フランス革命で政治体制はどう変わった?絶対王政から共和政・帝政まで
フランス革命というと、バスティーユ牢獄襲撃やルイ16世の処刑、ロベスピエールの恐怖政治、ナポレオンの登場などがよく知られています。しかし、これらの出来事を一つずつ追うだけでは、フランス革命全体の流れは少しわかりにくくなります。
そこで注目したいのが、政治体制の変化です。
- 絶対王政
国王に強い権力が集中した体制 - 立憲君主政
君主の存在は認めるが憲法や法律で権限を制限する - 共和政
君主を置かず、国民やその代表者が政治を担う体制 - 総裁政府
5人の総裁が主導 - 統領政府
3人の統領が主導(ナポレオンが第一統領) - 第一帝政
ナポレオン1世として皇帝に - ブルボン朝復活
ルイ18世が国王に復活
このように、フランスでは革命前の絶対王政から政治の形が何度も変わっています。
なお、革命の進行とともに政治を担う会議体も変化しました。
- 全国三部会
財政危機を背景にルイ16世が招集 - 国民議会・憲法制定国民議会/1789~1791年
第三身分を中心に成立し、1791年憲法の制定へ向かう - 立法議会/1791〜1792年
立憲君主政のもとで政治を担う - 国民公会/1792~1795年
王政を廃止し、共和政を進める - 五百人会・元老会/1795〜1799年
総裁政府のもとで置かれた二院制議会
会議体とは、明確な目的のもとで組織としての意思決定を行う会議のことを言います。
※統領政府では形式上複数の機関が置かれましたが、割愛。ここでは押さえたい会議体に絞って紹介しています。
今回は、フランス革命からナポレオン時代にかけて、フランスの政治体制がどのように変化していったのかを整理していきます。
- フランス革命期の政治体制の変化/関係年表
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1789年全国三部会の開催・国民議会の成立
財政危機をきっかけに国王により全国三部会が開催
第三身分を中心に国民議会が成立1789年バスティーユ牢獄襲撃・人権宣言民衆運動が広がり、封建的特権の廃止や人権宣言によって旧制度が大きく揺らいだ
1791年1791年憲法と立憲君主政国王の権限を憲法で制限し、王を残したまま政治を行う立憲君主政が始まる
1792年王政廃止・共和政成立対外戦争や王への不信が高まり、王政が廃止され、フランスは共和政へ移行
1793年ルイ16世処刑・恐怖政治へ国王処刑後、国内外の危機が深まり、公安委員会を中心とする恐怖政治へ
1794年テルミドール9日のクーデタロベスピエールが失脚し、恐怖政治が終わる
1795年総裁政府成立5人の総裁が政治を担う体制になるが、政治は安定せず
1799年ブリュメール18日のクーデタ・統領政府成立ナポレオンがクーデタで権力を握り、第一統領としてフランス政治の中心になる
1804年ナポレオン皇帝即位・第一帝政成立ナポレオンが皇帝に即位し、フランスは共和政から帝政へ
1814年ブルボン復古王政ナポレオン退位後、ルイ18世が即位し、ブルボン家の王政が復活
絶対王政から立憲君主政へ
革命前のフランスは、ブルボン朝の絶対王政でした。
国王は強い権力を持ち、社会は第一身分の聖職者、第二身分の貴族、第三身分の平民に分かれていました。このような革命前の政治・社会の仕組みを、アンシャン=レジームといいます。
ですが、18世紀後半のフランスでは財政危機が深刻化し、特権身分への課税をめぐって王政は行き詰まっていました。
そこで、1789年にルイ16世は全国三部会を開きますが、第三身分の代表たちは従来の身分別投票に不満を持ち、自分たちこそ国民を代表するとして国民議会を成立させました。
ですが、国民議会の成立だけでは終わりません。その後も球戯場の誓い、バスティーユ牢獄襲撃、封建的特権の廃止、人権宣言を経て、フランスの旧制度は大きく揺らいでいきます。
とはいえ、フランス革命は最初から王政廃止を目指していたわけではありません。当初目指したのは「君主の存在は認めるが憲法や法律で権限を制限する」立憲君主政でした。
背景には理性によって社会や政治のあり方を見直そうとする啓蒙思想の影響があります。こうしてフランスは、1791年憲法によって立憲君主政へ移りました。
王を完全に否定するのではなく、王権を憲法のもとに置こうとしていたのです。
立憲君主政から共和政へ
しかし、立憲君主政は長く続きませんでした。大きな転機となったのが、1791年のヴァレンヌ逃亡事件です。ルイ16世一家は国外へ逃れようとしましたが、途中で発見され、パリへ連れ戻されました。
国王が憲法のもとで政治に関わることが前提の立憲君主政にも関わらず、国王自身が革命から逃れようとしたため「国王は本当に革命を受け入れているのか」という疑いが強まります。
さらに、フランスは革命を警戒するオーストリアやプロイセンとの戦争に突入。
戦争が始まると、国内では「国王が外国勢力と結びついているのではないか」という不信感が強まりました。その結果、民衆運動はさらに急進化していきます。
1791年憲法のもとでは立法議会が政治を担っていましたが、戦争と王への不信が重なる中で、立憲君主政を維持することは難しくなっていきます。
そして1792年、王政は廃止され、フランスは共和政へ移りました。
共和政とは、国王を置かずに政治を行う体制のことで、この時期の中心となった議会が国民公会です。この国民公会のもとでルイ16世は裁判にかけられ、1793年に処刑されました。
こうしてフランス革命は、王権を制限する段階から、王政そのものを廃止する段階へと進んでいきます。
共和政の時代/恐怖政治
王政が廃止され、共和政が成立したからといってフランスの政治がすぐに安定したわけではなく、共和政のフランスは国内外の大きな危機に直面していました。
国外では王政国家の多いヨーロッパ諸国が革命フランスを警戒し、第1回対仏大同盟が形成された一方で、国内では王政廃止や徴兵、宗教政策への反発などから、ヴァンデの反乱のような大規模な反革命運動も起こりました。
こうした状況の中で、ジャコバン派・山岳派が力を強め、公安委員会を中心とする政治が行われるようになります。
その中心人物の一人がロベスピエールです。
ロベスピエールらは革命を守るために反革命と見なした人々を厳しく取り締まったため、この時期のフランスの政治は恐怖政治と呼ばれています。恐怖政治は国内外の混乱から革命を守るという名目のもとで行われた強力な統制でしたが、こうした政治はやがて反発を招きました。
1794年、テルミドール9日のクーデタによってロベスピエールは失脚。恐怖政治は終わりを遂げ、1795年に総裁政府が成立しました。
革命は王政を倒しましたが、共和政の中で安定した政治を作ることも簡単ではありませんでした。
総裁政府からナポレオンの統領政府へ
ロベスピエール期の恐怖政治では、公安委員会と一部の指導者に大きな権力が集まった反省から総裁政府では権力の集中を防ごうとします。

恐怖政治のように、一部に権力が集中するのは危険だ。
複数人で政治を担う仕組みにしよう。
こうして出来上がったのが、5人の総裁が政治を担う仕組みをもつ総裁政府でした。
ところが、総裁政府も安定しません。フランスでは戦争が終わらずに財政難続き。さらには王政復活を求める王党派と、より急進的な共和派との対立も続いていました。
そんな政治の不安定さが続く中で、存在感を高めていったのが軍人ナポレオン=ボナパルトです。イタリア遠征などで名声を高め、軍事的な成功によって国民の支持を集めていきます。
1799年、ナポレオンはブリュメール18日のクーデタによって総裁政府を倒し、統領政府を成立させました。
統領政府では、形式上は複数の統領が置かれましたが、実際には第一統領となったナポレオンに権力が集中していきます。ナポレオンは政治の安定を進め、ナポレオン法典などによって革命の成果を制度化していきます。
フランスの人々は、長く続いた革命と戦争の混乱の中で、自由だけでなく安定も求めるようになっていたのです。
第一帝政とブルボン復古
1804年、ナポレオンは皇帝に即位し、第一帝政が成立しました。
一見すると、革命前の王政に戻ったようにも見えますが、第一帝政は、旧来の絶対王政とは異なるものでした。
ナポレオン法典により法の下の平等や私有財産の保護などが整えられ、身分ではなく能力による人材登用が重視されたという点で、ナポレオンの政治はフランス革命の成果を受け継いでいました。一方で、政治的自由は制限され、出版や言論への統制も行われ、さらにはナポレオン個人に権力が集中していきます。
つまり、第一帝政は革命の成果を制度として残した面と、強い権力集中を進めた面の両方を持っていたのです。
その後、ナポレオンはヨーロッパ各地へ勢力を広げますが、ロシア遠征の失敗や対仏大同盟との戦いによって追い詰められていきます。1814年、ナポレオンは退位し、フランスではブルボン家のルイ18世が王位につきました。
これを復古王政といいます。
ただし、復古王政でもアンシャン=レジームの完全な復活にはなりませんでした。フランス革命とナポレオン時代を経て、身分制、法制度、政治意識はすでに大きく変化していました。
王政は復活しましたが、革命前のフランスにそのまま戻ったわけではなかったのです。







