イタリア王国成立から領土統一へ/南北格差と「未回収のイタリア」を抱えた国家
19世紀半ばまで、イタリア半島はいくつもの国家に分かれていました。
その状況を大きく変えたのが、サルデーニャ王国を中心に進められたイタリア統一です。1861年にはイタリア王国が成立し、その後も領土的な統一が進められていきました。
こうして一つの国家が誕生すると、今度は異なる歴史や社会を持つ地域をどのようにまとめていくのかが大きな課題となります。さらに19世紀後半には、イタリアもヨーロッパ列強の一員を目指して海外進出を進めていきました。
今回は、統一後のイタリア王国がどのような国家をつくり、国内外にどのような課題を抱えていったのかを見ていきます。
イタリア王国成立から領土統一へ
1861年に成立したイタリア王国の国王となったのは、サルデーニャ王ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世です。
この時点では、北東部のヴェネトがオーストリアの支配下にあり、ローマを中心とする教皇領も独立した状態にありました。
そのため、イタリア王国成立後も領土的な統一は続き、1866年のヴェネト獲得、1870年のローマ併合へと進んでいきます。
普墺戦争を利用してヴェネトを獲得
イタリアが次に領土を拡大する機会となったのが、1866年の普墺戦争でした。
プロイセンとオーストリアがドイツ世界の主導権をめぐって争うなか、イタリアはプロイセン側に立って参戦します。
イタリア軍自身は戦場で思うような成果をあげられませんでしたが、最終的にプロイセンがオーストリアに勝利したため、戦争後にヴェネトを獲得しました。
これによって、イタリア北東部の統一がさらに進みます。
普仏戦争をきっかけにローマを併合
イタリア統一を進める過程で、フランスは重要な役割を果たしてきました。
1859年には、サルデーニャ王国とともにオーストリアと戦い、ロンバルディアの獲得につながります。さらに1866年の普墺戦争後には、オーストリアがヴェネトをいったんフランスへ譲り、そこからイタリアへ引き渡されました。
こうしてフランスは、イタリア統一を後押しする場面があった一方、ローマでは教皇を保護する立場をとっていました。
当時のローマにはフランス軍が駐屯しており、ナポレオン3世は教皇領を守っていました。そのため、イタリア王国にとってローマ併合にはフランスとの関係を考える必要がありました。
状況が大きく動いたのが1870年の普仏戦争です。
フランスはプロイセンとの戦争に対応するため、ローマに駐屯していた軍隊を引き揚げました。これを受けてイタリア軍はローマへ進出し、教皇領を併合します。
翌1871年にはローマがイタリア王国の首都となり、1861年の建国から約10年を経て、イタリアの領土的な統一はほぼ完成しました。
統一したイタリア王国はどんな国だったのか
1870年のローマ併合によって領土的な統一がほぼ完成すると、イタリア王国では各地域を一つの国家としてまとめるための取り組みが進められました。
それまでのイタリア半島には、サルデーニャ王国や両シチリア王国、教皇領など、それぞれ異なる政治制度や社会を持つ地域が存在していました。
統一後のイタリアにとって、こうした地域を共通の制度のもとにまとめていくことが大きな課題となります。
サルデーニャ王国の制度を全国へ広げる
新しいイタリア王国の基礎となったのが、統一運動を主導したサルデーニャ王国でした。サルデーニャ王国の憲法や行政制度をもとに、中央集権的な国家制度がイタリア各地へ広げられていきます。
つまりイタリア統一は各地域が新しい制度を共同で作り上げるのではなく、サルデーニャ王国の制度を全国へ拡大していく形で進められました。
こうして政治や行政の統一が進む一方、各地域にはそれまでの歴史や社会、経済状況の違いが残っていました。
ローマ併合後に続いた教皇庁との対立
ローマ併合によって、イタリア王国と教皇庁の関係も大きく変わりました。
教皇ピウス9世は教皇領の併合に強く反発し、イタリア政府との対立を深めます。
イタリア政府は1871年に教皇の地位や権利を保障するための法律を定めましたが、教皇庁との関係は改善せず、両者の対立は長期化しました。
この問題は「ローマ問題」と呼ばれます。
ローマがイタリア王国の首都となったあとも、国家と教皇庁の関係は統一後の重要な政治課題として続きました。
最終的にローマ問題が解決したのは1929年。ムッソリーニ政権とローマ教皇庁の間でラテラノ条約が結ばれ、ヴァチカン市国が成立しました。
1870年以来続いていた問題を解決したことは、ファシスト政権にとっても大きな政治的成果となり、ムッソリーニ政権の威信を高めることにもつながりました。
南北格差はなぜ大きな問題になったのか
統一後のイタリアが抱えた大きな問題の一つが、北部と南部の社会・経済格差です。
19世紀後半になると、北部では工業化が進み、とくにミラノ・トリノ・ジェノヴァを中心とする北西部が工業地域として発展していきました。
一方、南部では農業への依存が強く、大土地所有が広がる地域も多くありました。交通網や教育、産業の発達にも地域ごとの差があり、統一後も北部と南部では経済や社会の状況に大きな違いが残ります。
もちろん北部にも貧しい農村地域があり、南部にも都市や商業の発達した地域も存在していました。それでも、南部では貧困や産業基盤の弱さが目立ち、統一後のイタリアにとって重要な社会問題となっていきます。
南部では武装抵抗も起こった
統一直後の南部では、新政府に対する反発が広がり、各地で武装抵抗が起こりました。
その背景には、旧両シチリア王国への支持や新政府の政策への不満、土地をめぐる問題など、さまざまな事情がありました。
こうした武装勢力を率いた人物の一人がカルミネ・クロッコです。クロッコらの活動は、統一後の南部で起きた武装抵抗を象徴する存在として知られています。
イタリア政府は軍隊を投入して鎮圧を進めました。
この動きからは、政治的な統一のあとも、各地域を一つの国家としてまとめていくには時間が必要だったことが分かります。
多くのイタリア人が海外へ移住
19世紀後半から20世紀初頭にかけて、イタリアから海外へ移住する人々が急増しました。
とくに南部をはじめとする農村では、土地不足や貧困、人口増加などを背景に、多くの人々が新しい生活の場を海外に求めます。
主な移住先となったのが、アメリカ合衆国やアルゼンチン、ブラジルなどでした。こうした大量移民は、統一後のイタリアが抱えていた社会・経済問題とも深く関係しています。
北部と南部の経済格差はその後もイタリア社会の課題として残り、形を変えながら現在まで続いています。
イタリアは列強の仲間入りを目指した
19世紀後半は、ヨーロッパ列強がアジアやアフリカへの進出を強め、植民地や勢力圏をめぐる競争が激しくなった時代です。
イギリスやフランスに加え、1871年に統一を完成させたドイツも国際政治で存在感を強め、列強どうしの関係も複雑になっていきました。
こうしたなか、統一を終えたイタリアも国際的な地位を高め、ヨーロッパ列強の一員となることを目指します。外交関係を広げるとともに、アフリカでの植民地獲得にも乗り出していきました。
三国同盟に加わったイタリア
1882年、イタリアはドイツ、オーストリア=ハンガリーと三国同盟を結び、ヨーロッパの国際政治にも関わりを深めていきます。
一方、オーストリア=ハンガリー領内には、トレンティーノやトリエステなど、イタリアの民族主義者が自国への編入を求める地域が残っていました。
こうした地域は「未回収のイタリア」と呼ばれます。
つまりイタリアは、オーストリア=ハンガリーと同盟を結びながら、領土をめぐる問題も抱えていました。この問題は、その後の第一次世界大戦におけるイタリアの外交にも関わっていきます。
アフリカへ進出するイタリア
イタリアが列強としての地位を高めるために力を入れたもう一つの政策が、植民地獲得でした。
紅海沿岸のエリトリアを植民地とし、ソマリア方面にも勢力を拡大。さらにエチオピアへの進出を図ります。
ところが1896年、イタリア軍はアドワの戦いでエチオピア軍に大敗しました。
当時はヨーロッパ諸国によるアフリカ分割が進んでいましたが、エチオピアはイタリア軍を破り、独立を維持します。アフリカの国家がヨーロッパの軍隊に勝利した出来事としても知られています。
このころのアフリカでは、列強どうしの対立も激しくなっていました。
1898年には、スーダンのファショダでイギリスとフランスの勢力が対峙するファショダ事件が起こっています。
それでもイタリアは海外進出を諦めませんでした。
1911年にはオスマン帝国とのイタリア=トルコ戦争を始め、翌1912年には現在のリビアの一部などを獲得しました。
このように統一後のイタリアは、国内に南北格差などの問題を抱える一方、対外的には植民地獲得を進め、列強としての国際的な地位を高めようとしていきました。
統一後のイタリア王国はどこへ向かったのか
1861年に成立したイタリア王国は、ヴェネトやローマを加えて領土的な統一を進めたあと、異なる歴史や社会を持つ地域を一つの国家としてまとめる段階に入りました。
国内ではローマ問題や南北格差、南部の武装抵抗、大量移民などが、国家統合の難しさを示しています。
一方、対外的には三国同盟への参加や植民地獲得を通じて、ヨーロッパ列強の一員としての地位を高めようとしました。その過程では、同盟国オーストリア=ハンガリーとの間に「未回収のイタリア」をめぐる問題も残ります。
つまり統一後のイタリア王国は、国内では一つの国家としてのまとまりを築き、国外では列強としての地位を高めるという二つの課題に向き合いながら20世紀を迎えた国家だったといえるでしょう。
そして「未回収のイタリア」をめぐる問題は、第一次世界大戦が始まると、イタリアの外交を左右する要因の一つとなっていきます。






