ヨーロッパ

1848年革命はなぜ失敗したのか?ドイツ統一・イタリア統一への影響をわかりやすく解説

歴ブロ

「1848年革命とは?」の記事では、1848年革命がフランス二月革命をきっかけに、ヨーロッパ各地へ広がったことを見てきました。

オーストリアではメッテルニヒが失脚し、ドイツではフランクフルト国民議会が開かれ、イタリアでは反オーストリア運動が活発化。民族の権利を求める動きが表面化していました。

しかし、その多くは短期間で鎮圧されています。

では、なぜ1848年革命は成功しなかったのでしょうか。

今回は、1848年革命が失敗した理由と、それでも19世紀ヨーロッパ史で重要とされる理由を見ていきます。

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1848年革命はなぜ失敗したのか

1848年革命が失敗した理由は、一つだけではありません。

大きく見ると、次のような理由がありました。

  • 革命勢力の目的が一致しなかったこと
  • 自由主義者、労働者、農民の求めるものがずれていたこと
  • 民族運動同士が、必ずしも協力できなかったこと
  • 保守勢力や軍隊が、まだ強い力を持っていたこと
  • オーストリア、プロイセン、ロシアなどの大国が、革命を抑える側に回ったこと

つまり、1848年革命はヨーロッパ各地に広がった大きな運動でしたが、革命を進める側が一枚岩ではなかったわけです。

一方で、王侯や貴族、軍隊、官僚組織などの保守勢力は、完全に崩れたわけではありません。

そのため、革命勢力の内部で対立が深まると、保守勢力は体制を立て直し、各地の運動を押さえ込んでいきました。

自由主義者・労働者・農民の目的とは?

1848年革命では、これまで都市を中心に広がっていた自由主義運動や労働者の運動に加えて、農民も重要な役割を持つようになりました。

しかし、彼らが求めていたものは同じではありません。

立場求めたもの
自由主義者
中産層
憲法、議会、言論の自由、参政権の拡大など
労働者失業、賃金の低下、生活苦の問題解決
農民(とくに中欧・東欧で)
領主への労働義務や封建的負担の軽減や廃止

これまでと同様に、自由主義者や中産層は古い王政や身分制を改めて政治参加できる仕組みを作ることを求め、産業化が進んだ都市部に集まった多くの労働者たちは政治制度に加えて生活そのものの改善を求めています。

対して、農民たちが求めていたものは、都市の自由主義者と同じではありませんでした。自由主義者や中産層が憲法や議会、言論の自由を重視したのに対し、とくに中欧・東欧の農民にとって切実な問題だったのは、領主への労働義務や封建的負担をなくすことでした。

れきぶろ
れきぶろ

イギリスやフランスなどの西欧では、すでに封建的な負担は弱まっていました。

フランスでは革命で封建的特権が廃止され、イギリスでは囲い込み(エンクロージャー)や産業革命などを通して農業自体が商業化しています。

下の「七月革命と二月革命の影響」を見るとわかるように、1848年革命ではドイツ・オーストリア帝国、そしてオーストリア支配下の北イタリアなど、中欧方面を中心に大きな動きが目立っています。

七月革命と二月革命の影響
『エリア別だから流れがつながる世界史』(朝日新聞出版)をもとに作成

実際に、オーストリア帝国の支配下にあったハンガリー王国などでは、領主への労働義務や農村の負担がなお大きな問題として残っていました。そのため、農民にとっては、憲法や議会の改革以上に、まず領主への負担を軽くすることが課題だったのです。

このように、同じ「古い体制への不満」から動いていても、求めるものは同じではありませんでした。

フランスでも二月革命のあとに労働者と中産層の対立が表面化しています。のちに起こる六月蜂起は、その対立を示す出来事の一つでした。

ドイツ統一が実現しなかった理由

1848年革命では、民族主義(ナショナリズム)も大きな力になりましたが、民族運動も常に協力し合ったわけではありません。

特に問題が複雑だった例として挙げられるのが、オーストリア帝国です。

1848年のフランクフルト国民議会で、ドイツをどの範囲で統一するのかが議論されました。

  • 大ドイツ主義
    オーストリアを含める案
  • 小ドイツ主義
    オーストリアを除き、プロイセンを中心とする案

この時にオーストリアの扱いをどうするかが議題となったのは、オーストリア帝国がハンガリーやチェコ、クロアチア、北イタリアなど、多くの非ドイツ系地域を抱えていたためです。

オーストリアを含めてドイツ統一を進めようとすると、ドイツ人中心の国家に非ドイツ系民族をどう位置づけるのか、という難しい問題が生まれます。

帝国内の諸民族の中には、それぞれ自治や民族的権利を求める動きもあり、同じナショナリズムであっても「ドイツ人を中心に統一を進めたい人々」と「自分たちの民族的権利を守りたい人々」との間には、利害のずれがあったのです。

こうした統一国家のあり方をめぐる意見の違いがあり、さらに議会には軍隊や行政を動かす力が弱かった以上、フランクフルト国民議会はそれ以上の結果を出すことは叶いませんでした。

最終的にプロイセン王が議会から差し出された帝冠を拒否したことで、議会主導のドイツ統一は失敗に終わっています。

イタリア統一が実現しなかった理由

イタリアでも、1848年革命は大きな意味を持ちました。

当時のイタリアも、まだ一つの国家ではありません。いくつもの国に分かれ、北イタリアの一部はオーストリアの影響下にありました。1848年には北イタリアにあるミラノやヴェネツィアで反オーストリア運動が起こります。

れきぶろ
れきぶろ

ミラノもヴェネツィアもオーストリア帝国支配下にあったロンバルド=ヴェネト王国に含まれています。

さらに、サルディーニャ王国も北イタリアの反乱に呼応してオーストリアに宣戦し、北イタリアを舞台とした戦いに突入したのでした。

サルディーニャ王国とは?

さて、この時点でのサルディーニャ王国。実をいうとオーストリア帝国に含まれていたわけではありません。ピエモンテやサルディーニャ島を中心とする独立した王国で、のちにイタリア統一の中心となる国です。

北イタリアの反オーストリア運動を利用してオーストリア勢力を北イタリアから退けようとしますが、この動きは大きな賭けでもありました。

この時点で王国が動かなければ、反オーストリア運動やイタリア統一運動の主導権が共和派や急進派に移ってしまう可能性があったため、自国を中心とする統一運動へ流れを引き寄せようとしたと考えられます。

とはいえ、イタリアの統一は簡単なことではありませんでした。

古代ローマの存在、キリスト教世界の中心としての自負やローマ教皇の存在、ルネサンス以来の文化など「一つのイタリア」を語る材料はいくつも見つかります。ですが、現実のイタリア半島は複数の国に分かれていました。北部はオーストリアの影響、中部は教皇領、南部は両シチリア王国…とすぐに政治的統一を図る状況になかったのです。

オーストリア軍の立て直し

サルディーニャが宣戦する前に起きたミラノの蜂起(ミラノの五日間)の市街戦では、一時的にオーストリア軍が撤退を余儀なくされていましたが、その後ラデツキー将軍のもとで北イタリアでの戦線を立て直すと、1848年7月のクストーツァの戦いでサルディーニャ王国軍を破ります。

これによって、サルディーニャ王国は北イタリアからオーストリアを追い出すことに失敗します。

ミラノを中心とした反オーストリア運動も押し戻され、北イタリアでのオーストリア支配は回復されていきました。ヴェネツィアはその後もしばらく抵抗を続けましたが、最終的にはオーストリアに降伏しています。

結果を見れば、この時点のサルディーニャにはイタリア統一を実現するだけの軍事力や外交力がまだ十分ではなかったと言えるでしょう。各地の革命運動も鎮圧されていきました。

ですが、この失敗は何も残さなかったわけではありません。北イタリアからオーストリアの影響を取り除くこと、そしてサルディーニャ王国を中心に統一を進めることが、今後の大きな課題として残ったのです。

1848年革命は本当に無意味だったのか

1848年革命は、短期的には多くの地域で失敗しました。

ドイツ統一もイタリア統一も実現せず、オーストリア帝国の民族運動も多くは鎮圧されています。

だからと言って、1848年革命が完全な無意味だったとは言えません。

1848年革命は、ウィーン体制の限界を明らかにしました。メッテルニヒの失脚は、保守秩序が以前のようには保てなくなっていることを示しています。また、自由主義とナショナリズムが、ヨーロッパ政治を動かす大きな力になっていることも表面化したと言えます。

また、この「諸国民の春」が落ち着いたからと言って、1848年以前の状態に完全に戻ったわけではありません。オーストリアでは農民の封建的負担の廃止など、一部の改革は運動の成果として残りました。

一方で、ドイツ統一、イタリア統一、オーストリア帝国の多民族問題が、19世紀後半のヨーロッパを動かす大きな課題として残りました。これからヨーロッパが向き合う問題をはっきりさせた革命だったと言えるのです。

19世紀後半のヨーロッパへ

列強が協力してヨーロッパの秩序を守るというウィーン体制のあり方が揺らいでいく流れの中で起こったのが、クリミア戦争です。

この戦いでは、ロシア、オスマン帝国、イギリス、フランスなどの利害がぶつかり、これまでの列強協調はさらに弱まっていきます。

また、イタリアではサルディーニャ王国を中心に統一運動が進み、ドイツではプロイセンを中心とする統一が実現。一方のオーストリア帝国は、多民族国家としての難しさを抱え続けました。

フランスでも第二共和政は長く続かず、ナポレオン3世による第二帝政へ向かっていくことになるのです。

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ABOUT ME
歴ブロ・歴ぴよ
歴ブロ・歴ぴよ
歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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