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フランス第二帝政とは?ナポレオン3世の政治とヨーロッパへの影響

歴ブロ

1848年の二月革命によってフランスでは七月王政が倒れ、第二共和政が成立。これにより再び共和政へ戻りますが、第二共和政も長く続きませんでした。

男子普通選挙のもとで大統領に選ばれたルイ=ナポレオンがやがてクーデタを起こし、皇帝ナポレオン3世として即位したからです。

こうしてフランスでは、ナポレオン1世の第一帝政に続いて第二帝政が始まりました。

今回は、第二共和政から第二帝政への流れ、ナポレオン3世の内政、対外政策、そして普仏戦争による崩壊までを見ていきます。

ナポレオン3世の政治は、次に出てくるイタリア統一やドイツ統一にも深く関わるため、19世紀後半のヨーロッパ再編を学ぶ上で重要になるので押さえておきたい部分です。

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フランス第二帝政とは?

フランス第二帝政とは、1852年から1870年まで続いた、ナポレオン3世による帝政のことです。

れきぶろ
れきぶろ

第一帝政がナポレオン=ボナパルトが皇帝となった体制を指しているのに対して、第二帝政はナポレオン1世の甥であるルイ=ナポレオンが、ナポレオン3世として皇帝になった体制を指しています。

第二帝政はいきなり生まれたわけではありません。

フランス革命後のフランスは、

  1. 絶対王政
  2. 立憲君主政
  3. 共和政
  4. 第一帝政
  5. 復古王政
  6. 七月王政
  7. 第二共和政
  8. 第二帝政

というように、政治体制が何度もころころと変わっていました。

第二帝政も、この政治体制の変化の中で生まれました。

ルイ=ナポレオンの大統領当選

1848年の二月革命によって七月王政が倒れ、その後フランスに成立したのが第二共和政でした。

第二共和政では男子普通選挙が実施され、この選挙制度のもとで、1848年12月、ナポレオン1世の甥ルイ=ナポレオンが大統領に当選します。

この「ナポレオン」という名前は、当時のフランス社会にとって大きな意味を持っていました。ナポレオン1世の時代を、フランスの栄光の時代として記憶していた人々も多かったからです。

また、二月革命後のフランスでは、政治的な混乱や社会不安も続いていました。

  • 労働者の不満
  • 保守層の警戒
  • 農民層の生活不安

などが重なり、多くの人々が安定した政治を求めるようになります。

革命後の混乱期、秩序や安定を求める空気が強まっていたなかで「ナポレオン」の名は多くのフランス国民の支持を集めたのです。

クーデタから皇帝即位へ

大統領になったルイ=ナポレオンでしたが、やがて議会と対立していきます。大きな問題の一つとなったのが、大統領の任期制限です。当時の憲法では大統領が続けて再選されることは認められていませんでしたが、ルイ=ナポレオンは権力を手放そうとしませんでした。

議会との対立が深まる中で、ルイ=ナポレオンは軍や警察の要職に自分に近い人物を置き、権力基盤を固めていきました。

そして、1851年12月2日。ルイ=ナポレオンはクーデタを起こします。

12月2日は過去にナポレオン1世が皇帝に即位した日であり、アウステルリッツの戦い(1805年)で勝利した日でもあります。

あえてこの日を選ぶことで、ナポレオン1世の記憶を利用したともいえます。

このクーデタ後にルイ=ナポレオンは国民投票を行い、自分の権力を正当化。さらに、ルイ=ナポレオンはクーデタのちょうど一年後…1852年に皇帝ナポレオン3世として即位しました。

こうして、第二共和政は終わり、第二帝政が始まります。

ナポレオン3世のクーデタは、国民投票があったことからも分かるように単に武力だけで権力を握ったわけではありません。普通選挙や国民投票を利用して「国民に支持された皇帝」という形を作ろうとしています。

このように、強い皇帝権力と国民投票を組み合わせた政治はボナパルティズムと呼ばれることがあります。

初期の第二帝政は権威主義的だった

第二帝政は常に同じ性格の体制だったわけではありません。初期は、皇帝の権力が非常に強い体制を作り上げようとしていました。

議会の力は制限され、言論や出版の自由も強く抑えられています。反対派の活動も厳しく取り締まられ、共和派や社会主義者の中には亡命する人までおり、権威主義的な政治体制だったといえます。

そんな感じで政治的な自由を制限する中、ナポレオン3世は経済発展や都市改造を進めていきます。

経済発展と近代化政策

ナポレオン3世の時代にフランスでは経済発展が進みました。

鉄道建設が進み、国内の交通網が整備されていきます。交通網が発達すると、人や物の移動が容易になり、結果、商業や工業の発展にもつながりました。

さらに、商業や工業が発展すると、銀行や金融機関の発展も進みます。

大規模な事業を進めるには多くの資金が必要であり、鉄道建設、都市改造、産業投資などには、金融の発展が大きく関わったのです。

さらに、ナポレオン3世の時代には万国博覧会(1867年)も開かれます。万国博覧会は、各国が工業製品や技術、文化を示す場です。フランスにとっては、自国の発展や国威を内外に示す機会にもなりました。

れきぴよ
れきぴよ

万博には江戸幕府からは徳川昭武が派遣され、渋沢栄一も随員として同行していました。

第二帝政は、政治的に自由が制限された体制だったと同時に、鉄道、金融、商工業、都市改造などを通じて、フランスの近代化を進めた時代でもあったのです。

オスマンによるパリ改造

ナポレオン3世の内政で特に有名なのがパリ改造です。このパリ改造を進めた人物が、セーヌ県知事のオスマンです。

オスマンは、ナポレオン3世のもとで、パリの大規模な都市改造を進めました。

狭く入り組んだ古い街路を改め、広い道路を通し、公園や広場、上下水道などを整備。現在のパリにつながる近代都市の姿が形作られました。

この都市改造は、広い道路は交通を便利にするだけでなく、治安維持や軍隊の移動にも役立つことになります。パリ改造は都市の近代化であると同時に、都市を管理しやすくする政策でもあったのです。

その反面、古い労働者地区が再編され、そこに住んでいた人々が移動を迫られることもあったようですが…

この出来事は、第二帝政の特徴をよく表しています。ナポレオン3世は近代化を進めながらも、社会や政治を上から管理しようとしていました。

自由帝政への変化

第二帝政は、1860年代に入ると少しずつ自由化していきます。議会の発言権が広がり、言論統制も以前より緩められていきました。

このように、1860年代以降の第二帝政は「自由帝政」と呼ばれることがあります。

れきぶろ
れきぶろ

後述しますが、クリミア戦争イタリア統一戦争の中でオーストリアに勝利し、ナポレオン3世の威信が高まったことも無関係ではありません。

もちろん、自由帝政といっても完全な議会制民主主義になったわけではなく、皇帝権力は依然として大きな力を持っていました。

ナポレオン3世は、皇帝としての権力を維持しながら、反対派や世論に対応するために、政治の自由化を進めたのです。

ナポレオン3世の対外政策

ナポレオン3世は、国内の近代化だけでなく対外政策にも積極的でした。

彼はナポレオン1世の時代のようなフランスの国際的地位を取り戻そうとして、ヨーロッパや海外の問題に深く関わります。

そんなナポレオン3世の対外政策として進められた対外戦争で、フランスは成功も失敗も経験しました。そして、その動きは19世紀後半のヨーロッパ再編と深く関わっていきます。

クリミア戦争とフランスの地位回復

ナポレオン3世の対外政策で、まず押さえておきたいのがクリミア戦争です。

クリミア戦争では、ロシアの南下政策に対してイギリスなどと共にオスマン帝国を支援してロシアに対抗。この戦争でフランスは国際政治の中心に戻りました。

クリミア戦争
クリミア戦争

↑黒海南部まで進出していたロシアは戦後に勢力を減らした。
この後も引き続き貿易ルートの獲得を目指すことに

ナポレオン戦争後のウィーン体制が揺らぎ、クリミア戦争を通じてフランスが再びヨーロッパ政治で大きな存在感を示すようになっています。この揺らぎの中で、次にイタリア統一やドイツ統一が進んでいきました。

イタリア統一への関与

ナポレオン3世の対外政策で、次の記事につながる重要なテーマがイタリア統一です。

当時のイタリアはまだ一つの国家ではなく、北イタリアの一部はオーストリアの影響下にありました。イタリア統一を進めるには、オーストリアの力を弱める必要があったのです。

そこで中心となったのが、統一を主導しようと動き始めていた国…北西イタリアにあるサルデーニャ王国でした。首相カヴールはイタリア統一を進めるため、フランスのナポレオン3世に接近します。

こうして、1859年。フランスはサルデーニャ王国を支援してオーストリアと戦うことに。結果、サルデーニャ王国はロンバルディアを獲得し、イタリア統一の流れは大きく前進しました。

ただし、ナポレオン3世はイタリア統一を最後まで一貫して支援したわけではありません。

フランスは見返りとしてニースとサヴォイアを獲得しますが、同時に、ナポレオン3世は以前からローマ教皇を保護する立場でもあったため、イタリア統一を全面的に後押しすることはできませんでした。

当時のローマ教皇はローマ周辺の教皇領を支配していたため、ローマを含むイタリア統一を進めようとすると、教皇を守るフランスの立場とぶつかってしまったのです。

Q
ナポレオン3世がローマ教皇を保護していた経緯

1848年革命の中で、ローマ教皇領でローマ共和国が成立し、教皇ピウス9世はローマを離れました。当時、大統領だったルイ=ナポレオンは、1849年にフランス軍をローマへ派遣。ローマ共和国を倒し、教皇権力を回復させました。

その後もフランス軍はローマに駐留し、1870年の普仏戦争で撤退するまで教皇領を支えていました。

つまり、ナポレオン3世はイタリア統一を進めるきっかけを作った一方で、統一を複雑にする存在でもありました。

メキシコ出兵の失敗

ナポレオン3世の対外政策には、ヨーロッパ以外への進出もありました。その代表例が1861年のメキシコ出兵です。

ナポレオン3世は、オーストリア皇帝の弟であるマクシミリアンをメキシコ皇帝として立て、メキシコに親フランス的な君主国を作ろうとします。

れきぶろ
れきぶろ

当時のフランスは、オスマン帝国内…現エジプトでスエズ運河の建設(1869年開通)を進めていました。ラテンアメリカでも似たような構想で運河を…と考えていたようです。

ちなみに、実際にフランスがメキシコへ介入できたのは、以下のような背景があったためです。

  • メキシコ共和国では、1857年憲法をめぐって自由主義派と保守派の対立が内戦化(レフォルマ戦争/1857~61年)
  • アメリカ大陸に対するヨーロッパ勢力の介入を警戒していたアメリカが南北戦争(1861~65年)
Q
メキシコの歴史を簡単に

現メキシコにあたる地域には、かつてアステカ帝国がありましたが、16世紀にスペイン人のコルテスによって征服され、その後はスペインの植民地となります。

18世紀後半になると、アメリカ独立戦争フランス革命の影響もあり、植民地でも独立や自由を求める考えが広がっていきました。さらに1808年、ナポレオンがスペインへ侵攻すると、スペイン本国の支配が大きく揺らぎます(スペイン反乱)。

こうした中で、1810年にメキシコ独立革命が始まり、1821年にメキシコはスペインから独立。共和国が成立するのですが、独立後のメキシコでは政治的な混乱が続きます。

この不安定さが、後のフランス介入の背景となりました。

これはフランスの影響力をアメリカ大陸に広げようとする政策でしたが、試みは失敗に終わります。メキシコ国内では抵抗が続き、さらに隣国のアメリカ合衆国もフランスの介入に反発していました。

南北戦争を終結させたアメリカはフランスに対して圧力を強め、最終的にフランス軍は撤退。マクシミリアンは処刑されています。

クリミア戦争やイタリア統一への関与は、ナポレオン3世の威信を高める面がありましたが、メキシコ出兵で威信を傷つけました。

そして、最後に第二帝政そのものを崩壊させる決定的な出来事となったのが、プロイセンとの戦争・普仏戦争です。

なお、ナポレオン3世の時代にはアロー戦争でイギリスとともに清へ出兵し、ベトナム方面への出兵も行われました。フランスはコーチシナの一部を獲得し、のちのフランス領インドシナにつながっていきますが、この記事ではヨーロッパ再編との関係を中心に見るため、詳しくは扱いません。

普仏戦争と第二帝政の崩壊

ウィーン体制下でオーストリアを盟主として1815年に成立したドイツ連邦は、1848年革命でオーストリアの力が揺らぐとドイツ内でのパワーバランスが変化するようになりました。

そんな中で1866年にオーストリアとプロイセンが主導権争いとして普墺戦争(1866年)がおこります。

この普墺戦争に勝利したプロイセンは北ドイツ連邦(1867~71年)を成立させ、鉄血宰相・ビスマルクを中心にドイツ統一を進めていました。

プロイセンが力を強めることはフランスにとって大きな脅威となります(逆もしかり)。フランスとプロイセンの対立は深まり、1870年、普仏戦争が始まりました。

ところが、フランス軍はプロイセン軍に敗北。1870年、セダンの戦いでナポレオン3世は捕虜となりました。

皇帝が捕虜になるという事態は、第二帝政にとって決定的でした。

帝政の自由化が進んだ1860年代には反対派の動きも強まり(裏を返せば、皇帝への圧力があったから対応を迫られ自由化が進んだともいえます)、メキシコ出兵の失敗などによってナポレオン3世の対外政策への不満も広がっていました。そうした中で、普仏戦争に敗れ、皇帝自身が捕虜となったため、帝政を支える正統性を大きく失わせる出来事として人々に捉えられてしまったのです。

こうして、1852年に始まった第二帝政は1870年に崩壊し、第三共和政が成立しました。

一方で、普仏戦争はドイツ統一にも直結します。

プロイセンはフランスに勝利したことでドイツ諸邦をまとめる力を獲得、1871年にはドイツ帝国が成立します。

つまり、普仏戦争はフランス史だけでなく、ドイツ統一史の重要な転換点ともなったのでした。

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歴ブロ・歴ぴよ
歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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