたのです。
加えて、フランスはローマ教皇を保護する立場にもあり、イタリア統一が進みすぎると、いずれ教皇領の問題にぶつかることになります。
こうした理由から、ナポレオン3世はイタリア統一を助けるとしても一定の線引きがなされていました。
結果として、サルデーニャ王国はロンバルディアを獲得できましたが、ヴェネツィアはまだオーストリア側として残ることになります。
ガリバルディと南イタリア
北イタリアでカヴールが外交を進めていたころ、南イタリアではガリバルディが動きます。
ガリバルディは、イタリア統一運動で活躍した軍事指導者です。マッツィーニの影響も受けた共和主義的な革命家で、義勇軍を率いて各地で戦いました。
1860年、ガリバルディは「赤シャツ隊(千人隊)」と呼ばれる義勇軍を率いてシチリアへ上陸します。このシチリアを攻略したうえで南イタリア本土にも進むと、両シチリア王国を倒し、ナポリへ入りました。
ところが、ガリバルディは、南イタリアを自分の領地にしたわけではありません。
両シチリア王国を追いつめたあと、ガリバルディはヴィットーリオ=エマヌエーレ2世と会見。征服した南イタリアをサルデーニャ王国側へ献上します。こうして、北・中部イタリアへ勢力を広げていたサルデーニャ王国に、ガリバルディが征服した南イタリアが加わり、翌1861年にイタリア王国が成立しました。
ただし、カヴールとガリバルディは、最初から同じ立場だったわけではありません。
カヴールは、サルデーニャ王国を中心に外交と戦争で統一を進めようとした政治家だった一方、ガリバルディは共和主義的な考えも持つ革命家です。国王を中心とする統一とは、もともと違う方向性を持っていました。
それでもガリバルディは、イタリア統一を優先し、南イタリアをヴィットーリオ=エマヌエーレ2世に譲ります。
こうして、カヴールが進めた王国外交と、ガリバルディの軍事行動が結びつき、イタリア統一は大きく前進しました。
1861年、イタリア王国成立
こうして成立したイタリア王国。ここで、イタリアはサルデーニャ王国のヴィットーリオ=エマヌエーレ2世を国王としてイタリア半島の大部分が一つの王国としてまとまりはじめます。
しかし、この時点でイタリア統一が完全に終わったわけではありません。まだ、ヴェネツィアとローマがイタリア王国に加わっていなかったためです。
ヴェネツィアはオーストリアの支配下に残り、ローマはローマ教皇が支配する教皇領として残っていました。さらに、ローマにはフランス軍が駐留し、教皇を保護していました。
そのため、1861年にイタリア王国は成立したものの、現在のイタリアに近い形になるまでには、もう少し時間がかかることになります。
ヴェネツィアとローマの併合
イタリア王国成立後も、統一への流れは続きました。
最初にイタリアへ統合されたのがヴェネツィアでした。この統合のきっかけになったのが、1866年のプロイセンとオーストリアの間で起きた普墺戦争です。
イタリアはプロイセン側について参戦します。戦争ではプロイセンがオーストリアに勝利し、その結果、イタリアはヴェネツィアを獲得しました。
プロイセンがオーストリアを破ったことでオーストリアの影響力は後退し、イタリアはヴェネツィアを得ることができたのです。
そして、いよいよ扱いの難しかったローマの番です。
ローマにはフランス軍が駐留して教皇を保護していたため、イタリア王国はすぐにローマを併合することができませんでした。
しかし1870年に普仏戦争が起こったことで事態は変わります。
フランスはプロイセンとの戦争に対応するため、ローマから軍を撤退させました。これによって、イタリア王国はローマを併合。1871年、ローマがイタリア王国の首都となりました。
これにより、イタリア統一は大きく完成へ近づきました。
イタリア統一はヨーロッパ再編の一部だった
このイタリア統一への動きは19世紀ヨーロッパ全体の再編の一部だったので、他のヨーロッパで起きた政治体制の変動やパワーバランスの変化も同時に見ることで理解が深まるかもしれません。
イタリア統一には、次のような動きが関係しています。
- ウィーン体制後のヨーロッパ秩序
- 1848年革命の失敗
- オーストリア帝国の影響力
- フランス第二帝政の外交
- サルデーニャ王国の成長
- プロイセンの台頭
- 普墺戦争
- 普仏戦争
- ドイツ統一
ウィーン体制では、ヨーロッパの秩序を守るためにオーストリアが大きな役割を持っていましたが、19世紀後半になると、そのオーストリアの力は少しずつ後退していきます。
そのオーストリアは、北イタリアでもロンバルディア=ヴェネツィア王国を支配し、イタリア統一の大きな壁となっていました。「一つのイタリア」の主導的立場を目指したサルデーニャ王国がフランスの支援を得て、ロンバルディアを獲得します。
上の文章には書かれていませんが、フランス革命やナポレオン戦争を通じて広がった自由主義やナショナリズムの影響も大きく関わっています。
19世紀ヨーロッパ史を見ていると、ナポレオンの影響がさまざまな場面に残っていることが分かりますね。
さらに、普墺戦争でプロイセンがオーストリアに勝利したことで、イタリアはヴェネツィアを獲得。普仏戦争でフランスがローマから退いたことで、イタリアはローマを併合しました。
こうして見ると、イタリア統一は単独で進んだ出来事でないのが分かります。
フランス第二帝政、オーストリアの後退、プロイセンの台頭、ドイツ統一と深く関わりながら進んだ出来事だったのです。







